腫物草子 二
あなたが原因で
わたしは腫物になっている
ようにかんじます
それでも
わたしはあなたを
腫物にしているのかもしれない
腫物草子 二
あなたが原因で
わたしは腫物になっている
ようにかんじます
それでも
わたしはあなたを
腫物にしているのかもしれない
採録・初出
あなたが原因で私は腫れ物になっているように感じます。それでも私はあなたが腫物にしているのかも知れない。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
誰かのせいで、自分がこんなふうになってしまった。そう感じることがあります。
その人さえいなければ、もっと自由に振る舞えたのに。あんなことを言われなければ、こんなに気を遣わずに済んだのに。そう思うとき、私たちは、自分の置かれた状況の原因を、相手のなかに見つけようとします。
それは、必ずしも間違ったことではありません。
実際に、誰かの言葉や振る舞いによって、居場所を失ってしまうことはあるからです。自分では何も変わっていないつもりなのに、相手の接し方が変わったことで、以前のように話せなくなってしまう。そうして、いつの間にか腫物になっていることがあります。
この一葉では、「あなたが原因で」と書きました。
ずいぶん強い言葉だと思います。原因という言葉には、物事の始まりを一つに定めてしまうようなところがあります。何が悪かったのか、誰のせいなのか。その答えが見つかれば、少しは気持ちが落ち着くのかもしれません。
けれども、そのあとに「ようにかんじます」と続けています。
私がそう感じていることと、実際にあなたがすべての原因であることは、同じではないからです。
もちろん、そう感じる私の苦しみが、間違っているということでもありません。ただ、私の見ている出来事が、その出来事のすべてなのかどうかは、まだわからないのです。
そして、この一葉には「それでも」という言葉があります。
私は、この言葉を大切にしています。
もし「それとも」と書けば、あなたが私を腫物にしているのか、私があなたを腫物にしているのか、どちらが本当なのかを選ぶ話になるでしょう。
けれども、ここで考えたかったのは、そういうことではありません。
あなたが私を腫物にしていることと、私があなたを腫物にしていることは、同時に起こり得るのではないでしょうか。
たとえば、あなたが私を避けるようになったとします。
私はその態度に傷つき、あなたに対して警戒するようになるでしょう。何を言われても悪い意味に受け取ってしまうかもしれません。あなたの言葉を疑い、あなたの振る舞いを恐れ、いつしか私の方からも距離を置くようになる。
そうすると、あなたにとっても、私は近づきにくい人間になっているのかもしれません。
そして私もまた、あなたを、触れれば何かが起きてしまう相手として扱うようになっているのです。
こうして考えると、腫物にすることと、腫物にされることは、必ずしも別々の人間に割り当てられるものではないように思えます。
ただし、ここで一つ、気をつけたいことがあります。
お互いに腫物にしているのだから、お互いさまだと言いたいわけではありません。
先に傷つけた人がいるかもしれませんし、一方がもう一方に、ずっと大きな負担を強いているのかもしれません。相手から身を守るために距離を置くことと、相手を排除するために距離を置くことも、同じではないでしょう。
互いに影響し合っているということは、互いの責任が等しいということではありません。
それでも、私が傷つけられたという事実だけで、私自身が誰かを傷つけていないことにはならないのです。
私は、このことが少し恐ろしいのです。
自分が傷ついているとき、私たちは、その傷をつけた相手のことばかり考えてしまいます。自分の苦しみを理解してほしいと思うほど、相手にもまた、私には見えていない苦しみがあるかもしれないということを、忘れてしまうのかもしれません。
だからといって、傷ついた人が、いつでも相手の気持ちまで考えなければならないとは思いません。それでは、傷つけられた人にばかり、新しい負担を求めることになってしまいます。
ただ、いつか自分の苦しみから少し離れて、相手の姿を見つめ直せるときが来たなら、そのときには、別のものが見えるかもしれません。
第一葉では、私を腫物にしている彼自身が、腫物なのかもしれないと考えました。
第二葉では、もう少し踏み込んで、私自身もまた、誰かを腫物にしているのではないかと考えています。
自分が腫物にされていると感じることと、自分が誰かを腫物にしているかもしれないと疑うこと。
その二つは、どちらか一方を選ばなければならないものではないのでしょう。
「あなたが原因で」と言いながら、「それでも」と続けること。
そこには、相手への訴えと、自分自身への問いが、どちらも残っています。
私は、そのどちらも、簡単には手放したくないのです。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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