
腫物草子 十二
腫物あつかいがおじょうずなかたは
もちろんいます
しかしかのじょは
腫物の恐ろしさをしらないから
じょうずにあつかえるのです
あつかえる腫物は
腫物としてはまだよわい
本物の腫物は
そとにはみえない
腫物草子 十二
腫物あつかいがおじょうずなかたは
もちろんいます
しかしかのじょは
腫物の恐ろしさをしらないから
じょうずにあつかえるのです
あつかえる腫物は
腫物としてはまだよわい
本物の腫物は
そとにはみえない
採録・初出
腫れ物扱いがお上手な方はもちろんいます。しかし彼女は腫れ物の恐ろしさを知らないから上手に扱えるのです。扱える腫れ物は腫れ物としてはまだ弱い。本物の腫れ物は外には見えない。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
人との距離の取り方が、とても上手な人がいます。相手の機嫌を損ねることなく、必要なことを伝え、気まずい場面でも穏やかに振る舞うことのできる人です。私は、そうした人を見ると感心することがあります。自分には難しいと思える相手とも、ごく自然に話している。その姿は頼もしくも見えますし、少し羨ましくもあります。けれども、その上手さを見ているうちに、私は一つの疑問を抱くようになりました。誰かを上手に扱えるということは、その人のことをよく理解しているということなのでしょうか。それとも、知らないからこそ、ためらわずに接することができる場合もあるのでしょうか。
この一葉では、「腫物あつかいがおじょうずなかたはもちろんいます」と書きました。「おじょうずなかた」という丁寧な言い方には、少し皮肉な響きがあるかもしれません。私は彼女の振る舞いを認めています。実際に、腫物として扱われている人と、何の問題もなく接することのできる人はいるでしょう。しかし、その上手さを手放しで称賛することには、どこかためらいがありました。彼女が腫物を上手に扱っているのは、腫物の恐ろしさを知らないからなのではないか。私は、そのように考えてみたのです。ただし、ここでいう恐ろしさとは、腫物と呼ばれる人の性格が恐ろしいという意味ではありません。むしろ、その人との関係において、誰もが自由に振る舞えなくなってしまうことの恐ろしさなのだと思います。
たとえば、ある人に対して、誰も意見を言えなくなっているとします。何かを指摘すれば機嫌を損ねるかもしれない。距離を置けば、関係を壊してしまうかもしれない。そうしたことを恐れるうちに、周囲の人々は、その人に何も言わないことを当たり前のように受け入れていくのでしょう。けれども、その人が腫物として扱われていることは、表には現れません。むしろ、誰もが親しげに話しかけ、穏やかな関係を保っているように見えるかもしれません。そのような場所へ、事情を知らない人がやって来たとしたら、どうでしょう。周囲が遠慮していることも、触れてはいけないとされている話題も知らず、ごく普通に接することができるかもしれません。彼女の上手さは、そうした恐れを共有していないところから生まれている可能性があるのです。
もちろん、私は、知らないことが優れているとも、恐れている人の方が物事を深く理解しているとも思いません。周囲の恐れが、実際には思い込みであることもあるでしょう。誰もが難しい相手だと思っていた人が、彼女とは何の問題もなく話せるのだとしたら、それまでの接し方を見直すきっかけになるかもしれません。反対に、彼女が知らずに踏み込んだことで、思いがけない問題が起こることもあるでしょう。大切なのは、彼女が上手に扱えたという事実だけでは、その人を取り巻く関係のすべてがわかるわけではないということです。上手に接することができるという能力と、その相手に対して人々が何を恐れているのかを理解することは、必ずしも同じではないのだと思います。
この一葉の後半には、「あつかえる腫物は腫物としてはまだよわい」と書きました。ここでいう「よわい」は、その人の人格や能力についての評価ではありません。腫物としての触れられなさが、まだ絶対的なものにはなっていない、という意味に近いのでしょう。相手との距離を調整し、必要なときには意見を言い、場合によっては関係を変えることもできる。そのような余地が残されているなら、少なくとも、その関係では腫物を扱うことができています。けれども、本物の腫物と呼ばれる存在に対しては、そうした余地そのものが失われているのかもしれません。近づくことを恐れているのではなく、遠ざけることを恐れている。触れれば痛むから避けるのではなく、避けることによって何が起こるのかわからないから、避けることさえできないのです。
