腫物草子 十

わたしはこどくですが
それは腫物だから
ということではありません
腫物はこどくですが
わたしを腫物にした
腫物がいます

腫物草子 十

わたしはこどくですが
それは腫物だから
ということではありません
腫物はこどくですが
わたしを腫物にした
腫物がいます

採録・初出

散文詩自註|邑井らに

孤独というものは、誰かから遠ざけられることで生まれるのでしょうか。それとも、もともと私たちのなかにあるものなのでしょうか。人に囲まれていても孤独を感じることがありますし、ひとりで過ごしていても、寂しいとは思わないことがあります。そう考えると、孤独であることと、誰かと一緒にいるかどうかは、必ずしも同じ問題ではないように思います。この一葉では、そんな孤独というものについて、腫物という言葉を通して考えてみました。

私は、「わたしはこどくですが」と書きました。ここには、誰かを責める言葉も、孤独になった理由についての説明もありません。ただ、自分が孤独であるという、ひとつの状態が語られています。けれども、そのあとには「それは腫物だからということではありません」と続きます。私は腫物として扱われていますが、私の孤独を、そのことだけで説明するのは少し違うように感じたのです。腫物にされる以前から孤独だったのかもしれませんし、腫物にされたこととは別のところにも、その理由があるのかもしれません。

第七葉では、腫物になったとき、みんなはいじめてこなくなったのに、私は孤独になったと書きました。あの一葉と今回の言葉は、矛盾しているようにも見えます。けれども、ある出来事をきっかけに孤独を感じるようになることと、その孤独のすべてが、その出来事によって生まれたということは違うのでしょう。腫物にされたことで、それまで気づかなかった孤独が見えるようになったのかもしれませんし、それまでとは別の孤独が生まれたのかもしれません。私は、自分の苦しみに一つの理由を見つけることで、それ以外のものが見えなくなってしまうことを、少し恐れています。

ところが、そのあとには「腫物はこどくですが」と続きます。自分の孤独を腫物であることから切り離したばかりなのに、今度は腫物そのものを孤独な存在として語っているのです。ここには、私が感じている孤独と、腫物として扱われることによって生じる孤独との違いがあります。腫物は、触れれば何かが起こるかもしれない存在として、周囲から遠ざけられます。その意味で、腫物には孤独がつきまといます。しかし、それは必ずしも、本人が寂しさを感じているという意味ではありません。人から触れられない状態にあることと、その状態を孤独として経験することは、同じではないのでしょう。

そして、この一葉の最後には、「わたしを腫物にした腫物がいます」と書きました。腫物にされる側にいると思っていた存在が、今度は誰かを腫物にする側として現れます。第一葉では、私を腫物にする彼自身が腫物なのかもしれないと考え、第九葉では、彼は腫物だからこそ誰かを腫物にできるのだと書きました。第十葉では、その彼もまた、孤独な存在なのではないかという疑問が生まれます。

もし彼自身が腫物なのだとしたら、彼もまた、誰かに触れられることを恐れているのかもしれません。私を腫物にすることで、彼は私との間に距離を置くことができます。けれども、その距離によって、私と関わる機会も失っているのでしょう。自分が傷つくことを避けるために、先に相手を遠ざけてしまう。そうして自分を守ろうとすることが、別の誰かの孤独を生み出してしまう場合もあるのだと思います。ただし、彼自身が孤独を感じているかどうかは、私にはわかりません。たとえ彼にも孤独があったとしても、そのことが、私を腫物にしたという行為の説明にはなっても、正当化にはならないでしょう。

この一葉には、「腫物」という言葉が四度登場します。最初は私の孤独を説明する理由として持ち出され、すぐに退けられます。次には孤独な存在を表す言葉となり、最後には、腫物にされた私と、私を腫物にした者の両方を指しています。同じ言葉が繰り返されながら、その役割だけが変わっていくのです。私は、この繰り返しによって、腫物という名前が一人の人間に固定されるものではないことを考えたかったのかもしれません。私と彼がともに腫物であるとしても、そのことによって、私たちが同じ孤独を抱えているとは限らないのです。

私は孤独です。けれども、その孤独を誰か一人のせいにすることで、自分のことを理解し終えたくはありません。また、彼が腫物であるとわかったからといって、彼のことを理解できたとも思いません。私には私の孤独があり、彼には彼の孤独があるのかもしれない。その二つは、互いに関係しながらも、決して同じものではないのでしょう。私を腫物にした腫物がいるということは、私だけがこの関係のなかで触れられない存在なのではない、ということなのかもしれません。

けれども、互いに触れられない存在であることを知ったところで、私たちは近づくことができるのでしょうか。自分の孤独を理解してほしいと願うことと、相手の孤独を理解しようとすることは、よく似ているようで違います。相手の苦しみを想像できたとしても、自分の苦しみがなくなるわけではありません。それでも、互いを腫物として見ることから少しだけ離れられたなら、そこには、まだ別の関係が残されているのかもしれません。私は、その可能性まで失ってしまいたくはないのです。

(邑井らに)

腫物草子|ほかの葉

  • 腫物草子 一

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  • 腫物草子 二

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  • 腫物草子 三

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  • 腫物草子 四

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  • 腫物草子 五

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  • 腫物草子 七

    わたしが腫物になったとき みんなはいじめてこなくなったのに わたしは孤独になったのです わたしを腫物にしたかれ…

  • 腫物草子 八

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  • 腫物草子 十

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  • 腫物草子 十一

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  • 腫物草子 十二

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  • 腫物草子 十三

    腫物は自由だ そしてわたしは腫物にされました 不自由をうばわれました

くずし字による表現について

『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。

これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。

見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。

『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。

もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。

くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。

本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。

読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。

そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。

「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。

古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。

そあん(soan)

そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。

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