
腫物草子 七
わたしが腫物になったとき
みんなはいじめてこなくなったのに
わたしはこどくになったのです
わたしを腫物にしたかれは
その事実をしらない
腫物草子 七
わたしが腫物になったとき
みんなはいじめてこなくなったのに
わたしはこどくになったのです
わたしを腫物にしたかれは
その事実をしらない
採録・初出
私が腫れ物になった時、みんなは虐めてこなくなったのに、私は孤独になったのです。私を腫れ物にした彼は、その事実を知らない。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
誰かから嫌なことをされなくなったら、それは、よいことなのだと思います。悪口を言われなくなる。からかわれなくなる。意地悪をされなくなる。それまで苦しい思いをしていた人にとって、そうした変化は、きっと大切なことでしょう。けれども、嫌なことをされなくなることと、幸せになることは、必ずしも同じではないように思います。
この一葉では、「みんなはいじめてこなくなったのに」と書きました。私は、この「のに」という言葉が気になっています。いじめられなくなったのなら、安心できるはずです。少なくとも、苦しみの一つはなくなったのですから、喜んでもよいはずでしょう。ところが、そのあとに続くのは、「わたしはこどくになったのです」という言葉です。いじめがなくなったのに、孤独になってしまった。一見すると、少し不思議なことのように思えます。
けれども、人と人との関係は、嫌なことをするか、しないかという二つだけで成り立っているわけではありません。誰かに話しかけること。何気ない冗談を言うこと。一緒に何かをすること。意見を交わすこと。そうした日々の小さなやり取りのなかで、私たちは互いの存在を確かめているのかもしれません。もちろん、いじめをそのような関わりの一つとして肯定したいわけではありません。人を傷つけることと、人と関わることは違います。ただ、誰かを傷つけることをやめるときに、その人との関わりそのものまでやめてしまったら、どうなるのでしょう。
たとえば、ある人に不用意なことを言って、傷つけてしまったとします。次からは気をつけようと思う。それは、とても大切なことです。けれども、何を言えば傷つけてしまうのかわからないから、もう何も言わないことにする。何をすれば怒らせてしまうのかわからないから、なるべく関わらないようにする。そうして、傷つけないための配慮が、いつの間にか、その人を遠ざけるための振る舞いになってしまうことがあります。そこには悪意がないのかもしれません。それでも、遠ざけられた人の側には、誰からも近づいてもらえなくなったという事実が残ります。
ここで、私は「腫物になったとき」という表現について考えてみたいと思います。「腫物にされたとき」ではなく、「腫物になったとき」。誰かが私を腫物として扱い始め、その扱いが周囲にも広がり、やがて私に触れないことが当たり前になっていく。そうすると、最初に誰がそうしたのかということさえ、わからなくなってしまうのかもしれません。誰も私をいじめていない。誰も私に嫌なことを言わない。けれども、誰も私に話しかけなくなってしまった。そのような状態になったとき、私は誰に、何を訴えればよいのでしょう。
ただ、私は、誰かに自分と関わることを強制したいわけではありません。人には、誰と関わるかを選ぶ自由があります。苦手な人から距離を置くことも、自分を守るために関係を断つことも、必要な場合があるでしょう。けれども、一人ひとりが自分の意思で距離を置いていることと、誰かを腫物として扱うことが集団のなかで当たり前になっていることは、同じではないように思います。そこでは、誰も明確に命令していないのに、誰もが同じように振る舞うことがあります。そして、そのことさえ、誰も不思議に思わなくなるのです。
第五葉では、私が肩身の狭い思いをしている一方で、周囲には調和が生まれているように感じられる、と書きました。この第七葉で描かれているのも、その調和の一つの姿なのかもしれません。いじめる人がいなくなったことで争いはなくなった。けれども、その平穏のなかで、私は孤独になってしまった。もし、そのようなことが起きているのだとしたら、何をもって人間関係がよくなったと言えばよいのでしょう。いじめがなくなったという事実だけで、その人がもう苦しんでいないと考えてしまうことには、慎重でありたいのです。
そして、この一葉には、もう一人の人物が登場します。「わたしを腫物にしたかれ」です。ここで私は、「みんな」と「かれ」を分けて書いています。みんなはいじめてこなくなった。けれども、私を腫物にしたのは、彼なのです。彼がどのようにして私を腫物にしたのか、この一葉だけではわかりません。周囲に何かを言ったのかもしれませんし、彼自身の振る舞いが、ほかの人たちにも影響したのかもしれません。ただ、彼の行為と、みんなの振る舞いと、私の孤独が、つながっているように描かれています。
この一葉の最後には、「その事実をしらない」と書きました。私は、この言葉に少し冷たい響きを感じています。彼は、私を腫物にした。その結果、みんなはいじめてこなくなった。けれども、私は孤独になった。そして彼は、そのことを知らない。もし彼が、私を傷つけないために腫物として扱っていたのだとしたら、自分の振る舞いによって私が孤独になってしまったことを、想像もしていないのかもしれません。
けれども、私はここで、もう一つのことを考えてしまいます。彼が知らないということを、私はどうして知っているのでしょう。私は、彼に自分の孤独を伝えたのでしょうか。それとも、彼はきっと知らないのだと、私自身が考えているだけなのでしょうか。彼の心のなかを確かめることはできません。だから、「その事実をしらない」という言葉には、私の側から見た彼の姿も含まれているのだと思います。しかし、たとえ本当に知らなかったのだとしても、知らなかったということだけで、その行為がもたらした結果まで消えるわけではありません。反対に、結果が生じたからといって、彼が最初からそれを望んでいたと決めつけることもできないでしょう。
第三葉では、腫物でいるあいだ、私は生きている実感が持てない、と書きました。第七葉では、その感覚が孤独という言葉になって現れています。ただし、私は孤独そのものが悪いことだとは思いません。一人で過ごす時間は、とても大切です。けれども、自分で選んだ孤独と、誰からも関わってもらえなくなったことで生まれる孤独は、同じではありません。一人でいたいときに、一人でいられること。そして、誰かと関わりたいときに、関わることのできる余地が残されていること。私は、その両方が大切なのだと思います。
この一葉を書きながら、私は、いじめがなくなったあとに何が残るのかということを考えていました。誰かを傷つけることをやめることと、その人を一人の人間として迎え入れること。そのあいだには、まだ、ずいぶん距離があるのかもしれません。そして、その距離のなかに、孤独というものが生まれるのでしょう。
私は、彼を責めたいのでしょうか。それとも、ただ知ってほしいのでしょうか。自分が腫物として扱われることで、何が変わってしまったのか。いじめられなくなったことを喜びながら、それでも孤独になってしまった自分がいることを。もし彼がそのことを知ったなら、何かが変わるのでしょうか。それとも、彼はますます私に触れられなくなるのでしょうか。
私には、まだわかりません。ただ、私が孤独になったという事実は、彼がそれを知っているかどうかにかかわらず、私のなかに残っています。そして私は、誰からもいじめられなくなったその場所で、誰かが私の孤独に気づいてくれることを、まだ待っているのかもしれません。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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