
腫物草子 八
本当の腫物はしらない
わたしを腫物にすることで
本物の腫物を
腫物にしないことで
腫物にできてしまっている
ということを
腫物草子 八
本当の腫物はしらない
わたしを腫物にすることで
本物の腫物を
腫物にしないことで
腫物にできてしまっている
ということを
採録・初出
本当の腫れ物は知らない。私を腫れ物にする事で本物の腫れ物を、腫れ物にしない事で腫れ物にできてしまっているという事を。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
誰かを腫物として扱うとき、私たちは、その人が腫物だから特別な扱いをしているのだと思っています。触れれば痛むかもしれない。何かを言えば怒らせてしまうかもしれない。そんなふうに考えて、なるべく関わらないようにする。けれども、もし、本当に触れることのできない人が、別のところにいたとしたら、どうでしょう。この一葉では、「本当の腫物」と「本物の腫物」という、よく似た二つの言葉を使っています。どちらも同じ意味のように聞こえるかもしれませんが、私は、そこに少し違うものを見ています。
「本当の腫物」という言葉には、私たちが腫物だと思っている人と、実際に腫物として振る舞っている人が、違うのではないかという疑いがあります。私は腫物として扱われています。けれども、私を恐れ、私との関わりを避け、私を特別な存在にしているのは彼なのです。そうだとすれば、本当の腫物は、私ではなく、彼の方なのかもしれません。一方、「本物の腫物」という言葉には、もう少し厄介な意味があります。それは、腫物として扱われている人ではなく、腫物として扱うことさえできない人のことです。たとえば、誰も逆らえない人がいたとします。誰かが間違いを指摘すれば怒り出すかもしれない。機嫌を損ねれば、その場にいられなくなるかもしれない。そんなことを恐れて、周囲の人々は何も言わなくなります。けれども、その人が腫物だとは、誰も口にしません。むしろ、何事もないように接し、その人を普通の人として扱おうとするのです。私は、そのような人のことを「本物の腫物」と呼んでみたくなりました。
もちろん、その人自身が本当に恐ろしい人間であるとは限りません。周囲が勝手に恐れているだけかもしれませんし、過去の出来事によって、そうした関係が生まれてしまったのかもしれません。ただ、実際に誰も触れられないという状態が、そこにあるのです。ここで不思議なのは、本物の腫物が、必ずしも腫物として扱われないことです。私を腫物として扱う彼は、私には距離を置くことができます。私との関わりを避け、周囲にも同じような態度を取らせることができるかもしれません。けれども、本物の腫物に対しては、同じことができないのです。その人を腫物として扱うこと自体が、恐ろしいのかもしれません。だから、彼はその人を腫物にしない。しかし、腫物にしないという判断によって、誰もその人に触れられない状態が守られてしまう。特別扱いしないことが、かえって特別扱いになっているのです。
この一葉で書いた「腫物にしないことで腫物にできてしまっている」という言葉は、そのような逆説を表しています。普通に扱っているように見えることと、普通に関わることができていることは、同じではありません。何も言われないことが尊重を意味する場合もあれば、誰も何も言えなくなっている場合もあります。そして、その違いは、外から見ただけではわからないことがあるのでしょう。私は、「本当」という言葉が、誰を腫物と見なしているのかという認識の問題に関わっているように思えます。一方、「本物」という言葉は、実際に誰も触れられなくなっているという、関係のあり方に関わっています。本当の腫物は、私を腫物にする彼なのかもしれません。けれども、本物の腫物は、彼でさえ腫物にできないところにいるのかもしれないのです。そして、その二人が、必ずしも同じ人物である必要はありません。
ここで私は、もう一つ考えなければならなくなります。もし、本物の腫物を腫物にできないのだとしたら、なぜ彼は、私を腫物にすることができたのでしょう。私なら腫物にしても大丈夫だと思ったのでしょうか。私を遠ざけても、何も困らないと思ったのでしょうか。それとも、私を腫物にすることで、誰か別の人との関係を守ろうとしたのでしょうか。その理由は、私にはわかりません。けれども、誰を腫物にできるのかという違いには、人と人とのあいだにある力の差が現れているように思えます。誰かに対しては言えることが、別の誰かには言えない。誰かを遠ざけることはできても、別の誰かを遠ざけることはできない。そこには、単なる好き嫌いだけでは説明できない関係があるのかもしれません。ただし、腫物にできない相手の方が、いつでも強い人間であるとは限りません。誰かを恐れているからといって、その相手が実際に力を持っているとは限らないからです。人々が何を恐れ、誰に遠慮し、どのような結果を予想しているのかによって、その関係は変わっていくのでしょう。
