腫物草子 六
わたしを腫物にしておきながら
みんなひがいしゃのふりをするのに
わたしは
ひがいしゃのきもちになるのです
腫物はかがいしゃなはずなのに
腫物草子 六
わたしを腫物にしておきながら
みんなひがいしゃのふりをするのに
わたしは
ひがいしゃのきもちになるのです
腫物はかがいしゃなはずなのに
採録・初出
私を腫れ物にしておきながら、みんな被害者のふりをするのに、私は被害者の気持ちになるのです。腫れ物は加害者な筈なのに。
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 15, 2024
散文詩自註|邑井らに
人は、自分が傷つけられたと感じたとき、その傷を誰かにわかってほしいと思うものなのでしょう。
怖かったこと。悲しかったこと。嫌な思いをしたこと。そうした経験を誰かに話すことは、自分の身に起きた出来事を確かめるためにも、必要なことなのかもしれません。
けれども、誰もが自分の傷について語り始めたとき、そこには少し不思議なことが起こるように思います。
この一葉では、「みんなひがいしゃのふりをする」と書きました。
ずいぶん意地の悪い言い方だと思います。
「ふりをする」という言葉には、本当はそうではないのに、そうであるかのように振る舞っている、という意味があります。つまり、私はここで、周囲の人たちの苦しみを疑っているのです。
けれども、私は本当に、その人たちが傷ついていないことを知っているのでしょうか。
誰かが私を恐れていたのかもしれません。私の言葉に傷ついた人もいたのかもしれません。私との関係をどうすればよいのかわからず、困っていた人もいたのでしょう。
その人たちが、自分を被害者だと感じていたとしても、それが必ずしも嘘だとは限りません。
それなのに、私は「ふりをする」と書いてしまいました。
ここには、私自身の傷ついた気持ちが含まれているように思います。
私を腫物として扱うことで、周囲の人たちは私とのあいだに距離をつくっていきます。私に何かを言えば問題になるかもしれない。私を怒らせてしまうかもしれない。だから、なるべく関わらないようにしよう。
そうして距離を置いた人たちが、今度は、自分たちこそ私によって傷つけられているのだと語り始める。
そのとき、私は少し途方に暮れてしまうのです。
私も傷ついているのに、と思うからです。
ここで、腫物という言葉について、もう一度考えてみたいと思います。
腫物は、触れれば痛むものです。
けれども、人を腫物として扱うとき、私たちは、その人自身が痛がる存在だということだけでなく、その人に触れることで、自分たちが困ったことになるかもしれないと考えているようにも思えます。
何を言っても怒られる。些細なことで傷つかれる。こちらの気持ちを理解してもらえない。
そんなふうに考えられている人は、いつの間にか、周囲に害をもたらす存在として扱われることがあります。
そこで生まれるのは、少し奇妙な関係です。
腫物として扱われる人は、何か問題を起こすかもしれない人として遠ざけられる。一方、その人を遠ざける人たちは、問題を起こされないように自分たちを守っているのだと考える。
そうすると、腫物にする側が被害者で、腫物にされる側が加害者であるかのような構図が生まれます。
けれども、その構図のなかで、腫物にされた人もまた傷ついているのです。
この一葉で、私は「ひがいしゃのきもちになる」と書きました。
「私は被害者なのです」とは書いていません。
この違いは、私にとって大切なものです。
被害者であるということと、被害者の気持ちになるということは、必ずしも同じではないと思うからです。
実際に何が起きたのか。誰が何をしたのか。誰がどのような責任を負うべきなのか。それらは、出来事を丁寧に確かめなければ、簡単にはわかりません。
けれども、傷ついたという感覚は、そうした判断が下される前から、私のなかに生まれてしまいます。
私は、誰かに被害者だと認められたから傷つくのではありません。
傷ついているからこそ、自分が被害者なのではないかと思うのです。
しかし、その感情だけで、相手を加害者だと決めてしまってよいのかという疑問も残ります。
もし、私が傷ついているという理由だけで、彼らを加害者だと決めてしまったら。
今度は私が、彼らの苦しみを見ないことになるかもしれません。
第二葉では、あなたが原因で私が腫物になっていると感じながらも、私自身があなたを腫物にしているのかもしれない、と書きました。
ここでも、似た問題が現れているのでしょう。
ただし、互いに傷ついているからといって、互いの責任が等しいわけではありません。
一方が明らかに相手を傷つけている場合もあります。誰かの振る舞いによって、ほかの人が身を守る必要に迫られることもあるでしょう。
傷ついたという感情を互いに持っていることと、何が起きたかについての責任を同じだけ負っていることは、別の問題です。
私は、その違いを見失いたくありません。
第五葉では、私が肩身の狭い思いをしている一方で、周囲には調和が生まれているように感じられる、と書きました。
その調和のなかでは、誰もが自分を守ろうとしているのかもしれません。
彼も、周囲の人たちも、そして私も。
けれども、自分を守ろうとする人たちが集まったからといって、誰も傷つかない場所ができるとは限りません。
むしろ、それぞれが自分の傷を守ろうとすることで、誰かの傷が見えなくなることもあるのでしょう。
私は、ここに少し寂しいものを感じます。
誰もが自分の苦しみについて語っているのに、誰も相手の苦しみを聞いていない。
誰もが傷つけられたくないと思っているのに、そのために誰かを傷つけてしまう。
そして、誰かを傷つけたことを指摘されると、今度はその指摘によって自分が傷ついたと感じることさえあるのです。
こうした関係のなかでは、加害者と被害者という言葉が、いつの間にか、自分の立場を守るためのものになってしまうのかもしれません。
けれども、本来、加害や被害という言葉は、誰かを一生その役割に閉じ込めるためのものではないはずです。
何が起きたのかを確かめ、傷ついた人を守り、必要な責任を考えるための言葉であってほしいと思います。
