この記事は VALU で投稿された記事を加筆修正して再度記事にしたものです。
何がしたいのかどう生きたらいいのか
分からなくなってしまったら、取り敢えず欲望の赴くままにやってみることですね。
小さな事でもいい。ひたすら映画を見たり小説を読むのでもいいし、音楽を聴くのでもいい。飯を食うでもいいんですよ。
オイラのように言ったりやったりする。
自分の心が折れてしまうとこまでやる、飽きるまでやるって言うのを、繰り返すわけですよ。
周りからは馬鹿だなぁ〜とか後ろ指を指されるでしょう。
まぁそんな事を気にしているから何がしたいのかどう生きたらいいのか
分からなくなってしまっているのでしょうけれども、それでもやる。
この自分の内面にある敗北感と挫折を何度も体験していくと、その内自分の中の限界というのが見えてくる。
自分の限界が見えて、それを超えた先に成功はあるのだろうけれども今回はそういう話じゃないのでしない。
今回は何がしたいのかどう生きたらいいのかわからない時の話なのでその話はしない。
自分の中の限界が見えた時というのが、自分自身だとオイラは考えます。
肥大化する自分の欲求の限界ライン、突破できない限界ライン。その限界こそが自分の輪郭なのだ。オイラはそう思うなぁ。
そして、そのラインが見えてしまった時に、こんな線を越える必要ないんだとか、そもそもなんでそんなに限界を越えようとしたのかなど、自分の内面だけではどうしようもない虚しさを感じる人もいるでしょう。
オイラは、その時こそ宗教が役目を果たす時なのだと思うのです。
自分自分の外側から承認してくれる何かですよ。
神様とかご先祖様とか精霊とか、死後の世界だとかその類ですよ。
こんな事故の承認を担うのは人間では無理ですよ。優しい人ほどそう思うんじゃないですかね。迷惑をかけてしまうとか、結果的に周りが気になって、最初の『何がしたいのかどう生きたらいいのか分からなくなってしまう地点』に戻ってきてしまう。
それに個人には荷が重すぎるし、何よりも現代のなんでも責任を追及する世界ではできないですね。
だからこそ神的だったり霊魂的なものに頼ってしまうのかなぁ?と思うんですよね。
んでそれは頼ればいいんですよ。ちょっと信じる。
そしてそれは新興宗教よりも伝統宗教がいいですね何千年何百年も積み重ねてきた実績がありますから、効力は弱いけれども毒も弱い。小さくてもいいので承認ですね。神さまが、ご先祖さまが、飼ってた猫ちゃんが、きっと見守ってくれているわ。という承認がある事で救われる気持ちもあると思います。
さてそんなオイラは何に承認されていると思っているか?
そのお話はまた今度。
話がまとまらなくなってきちゃったからね。
てな訳でいつもの合言葉行きましょう!
『みんな大好き!みんな幸せ!みんな楽しい』