
腫物草子 九
かれは腫物でした
だからだれかを腫物にできるのです
ただし本物の腫物をのぞいて
腫物草子 九
かれは腫物でした
だからだれかを腫物にできるのです
ただし本物の腫物をのぞいて
採録・初出
彼は腫れ物でした。だから誰かを腫れ物にできるのです。ただし、本物の腫れ物を除いて。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
誰かを腫物として扱う人は、自分自身が腫物であることに、気づいていないのかもしれません。自分は相手に気を遣っているだけだと思っている。相手を傷つけないように、あるいは自分が傷つかないように、慎重に振る舞っているだけだと思っている。けれども、その人自身もまた、周囲から気を遣われ、触れられないように扱われているのだとしたら、どうでしょう。私は、この一葉で、そのような人のことを考えています。
第一葉では、「彼自身が腫物なのかもしれない」と書きました。ところが、第九葉では「かれは腫物でした」と言い切っています。「かもしれない」という言葉がなくなり、まるで何かが明らかになったかのようです。けれども、私はここで、彼の正体を見抜いたつもりになりたいわけではありません。むしろ、彼が私を腫物として扱うという出来事を、これまでとは反対の側から眺めてみたかったのです。私が腫物だから彼が私に触れられないのではなく、彼自身が触れられることを恐れているから、私を腫物にしているのかもしれない。そう考えてみると、彼が私にしていることの意味が、少し違って見えてきます。
この一葉には、「だから」という言葉があります。私は、この言葉に、少し強引なところがあると感じています。ふつうなら、腫物である人は、誰かから腫物として扱われる側にいるはずです。ところが、ここでは、腫物であるからこそ、誰かを腫物にできるのだと言っています。腫物であることが、腫物にされる理由ではなく、腫物にすることのできる理由になっているのです。もちろん、腫物である人が必ず誰かを腫物にするという意味ではありません。ただ、自分が触れられることを恐れている人ほど、先に相手を触れられない存在にしてしまうことがあるのではないかと、私は考えました。
たとえば、自分の弱さを知られることを恐れている人がいたとします。その人は、誰かに自分のことを尋ねられたり、間違いを指摘されたりすることを嫌がるかもしれません。けれども、周囲の人たちに、自分には触れないでほしいと率直に伝えられるとは限りません。そこで、相手の方を、触れてはいけない人として扱うようになることがあります。あの人には何も言わない方がよい。あの人とは距離を置いた方がよい。そうして相手を腫物にしてしまえば、自分からその人に近づかなくても済むようになります。自分の恐れについて語らなくても、相手との距離を保つことができるのです。
私は、ここに、腫物にすることの奇妙な便利さがあるように思います。誰かを腫物として扱えば、自分がその人を恐れているという事実を、相手の性質についての説明に置き換えることができます。私が怖がっているのではなく、あの人が怖いのだ。私が近づけないのではなく、あの人には近づかない方がよいのだ。そう考えることで、自分の恐れを、自分だけの問題として抱えずに済むのかもしれません。けれども、そうした説明が周囲にも受け入れられると、今度は相手の方が、本当に腫物であるかのように扱われるようになります。自分を守るために始めたことが、誰かを遠ざけるための力になってしまうのです。
ここで、私は「腫物にできる」という言葉について考えたいと思います。誰かを腫物にしたいと思うことと、実際に腫物にできることは、同じではありません。私が誰かを恐れていたとしても、その人を腫物として扱うことが、周囲から受け入れられるとは限らないからです。ある人が距離を置けば、周囲も同じように距離を置く。けれども、別の人が同じことをしても、誰もそれに従わない。そのような違いが生まれることがあります。そこには、その人の立場や周囲との関係、あるいは、誰の言葉が信用されやすいのかという問題があるのでしょう。腫物にすることは、必ずしも一人の意思だけで成り立つものではありません。誰かを腫物と見なすことが、ほかの人たちにも受け入れられるとき、その扱いは、一人の考えを超えて広がっていくのだと思います。
しかし、この一葉には、「ただし本物の腫物をのぞいて」という言葉が続きます。彼は誰かを腫物にすることができる。けれども、その力が、すべての人に及ぶわけではないのです。第八葉では、本物の腫物とは、腫物として扱うことさえできない存在なのではないかと考えました。周囲の人々が、その人を恐れ、気を遣い、何も言えなくなっている。それなのに、誰もその人を腫物として扱っているとは認めない。むしろ、特別扱いしていないかのように振る舞うことによって、誰も触れられない状態が保たれているのです。彼は私を腫物にすることができても、そのような本物の腫物を、同じように扱うことはできないのかもしれません。
私は、この「ただし」という言葉が気に入っています。たった三文字ですが、それまでの文章に、小さな境界をつくってしまうからです。「だからだれかを腫物にできるのです」と言い切った直後に、そうすることのできない相手が現れる。彼には誰かを腫物にする力があるように見えますが、その力には限界があるのです。そして、その限界がどこにあるのかを考えることで、彼自身が置かれている関係も見えてくるように思います。彼は誰かを恐れているのかもしれません。誰かには逆らえないのかもしれません。あるいは、本物の腫物を腫物として扱うことによって、自分自身が周囲から遠ざけられることを恐れているのかもしれません。
