腫物草子 三
わたしが腫物でいるあいだは
わたしは
いきている実感がもてないのです
腫物あつかいされていない
ときのほうが
わたしは
存在していたのかもしれません
腫物草子 三
わたしが腫物でいるあいだは
わたしは
いきている実感がもてないのです
腫物あつかいされていない
ときのほうが
わたしは
存在していたのかもしれません
採録・初出
私が腫れ物でいる間は、私は生きている実感が持てないのです。腫れ物扱いされていない時の方が、私は存在していたのかもしれません。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
人から気を遣われることは、必ずしも嫌なことではありません。
自分のことを考えてくれているのだと思えば、ありがたく感じることもあります。傷つかないように言葉を選んでくれたり、無理をさせないように配慮してくれたりすることは、人と人とが一緒にいるために、きっと必要なことなのでしょう。
けれども、気を遣われることが、いつも心地よいとは限りません。
何を言っても反論されない。何をしても注意されない。周囲の人たちは、私の機嫌を損ねないように、少しずつ言葉を選ぶようになる。
初めのうちは、それを優しさだと思うかもしれません。
でも、いつしか、私が何を言っても、誰も本当には聞いていないような気がしてくるのです。
この一葉では、「いきている実感がもてない」と書きました。
少し大げさな言葉に聞こえるかもしれません。腫物として扱われているからといって、実際に生きていないわけではないのですから。
それでも、人はただ息をしているだけで、自分が生きていると実感できるものなのでしょうか。
私は、誰かとのやり取りのなかで、自分がそこにいることを感じることがあります。
何気なく話しかけた言葉に返事があること。自分の意見に誰かが反対すること。思いがけず頼りにされること。誰かの言葉に腹を立てたり、自分の言葉で誰かを笑わせたりすること。
そうした出来事は、いつも楽しいものばかりではありません。
意見が食い違えば疲れることもありますし、誤解されれば悲しくなることもあります。誰かと関わることには、面倒なことがたくさんあります。
それなのに、そうした面倒なことがなくなってしまうと、私は少し寂しくなるのです。
腫物として扱われるとき、私の言葉は、相手に届く前に、何か別のものへと置き換えられてしまうように感じられます。
私が何を言いたかったかよりも、私が怒らないかどうかが大切になる。私が何を望んでいるかよりも、私をどう扱えば問題が起きないかが優先される。
そうして、私はそこにいるのに、私の言葉や振る舞いが、誰かに何かをもたらす機会は少なくなっていきます。
誰も私を否定しない代わりに、誰も私と向き合わなくなる。
そのとき、私はいったい、誰と一緒にいるのでしょう。
ここで「生きている」と「存在している」という、よく似た二つの言葉について考えてみたいと思います。
生きているということは、自分の内側から感じることなのかもしれません。一方、存在しているということには、自分がこの世界のどこかに位置を持ち、誰かや何かと関わっているという意味もあるように思います。
もちろん、人と関わらなければ存在できない、ということではありません。
誰とも話さず、ひとりで静かに過ごしているときにも、私たちは確かに存在しています。孤独であることが、そのまま存在の喪失になるわけでもないでしょう。
ただ、自分でひとりになることと、誰かから触れられないものとして扱われることは、同じではありません。
私は、誰かと関わらないことを選ぶことができます。けれども、周囲の人たちが私との関わりを避けるようになったとき、そこには、私だけでは選び直せないものが生まれてしまいます。
この一葉には、「腫物あつかいされていないときのほうが」という言葉があります。
私は、以前の人間関係が、今よりも優れていたと言いたいわけではありません。
以前には、嫌なこともあったでしょう。誰かに叱られたり、傷つけられたり、思いどおりにならないことも、たくさんあったはずです。
けれども、少なくともそのとき、私は誰かにとって、応答する必要のある相手だったのではないでしょうか。
私が何かを言えば、誰かが何かを返してくる。その返事によって私の考えが変わり、私の言葉によって相手の考えも変わる。
そんな当たり前のことが、腫物として扱われるようになってから、遠ざかってしまったように感じるのです。
そして、もう一つ。
この一葉では、「存在していた」と過去の形で書いています。
今も私はここにいるのに、存在していたのは、むしろ以前の私だったのかもしれない。
この言い方には、自分でも少し戸惑いがあります。
本当は、今の私も確かに存在しているはずです。誰かが私を避けていたとしても、私という人間が消えてしまうわけではありません。
それなのに、以前の方が存在していたように感じられる。
ここには、実際に存在することと、存在していると実感できることとの、埋めがたい隔たりがあるように思います。
第一葉では、腫物とは誰のことなのかを考えました。第二葉では、腫物にすることと、腫物にされることが、同時に起こり得るのではないかと考えました。
そして第三葉では、その関係のなかに置かれた私自身が、どうなってしまうのかを考えています。
腫物にされることは、必ずしも誰かから攻撃されることではありません。
むしろ、何もされなくなることなのかもしれません。
けれども、何もされないということは、必ずしも何も失わないということではないのでしょう。
私がここにいても、いなくても、周囲の人たちの振る舞いが変わらないのだとしたら。
そのとき私は、自分がそこにいることを、どのように確かめればよいのでしょうか。
だから、この一葉も「存在していなかった」とは結んでいません。
「存在していたのかもしれません」と結んでいます。
私の存在が失われたのか、それとも、私が自分の存在を感じられなくなっただけなのか。
その違いさえ、まだ私には、よくわからないのです。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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