ISNOWHERE は、「ここ」を一つに決めない 写真作品であり、同時に、読むことでしか立ち上がらない 本棚=言葉の装置であり、さらに、カバーをかけて “TarCoon☆CarToonの本” として再編集された ZINE(BOOK SERIES) でもあります。
“is nowhere / is now here” の矛盾を、像(多重露光)/声(読書)/物体(カバーで再定義された本)という3つのかたちで、同時に持続させるプロジェクトです。
IS NOW HERE(イズ・ナウ・ヒア|いま、ここに在る)
ここ(意味・場所・作者性)を一つに決めず、見る/触れる/読むという“行為”によって、毎回べつの「いまここ」を立ち上げ直す。
IS NOWHERE(イズ・ノウウェア|どこにもない)
IS W / NO HERE(イズ・ダブリュー/ノー・ヒア|問いの断片と、「ここ」の否定)
どうぞ、手にとってください。
そこにいるのに、どこにもいない。どこにもないのに、ここにある。
それが、ISNOWHEREという作品です。
ISNOWHEREとは(#concept)
ISNOWHERE は、「ここ(意味・場所・作者性)」を一つに固定しないための名前です。
写真は“ここ”を写すようでいて、多重露光によって“ここ”をほどく。
本棚は“ここ”を持たないまま、読むという行為の中でだけ立ち上がる。
カバーを付けたZINEは、本の中身ではなく「誰の本として現れるか」という作者性をずらし直す。
つまり ISNOWHERE は、完成した作品のタイトルというより、見る/読む/手に取るという行為のたびに、別の「いまここ」を立ち上げ直すための装置です。
どこにもない。だからこそ、いま、ここに在る。
写真作品:記録された像のISNOWHERE(#photo)
ISNOWHERE の写真作品は、「ここ」を一つに決めないための写真です。
多重露光によって像は一回で確定せず、別の像が侵入し、重なり、輪郭をゆるめます。そこに残るのは、出来事の記録というより、“いまここ”が立ち上がり直す瞬間そのものです。
制作は、アナログとデジタルを往復します。
21mm広角の LomoApparat で 35mm ネガに重ね撮りされた像を、現像し、デジタイズし、さらにスクエアのインスタントプリントへ再定着する。工程そのものが、場所・時間・所有の手触りをずらし、写真が持ってしまいがちな「ここ」をほどいていきます。
だからこのシリーズは、“どこで撮ったか”だけでは完結しません。
見るたびに、像の重なりが別の読みを生み、別の「いまここ」を起動する。
ISNOWHERE は、写真を 固定の証拠ではなく、起動する装置として扱う試みです。
ISNOWHERE|多重露光写真
ISNOWHEREの写真シリーズは、LomoApparatの多重露光によって生成された写真作品のシリーズである。21mm広角レンズで、35mmネガフィルム上に重ね撮りされる像は、ひとつの像が確定する前に別の像が侵入し、重なり、互いの輪郭を曖昧にする。そこには、撮影者が「世界を記録する者」として立つ以前に、世界そのものが複数の層として、同時に立ち上がってくる瞬間がある。
シリーズ名 ISNOWHERE は、「is nowhere(どこにもない)」と「is now here(いま、ここにある)」という相反する読みに開かれている。写真が「ここ」を保証する装置であるという通念は、デジタル画像が氾濫する現在、むしろ逆説的に強化されている。撮影地点、時刻、所有者、共有履歴——画像は絶えず位置づけられ、「どこで」「誰が」「なぜ」を付与されながら流通する。だが、その過剰な同定は、出来事の手触りや、現実の密度を薄くすることがある。ISNOWHEREは、そうした同定の力学に対し、「場所」や「意味」を一つに固定しない像として応答する。
その応答は、像の内容にだけ宿るのではない。本シリーズでは、ネガとして現像された像を、デジタイズし、スマートフォンへ転送し、さらにinstaxプリンターによってinstax SQUAREのインスタントフィルム上へプリントする。このアナログ—デジタル—アナログの往復運動は、単なる利便や複製のためではなく、像の身分を揺らすために選ばれている。フィルムの痕跡は一度データへ置き換えられ、データは再び化学的な像として定着する。ここで「ここ」は、撮影地点という座標だけではなく、像がどの媒体へ、どの回路を通って回収されるのかという条件へと移り変わる。
多重露光は、単なる視覚効果ではない。異なる時間・異なる視線・異なる出来事が、同一のフィルム面で競合することで、像は「証拠」から「条件」へと変質する。つまり本シリーズが扱うのは、出来事そのものよりも、出来事が成立してしまう前段階——現実が現実として立ち上がるための、曖昧で不安定な場である。そこで像は、決定ではなく交渉の結果として現れる。重なりは誤りであると同時に、誤りが世界を世界たらしめる契機でもある。
TarCoon☆CarToonという人格/記号は、このシリーズにおいて「作者の顔」を強化するためではなく、むしろ作者性を揺らすための装置として機能する。観察するが、統治しない。保護するが、管理しない。——その態度は、像の決定権を作者の側に回収せず、観者に預け返す。作品は、見る者の内部で、いくつもの解釈が衝突しながら成立する。ここで「見る」とは、情報を回収することではなく、自分の確信がどのように生まれてしまうのかを引き受ける行為である。スマートフォンという日常的な装置を制作回路に含めることもまた、像が「私的な記録」から「共有されうるもの」へと移行する、その境界の揺れを可視化する。
