腫物草子 五
かれがわたしを腫物にするとき
わたしはとても
肩身のせまいおもいをするが
どうじに腫物であることが
まわりに調和をもたらしている
ようにかんじるのです
腫物草子 五
かれがわたしを腫物にするとき
わたしはとても
肩身のせまいおもいをするが
どうじに腫物であることが
まわりに調和をもたらしている
ようにかんじるのです
採録・初出
彼が私を腫れ物にする時、私はとても肩身の狭い思いをするが、同時に腫れ物であることが、周りに調和をもたらしているように感じるのです。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
人と人とのあいだに争いがないことは、よいことなのだと思います。
誰も声を荒らげず、誰も傷つけ合わず、それぞれが穏やかに過ごしている。そんな場所にいると、私たちは安心します。できることなら、その穏やかさがいつまでも続いてほしいと願うでしょう。
けれども、その穏やかさが、どのようにして保たれているのかについては、あまり考えないことがあるように思います。
この一葉では、「肩身のせまいおもいをする」と書きました。
肩身が狭いというのは、不思議な言葉です。
実際に身体が小さくなるわけではありません。それなのに、人から遠慮されたり、自分だけが周囲と違う扱いを受けたりすると、まるで自分の身体が、その場所に収まりきらなくなってしまったように感じることがあります。
誰かの邪魔にならないように、少し身体を縮める。余計なことを言わないようにする。自分の存在が、その場の空気を変えてしまわないように気をつける。
本当は何もしていないのに、そこにいるというだけで、何かを申し訳なく思ってしまう。
私は、そんな感覚を「肩身のせまい」という言葉のなかに感じています。
ただ、この一葉で考えたかったのは、私が肩身の狭い思いをしているということだけではありません。
その一方で、周囲には調和が生まれているように感じられるのです。
彼が私を腫物にすることで、ほかの人たちは安心しているのかもしれません。
私とのあいだに何か問題が起こることを心配しなくてよくなる。私に何を言えばよいのか、どう接すればよいのかと迷う必要もなくなる。私の存在を気にかけながら、それでも直接には関わらないという振る舞いが、周囲の人たちのあいだで共有されていく。
そうして、誰も困っていないように見える場所ができあがります。
けれども、私はそこにいるのです。
周囲の人たちが穏やかに過ごしているその場所に、私もまた、腫物として存在しています。
ここで、調和という言葉について考えてみたくなります。
調和とは、異なるものが互いに関わり合いながら、一つの状態をつくっていることなのでしょうか。それとも、異なるものが互いに触れないことで、何事も起こらないようにしていることなのでしょうか。
私は、どちらか一方だけが調和なのだとは、簡単には言えません。
人には、それぞれ距離が必要です。誰とでも親しくしなければならないわけではありませんし、無理に理解し合おうとすることで、かえって傷つけ合う場合もあるでしょう。
ときには、関わらないことによって保たれる平穏もあるのだと思います。
ただ、その距離を誰が決めているのかということは、気になります。
私が自分の意思で距離を置いているのなら、それは私にとっても一つの選択です。けれども、彼が私を腫物として扱い、その扱いに周囲の人たちが合わせることで距離が生まれているのなら、私はその距離を、自分で選んだとは言えないかもしれません。
みんなが安心しているように見える場所で、私だけが肩身の狭い思いをしている。
それでも、そこに争いがないのなら、調和は成立していると言えるのでしょうか。
ここで私は、調和そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、人と人とが穏やかに暮らすことは、とても大切なことだと思っています。
けれども、その穏やかさを維持するために、誰か一人が自分の存在を小さくしなければならないのだとしたら、私は少し立ち止まって考えたくなるのです。
その調和のなかに、私も含まれているのでしょうか。
それとも、私が腫物でいることが、調和の条件になっているのでしょうか。
この二つは、よく似ているようで、ずいぶん違うことのように思えます。
そして、もう一つ、気になることがあります。
私は、この一葉で「まわりに調和をもたらしている」と書いています。
「まわり」という言葉のなかには、私は含まれているのでしょうか。
ふつうに考えれば、私もその場所にいるのですから、周囲の人たちと同じ一人の人間として、そこに含まれていてよいはずです。
けれども、私が腫物として扱われることによって周囲が調和しているのなら、その調和を眺めている私は、いつの間にか、その外側に立っているようにも感じられます。
私は、そこにいながら、そこに加わっていない。
私を含んだ場所のはずなのに、私を除くことで成り立っているように見える。
そう考えると、「まわり」という何気ない言葉にも、少し寂しい響きが生まれてきます。
しかし、私は本当に、周囲の人たちが安心していることを知っているのでしょうか。
彼が私を腫物にしていることを、ほかの人たちは望んでいるのでしょうか。あるいは、ほかの人たちもまた、彼の振る舞いに戸惑いながら、どうすればよいのかわからずにいるだけなのかもしれません。
誰も何も言わないからといって、誰も困っていないとは限りません。
私には調和しているように見えるその場所にも、私からは見えない緊張や遠慮があるのかもしれないのです。
だから、この一葉では「調和をもたらしているのです」とは書きませんでした。
「調和をもたらしているようにかんじるのです」と書きました。
私が感じていることと、実際にそこで起きていることは、必ずしも同じではないからです。
第四葉では、彼が私を腫物にするとき、怯えた顔をすることについて書きました。
もし、その怯えが、私とのあいだに何かが起こることへの恐れだったのだとしたら、彼が私を腫物として扱うことは、彼自身にとっても、周囲の人たちにとっても、何かを避けるための方法になっているのかもしれません。
それが正しい方法なのかどうか、私にはわかりません。
ただ、そこで生まれている平穏のために、私が肩身の狭い思いをしているということは、忘れずにいたいのです。
かといって、私の苦しみを解消するために、今度は周囲の誰かが苦しまなければならないのだとしたら、それもまた、私の望むことではありません。
誰かが安心するために、別の誰かが居場所を失わなければならない。
そんな関係しか、私たちにはつくれないのでしょうか。
私は、そうではないと思いたいのです。
けれども、どうすればよいのかと尋ねられても、すぐに答えられるわけではありません。
人と人とが関わる以上、誰もが同じように心地よく過ごせるとは限らないでしょう。誰かの自由が、別の誰かの不自由になることもあります。
それでも、その違いを、誰か一人を腫物にすることで片づけてしまわずにいられたらと思います。
この一葉にある「どうじに」という言葉は、私にとって大切なものです。
私が肩身の狭い思いをしていることと、周囲に調和が生まれているように見えること。
どちらかが本当で、どちらかが間違いだというわけではありません。
二つのことが、同じ場所で、同じ時間に起きているのかもしれないのです。
そして、その二つが同時に成立してしまうところに、腫物というものの、厄介さがあるように思います。
私は、調和を壊したいわけではありません。
ただ、その調和のなかに、私の居場所もあってほしいのです。
腫物としてではなく、そこにいる一人の人間として。
けれども、そう願うことさえ、彼にとっては、恐ろしいことなのかもしれません。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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