第八葉から第十一葉では、誰かを腫物にすることができても、本物の腫物だけは腫物にできないという関係について考えてきました。そこには、孤独に耐えられないとされる人を遠ざけたとき、何が起こるのかを周囲が恐れているという可能性があります。つまり、本物の腫物とは、誰もが恐れて避ける人ではなく、恐れているからこそ避けることのできない人なのかもしれません。ただし、その人が本当に孤独に耐えられないのか、周囲がそう思い込んでいるだけなのかはわかりませんし、本人に他者を支配する意思があるとも限りません。私が気になっているのは、その人自身の性質よりも、周囲の恐れや遠慮によって、誰も関係を変えられなくなっているということなのです。
そう考えると、「本物の腫物はそとにはみえない」という最後の言葉には、もう少し複雑な意味があるように思います。腫物という言葉は、もともと身体の表面に現れるものを思わせます。腫れているから、そこに何かがあるとわかる。触れれば痛むかもしれないから、慎重に扱う。けれども、人間関係のなかにある本物の腫物は、必ずしもそのように姿を現すわけではありません。誰もがその人に親しく接し、何事もないように過ごしている。その穏やかな光景だけを見れば、そこに腫物が存在しているとは思わないでしょう。しかし、その穏やかさが、誰も異議を唱えず、誰も距離を置かないことによって保たれているのだとしたら、私たちが見ているのは、腫物が存在しない状態ではなく、腫物であることを表に出せない状態なのかもしれません。
私は、本物の腫物が外には見えないということを、その人の内面に恐ろしい本性が隠されているという意味では考えていません。むしろ、外からその人だけを眺めても、腫物であることはわからないということなのだと思います。誰がその人に意見を言えるのか。誰がその人から離れられるのか。何を言わないことによって、その場の平穏が保たれているのか。そうした関係のあり方を見なければ、腫物としての触れられなさは見えてこないのでしょう。さらに言えば、その関係の内側にいる人々にとってさえ、自分たちの遠慮が当たり前になってしまえば、特別な扱いをしているという意識は失われていくのかもしれません。本物の腫物が見えないのは、何かが巧妙に隠されているからではなく、誰もがその状態に慣れてしまっているからなのではないでしょうか。
では、腫物扱いの上手な彼女は、何を見ていたのでしょう。私は、彼女が腫物の恐ろしさを知らないから上手に扱えるのだと書きました。しかし、そう言い切る私自身も、彼女が何を知っていて、何を知らないのかを確かめたわけではありません。彼女は、周囲の恐れに気づいていながら、あえてそれに従わないのかもしれませんし、その人と関わることによって、ほかの人々が知らなかった一面を見ているのかもしれません。だとすれば、私が彼女の上手さを無知によって説明しようとしたのは、自分には恐ろしいものを、彼女が恐れずに扱えることへの戸惑いだったのかもしれません。私は彼女を理解しているつもりで、彼女にもまた、自分の知らない部分があることを忘れかけていたのでしょう。
この一葉を書きながら、私は、誰かを上手に扱うことと、その人との関係を自由に結べることは、必ずしも同じではないのだと考えていました。相手の機嫌を損ねないように振る舞う技術があっても、その人に言いたいことを言えず、必要なときに距離を置くこともできないのだとしたら、それを本当に上手な関係と呼べるのでしょうか。反対に、恐れていた相手と自然に話せる人が現れたことで、それまで触れられないと思っていたものに、触れる余地が生まれることもあるでしょう。私は、彼女の上手さのなかに、そうした可能性も残しておきたいと思います。
本物の腫物は、外には見えない。けれども、見えないからといって、どこかに必ず本物の腫物が隠れていると決めつけることもできません。誰もが遠慮しているように見えても、それが互いを尊重した結果であることもあるでしょう。私は、誰かを本物の腫物として見つけ出したいわけではないのです。ただ、腫物として扱われている人だけを見ていては、腫物として扱うことさえできない関係を見落としてしまうのではないかと思います。そして、誰かを上手に扱えたというだけで、その人を取り巻く関係のすべてを理解したつもりにもなりたくありません。私が知りたいのは、誰が本物の腫物なのかということよりも、私たちが誰に触れることを恐れ、誰から離れることを恐れているのか、ということなのかもしれません。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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