誰かが加害的な行為をしたとしても、その人があらゆる場面で加害者であるとは限りません。反対に、ある出来事で被害を受けた人が、別の出来事では誰かを傷つけることもあるでしょう。
人間は、加害者か被害者かという二つの名前だけでは、捉えきれないものなのだと思います。
それでも私たちは、ときどき、その名前のどちらかを相手に与えたくなります。
そうすれば、誰が悪くて、誰が守られるべきなのかが、わかりやすくなるからでしょう。
けれども、わかりやすくなることと、正しく理解できることは、同じではありません。
この一葉の最後には、「腫物はかがいしゃなはずなのに」と書きました。
私は、この「はずなのに」という言葉にも、少し奇妙なものを感じています。
そもそも、腫物は加害者でなければならないのでしょうか。
腫物として扱われているからといって、その人が実際に誰かを傷つけたとは限りません。
それなのに、私は「加害者なはず」と考えているのです。
ここには、いつの間にか私自身が、周囲の人たちの見方を受け入れてしまっているようなところがあります。
彼らが私を腫物にするのだから、私は彼らにとって、何か悪いことをする人間なのだろう。
そう考えることに慣れてしまうと、自分が傷ついたときにさえ、なぜ自分が被害者のように感じているのか、不思議になってしまいます。
自分の苦しみを、自分でもうまく認められなくなるのです。
もしかすると、腫物にされることの苦しさには、そうしたものも含まれているのかもしれません。
誰かから距離を置かれることだけではありません。
誰かの見方を通して、自分自身を理解するようになってしまうこと。
そして、その見方と自分の感情が食い違ったとき、どちらを信じればよいのかわからなくなってしまうことです。
私は、この一葉を書きながら、誰が本当の被害者なのかを決めたいとは思いませんでした。
ただ、被害者という立場をめぐって人々が互いを見つめるとき、そこからこぼれ落ちてしまう感情があるのではないかと考えました。
周囲の人たちが傷ついていることも、私が傷ついていることも、同時に本当であるかもしれません。
しかし、そこから何をすべきなのかは、傷ついているという事実だけでは決まりません。
だからこそ、私は、誰かの苦しみを疑うことにも、自分の苦しみだけを根拠に相手を裁くことにも、慎重でありたいと思います。
けれども、その慎重さによって、自分の傷までなかったことにしたくはありません。
「みんなひがいしゃのふりをする」と感じた私にも、見えていないものがあるのでしょう。
そして、「ひがいしゃのきもちになる」と書いた私の感情にも、まだ言葉にできていないものがあるのだと思います。
腫物は加害者なはずなのに。
そう書いてみて、私は、腫物が加害者であると、いったい誰が決めたのだろうと思いました。
彼らでしょうか。
それとも、私自身なのでしょうか。
もしかすると、この一葉でいちばん疑わなければならないのは、加害者や被害者という名前を、あまりにも簡単に人間に結びつけてしまう、私たちの考え方そのものなのかもしれません。
私は腫物にされています。
けれども、だからといって、私が何をした人間なのかが決まるわけではありません。
そして、私が傷ついているということも、誰かに決めてもらわなければならないことではないのでしょう。
ただ、その傷が誰によって、どのように生まれたのかについては、私自身の感じ方だけで結論を出さずにいたいのです。
そのことは、私の苦しみを否定することとは、きっと違うのだと思います。
(邑井らに)
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くずし字による表現について
『腫物草子』では、現代の日本語で書かれた詩を、古活字によるくずし字で表現しています。
これは、古い書物の姿を借りて、現代の言葉を過去のものに見せようとする試みではありません。むしろ、私たちが普段何気なく読んでいる言葉も、その姿が変わるだけで、まったく違うものに見えてしまう。そのことに目を向けるための試みです。
見慣れない文字を前にしたとき、私たちはそこに書かれていることを、すぐには理解できません。けれども、読めないからといって、そこに意味がないわけではありません。文字が変わっても、語られていることまで変わったわけではないのです。
『腫物草子』が描く「腫物」もまた、誰かに初めから備わっている性質とは限りません。見る人が変われば、見え方も変わる。関わり方が変われば、それまで腫物とされていたものが、そうではなくなることもあるでしょう。
もちろん、文字が読めないことと、人が腫物として扱われることは同じではありません。ただ、私たちが何かを理解できないとき、その理由を対象そのものに求めてしまうことはないでしょうか。
くずし字による表現は、そのような認識のあり方を、文字を読むという身近な行為から問い直すものでもあります。
本作では、古活字画像を用いて現代日本語をくずし字に変換する「そあん(soan)」を使用しています。現代表記の本文も併記し、二つの文字の姿を行き来できるようにしました。
読めなかった言葉が読めるようになるとき、そこに書かれていたものは変わっていなくても、私たちの見え方は少し変わっているのかもしれません。
そあん(soan)

本作のくずし字画像の制作には、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)が公開する「そあん(soan)」を使用しました。
「そあん」は、江戸時代初期の「嵯峨本」に用いられた古活字を素材として、現代日本語の文章をくずし字画像に変換できるサービスです。
古典籍に残された文字をデジタル技術によって組み直し、現代の言葉に新たな姿を与えることができます。
そあん(soan)
そあん(soan)は、現代日本語テキストをくずし字画像に変換し共有できるサービスです。日本の出版史上もっとも美しい書物の一つと言われる「嵯峨本」の古活字を素材として、誰もがデジタル組版できるソフトウェア/サービスを提供します。
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