腫物草子 一

わたしを腫物にしてくれる彼は
わたしではなく
彼じしんが腫物なのかもしれない

腫物草子 一

わたしを腫物にしてくれる彼は
わたしではなく
彼じしんが腫物なのかもしれない

採録・初出

散文詩自註|邑井らに

誰かを腫物として扱うとき、私たちは、そこに腫物があるのだと思っています。

触れれば痛がるかもしれない。何かを言えば怒り出すかもしれない。傷つけてしまうかもしれないし、こちらが傷つけられるかもしれない。そう思えば、なるべく触れないようにするのは、自然なことなのかもしれません。

けれども、その人は、本当に腫物なのでしょうか。

この一葉では、「わたしを腫物にしてくれる彼」と書きました。

「してくれる」という言葉には、どこか親切にされたような響きがあります。ふつうなら、何かをしてもらったことへの感謝を含む言い方でしょう。ところが、ここで彼がしてくれるのは、私を腫物として扱うことなのです。

私は、この少しおかしな言い方が気に入っています。

彼は、私に気を遣ってくれているのかもしれません。私を傷つけまいとして、言葉を選び、距離を測り、慎重に接してくれているのかもしれません。その振る舞いを、ただ冷たいものとして片づけることはできないでしょう。

それでも、彼が私を腫物として扱うことと、私自身が腫物であることは、同じではありません。

ここで少し、考えてみたいことがあります。

腫物を恐れているのは、いったい誰なのでしょう。

私は、自分が腫物であることを知らないまま、彼から腫物として扱われているのかもしれません。けれども、彼が何かを恐れ、私に触れられなくなっているのだとしたら、腫物は私の側にあるのではなく、彼の側にあるとも考えられます。

彼自身が、何かに触れられることを恐れているのかもしれないのです。

もちろん、それだけで彼を腫物だと決めつけることもできません。

私には、彼が何を恐れているのか、本当のところはわからないからです。私を恐れているのかもしれませんし、私との間に生じる何かを恐れているのかもしれません。あるいは、私には想像もつかない事情があるのかもしれません。

それなのに、私が彼を腫物だと思ってしまったら、今度は私が、彼を腫物にしてしまうことになります。

ここに、この草子の厄介なところがあります。

腫物は、誰かの身体に初めから備わっているものとは限りません。人と人とのあいだに生まれ、相手の振る舞いによって形を変え、ときには、その所在さえ入れ替わってしまうものなのかもしれません。

だからこそ、この一葉は「彼じしんが腫物なのだ」とは結んでいません。

「腫物なのかもしれない」と結んでいます。

その小さな留保を、私は大切にしたいのです。

誰かに腫物として扱われたからといって、その人が本当に腫物であるとは限らない。けれども、腫物として扱われた人が、今度は相手を腫物として見ることもある。

そうして互いに触れられなくなってしまったとき、私たちは、いったい何を腫物と呼んでいるのでしょう。

この草子は、誰が本当の腫物なのかを明らかにするためのものではありません。

腫物を見つけようとする私たちのまなざしそのものが、誰かを腫物にしてしまうのではないか。

そんな疑問から、この第一葉を書き始めました。

(邑井らに)

腫物草子|ほかの葉

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  • 腫物草子 一

    わたしを腫物にしてくれる彼は わたしではなく 彼じしんが腫物なのかもしれない

くずし字による表現について

『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。

これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。

見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。

『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。

もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。

くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。

本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。

読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。

そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。

「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。

古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。

そあん(soan)

そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。

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