ただし、本物の腫物と呼ばれる人が、必ずしもほかの人より強いとは限りません。人から恐れられていることと、実際に誰かを支配できることは、同じではないからです。周囲の思い込みによって、誰も近づかなくなってしまった人もいるでしょう。本人は何も望んでいないのに、周囲の人々が勝手に遠慮し、触れられない存在にしてしまうこともあるかもしれません。だから、私は、本物の腫物を、単に恐ろしい人や、権力を持った人として描きたいわけではありません。ここで考えたいのは、その人が本当はどのような人間なのかということよりも、その人に対して、周囲の人々が何をすることができなくなっているのか、ということなのです。
そう考えると、彼もまた、不自由な人なのかもしれません。私を腫物にすることはできても、本物の腫物を腫物にすることはできない。自分が触れられたくないという気持ちを、誰かを遠ざけることによって守っているのだとしたら、彼自身もまた、自由に人と関わることができなくなっているのでしょう。けれども、その不自由さが、私を腫物として扱ってよい理由になるわけではありません。誰かを恐れているということと、その恐れによって誰かに不利益を与えることとは、別に考えなければならないからです。人が自分を守るために距離を置くことは必要です。しかし、自分が距離を置きたいという理由で、相手を誰からも触れられない存在にしてしまうのだとしたら、そこには、また別の問題が生まれます。
この一葉を書きながら、私は、腫物にする人と腫物にされる人の関係が、単純な強者と弱者の関係ではないことを考えていました。彼は私を腫物にできるという点では、私との関係において何らかの力を持っているのかもしれません。けれども、本物の腫物を腫物にできないという点では、彼自身もまた、誰かとの関係に制約を受けているのかもしれません。そして、その制約から自分を守るために、別の誰かを腫物にしている可能性もあるのでしょう。そうして、自分が触れられないものを守るために、さらに触れられないものをつくってしまう。そのようなことが、人間関係のなかでは起きているのかもしれません。
けれども、私は、ここで自分自身の言葉に戻らなければならないと思います。「かれは腫物でした」と書いた私は、いったい何をしたのでしょう。第一葉では、彼自身が腫物なのかもしれないと、疑問を残していました。それなのに、第九葉では、彼が腫物であることを、まるで確かな事実のように語っています。もし私が、彼の振る舞いを理解するためではなく、彼こそ腫物なのだと決めつけるために、この言葉を使っているのだとしたら、私もまた、彼を腫物にしていることになります。第二葉で考えたことが、ここでも繰り返されているのです。
私は、彼が腫物だったから誰かを腫物にできたのだ、という説明に、ある種の納得を感じています。けれども、その納得によって、彼のことを理解し終えたつもりになるのは、少し恐ろしいことです。彼が何を恐れていたのか、誰に触れられたくなかったのか、なぜ私を腫物にすることができたのか。そのすべてがわかったわけではありません。それなのに、彼を腫物という名前で呼ぶことで、何かを説明できたような気持ちになってしまう。私は、そうした自分自身の振る舞いにも、目を向けていたいのです。
第八葉では、腫物にしないことによって、かえって本物の腫物を腫物にしてしまうという逆説を書きました。第九葉では、その逆説のなかにいる彼自身が、腫物として現れています。彼は腫物だから、誰かを腫物にすることができる。けれども、本物の腫物だけは、腫物にすることができない。この関係がどこまで続いているのか、私にはわかりません。彼が恐れている人もまた、別の誰かを恐れているのかもしれませんし、その人自身も、誰かから腫物として扱われているのかもしれません。
そうして考えていくと、腫物というものは、一人の人間に貼りつけられた名前というより、人と人とのあいだを移り変わっていくもののように思えてきます。誰かを腫物にできる人が、別の誰かから腫物にされることもある。腫物にされている人が、さらに別の誰かを腫物にすることもある。そして、誰からも腫物にされない人が、かえって最も触れられない存在になっていることさえあるのでしょう。
私は、この一葉で、彼のことを腫物だと言い切りました。けれども、本当に知りたかったのは、彼が腫物であるかどうかではなく、なぜ彼には腫物にできる人と、腫物にできない人がいるのかということだったのかもしれません。その違いを見つめているうちに、私自身にも、腫物にできる人と、腫物にできない人がいるのではないかと考えるようになりました。彼を腫物だと言い切ることのできた私は、彼を腫物にしてもよいと思っていたのでしょうか。それとも、彼なら腫物にできると、どこかで知っていたのでしょうか。私は、まだその問いに答えることができないのです。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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