この一葉の冒頭には、「本当の腫物はしらない」と書きました。私は、ここで、彼の無自覚さについて考えています。彼は、私を腫物にしていることには気づいているのかもしれません。けれども、その行為によって、自分自身が腫物になっていることには気づいていない。そして、本物の腫物を腫物にしないことで、かえってその人を誰も触れられない存在にしてしまっていることにも、気づいていないのかもしれません。もっとも、そう書いている私自身も、すべてを知っているわけではありません。彼が本当は何を恐れているのかも、本物の腫物と呼んだ人が、どのように感じているのかも、確かめたわけではないのです。それなのに、私は「本当の腫物」や「本物の腫物」という言葉を使って、誰かを説明しようとしている。そのことにも、少し危うさを感じています。
第一葉では、私を腫物にしている彼自身が、腫物なのかもしれないと考えました。第二葉では、私もまた、誰かを腫物にしているのかもしれないと考えました。そして、この第八葉では、腫物として扱われる人と、腫物として扱われない人の違いについて考えています。私は、本物の腫物が誰なのかを、ここで決めたいわけではありません。誰が本物で、誰が偽物なのかを決めてしまえば、結局は、誰かを腫物として名指すことになるからです。むしろ、私たちが誰を腫物として扱い、誰を腫物として扱わないのか、その違いがどのように生まれているのかを考えてみたいのです。
第七葉では、いじめられなくなった私が孤独になり、その事実を、私を腫物にした彼は知らないと書きました。第八葉では、その知らなさが、もう少し広いところへ向かっています。誰かを腫物にした人は、その人が孤独になったことを知らないかもしれない。そして、誰かを腫物にしなかった人は、その人を腫物にしてしまっていることを知らないかもしれない。何かをすることによっても、何かをしないことによっても、人と人との関係は変わってしまうのでしょう。私は、そこに少し恐ろしいものを感じています。腫物にするという行為が、必ずしも誰かを腫物と呼ぶことから始まるわけではないからです。誰かに触れないこと。何も言わないこと。問題がないものとして扱うこと。そのような、ごく静かな振る舞いのなかにも、腫物を生み出す力があるのかもしれません。
そうだとすれば、本物の腫物とは、いったい誰のことなのでしょうか。私は、その答えを知りたいと思いながら、答えが見つかってしまうことを、少し恐れてもいるのです。誰かを本物の腫物だと決めた瞬間、私自身もまた、その人を腫物にしてしまうのかもしれませんから。
(邑井らに)
腫物草子|ほかの葉
-
腫物草子 一
わたしを腫物にしてくれる彼は わたしではなく 彼じしんが腫物なのかもしれない
-
腫物草子 二
あなたが原因で わたしは腫物になっている ようにかんじます それでも わたしはあなたを 腫物にしているのかもし…
-
腫物草子 三
わたしが腫物でいるあいだは わたしは いきている実感がもてないのです 腫物あつかいされていない ときのほうが …
-
腫物草子 四
わたしを腫物にするとき かれはおびえた顔をするのです 腫物にするのは 恐れているからなのかもしれません
-
腫物草子 五
かれがわたしを腫物にするとき わたしはとても 肩身のせまいおもいをするが どうじに腫物であることが まわりに調…
-
腫物草子 六
わたしを腫物にしておきながら みんなひがいしゃのふりをするのに わたしは ひがいしゃのきもちになるのです 腫物…
-
腫物草子 七
わたしが腫物になったとき みんなはいじめてこなくなったのに わたしは孤独になったのです わたしを腫物にしたかれ…
-
腫物草子 八
本当の腫物はしらない わたしを腫物にすることで 本物の腫物を 腫物にしないことで 腫物にできてしまっている と…
-
腫物草子 九
かれは腫物でした だからだれかを腫物にできるのです ただし本物の腫物をのぞいて
-
腫物草子 十
わたしはこどくですが それは腫物だから ということではありません 腫物はこどくですが わたしを腫物にした 腫物…
-
腫物草子 十一
こどくな腫物は ひとりになれています もともとこどくだったからです しかし本物の腫物は そのこどくにたえれませ…
-
腫物草子 十二
腫物あつかいがおじょうずなかたは もちろんいます しかしかのじょは 腫物の恐ろしさをしらないから じょうずにあ…
-
腫物草子 十三
腫物は自由だ そしてわたしは腫物にされました 不自由をうばわれました
くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
改訂履歴 ダウンロード
この項目の表示は制限されています。以下のダウンロードリンク部分を閲覧できるのは、TarCoon☆NetWorkのメンバーに限られます。
コメントを残す