ISNOWHEREは、場所の喪失を嘆く作品ではない。むしろ「いま、ここ」がどれほど脆く、同時にどれほど豊かな可能性の束であるかを示す試みである。像が一つに定まらないとき、私たちは初めて、世界が常に複数の現実から構成されていたことに気づく。多重露光の写真は、その複数性を“表現”するのではなく、複数性そのものが現像されてしまう場を提示する。そしてその「現像」は、ネガの現像にとどまらず、データ化と転送、インスタントフィルムへの再定着という工程を含んで持続する。
それは「どこにもない」ようでいて、「いま、ここにある」その矛盾の持続こそが、このシリーズの主題である。
ZINE:掛けられたカバーのISNOWHERE(#bookseries)
ISNOWHERE の BOOK SERIES は、本の「中身」を説明するためのZINEではありません。
むしろ逆で、カバーをかけることで、本が“誰の本として現れるか”を組み替えるためのZINEです。
同じ本でも、表紙が変われば、入口が変わる。
入口が変われば、読まれ方が変わる。
読まれ方が変われば、その本が立ち上げる「いまここ」も変わる。
このシリーズでは、TarCoon☆CarToonが寄稿した本や、愛読してきた本に、ISNOWHERE のオリジナルカバーをかけて再構成します。
表紙には「ISNOWHERE」という名前だけが残り、元のタイトルや権威は一度沈む。
その代わりに、本は “TarCoon☆CarToonの本” として、別の作者性をまとって現れます。
ここで起きているのは、所有の主張ではなく、作者性の再配置です。
「誰が書いたか」を消すのではなく、「誰の声として届くか」をずらす。
中身を隠すためのカバーではなく、読む前提を揺らすためのカバー。
それが ISNOWHERE BOOK SERIES です。
ISNOWHERE|ZINE
ISNOWHERE(イズノウィア)は、
TarCoon☆CarToonが自分の寄稿が掲載された書籍や、
思想的に影響を受けた本・大切に読み返してきた本に、
オリジナルのカバーをかけて再構成した、本のシリーズ名です。
どの本にも、表紙には「ISNOWHERE」とだけ書かれており、
中身が何なのかは、くり抜かれた小さな窓から覗くチェキ写真と、
あなたが実際にページをめくることでしかわかりません。
つまり──
この本たちは「読むこと」で初めて“ここに在る”ものになる。
そんな考えのもと、TarCoon☆CarToonの作品の一部として生まれ変わった本たちです。

書くこと・読むことは、誰のものでもない声を編むこと
「読むとは、声をいったん手放すこと。
書くとは、その手放した声に、自らの輪郭を借りること。」
TarCoon☆CarToonは、このように語ります。
本とは、誰かの明確な思想を伝える“所有された言葉”ではなく、
読む者の中でふたたび揺れ動き、ズレ、反響しながら意味を生成する場なのです。
『ISNOWHERE』というシリーズは、その思想をかたちにするための小さな実験場です。
本はどこにもない。だから、ここにある。
このページでは、TarCoon☆CarToonが寄稿した本と、くり返し読み返してきた愛読書を、
「ISNOWHERE」シリーズとして紹介・販売しています。
どれも、本棚に眠っていたものばかりです。
誰かの手から手へと渡り、記憶をこぼしながら、もう一度「読む」という行為を待っていた本たち。
TarCoon☆CarToonによる寄稿のある書籍には、読みながら考え、考えながら書いた痕跡が残されています。
TarCoon☆CarToonの愛読書たちには、その思考を支えた無数の沈黙が折りたたまれています。
いずれも、あなたがページを開いた瞬間にだけ、「いま・ここ」に現れます。
ISNOWHEREの本棚は、“読むという行為”を媒介にしてのみ立ち上がる装置なのです。
ISNOWHERE BOOK LIST
📖 [TarCoon☆CarToonの愛読書(中古/絶版含む)]
📖 [TarCoon☆CarToon寄稿本一覧]
📦 [レンタルボックス設置場所・ONthe UMED]











本棚:読む装置のISNOWHERE(#bookshelf)
読むことは、触れないものに触れることです。
存在しているのに、そこにいない。言葉になっているのに、意味が逃げていく。
ISNOWHERE の本棚は、その“不在の現前”を、読むという行為のなかでだけ起動させるための装置です。
ここに並ぶ本は、情報としての「内容」だけでは完結しません。
あなたがページをめくるとき、本は「どこにもない」状態から、いま、ここに立ち上がる。
つまりこの本棚は、置いてある本の集合ではなく、読書によって立ち上がる“場”そのものです。
本は、棚にあるだけでは「不在の在庫」に過ぎません。
けれども誰かがそれを手に取り、ページをめくることで、
その言葉は「いま・ここ」に現れ、「あなたの思考」と何かしらの化学反応を起こします。
TarCoon☆CarToonは、そのような読書を「現前の装置」と呼びます。
在ること、無いこと、そして在るふり──
その曖昧な輪郭を探ることこそが、TarCoon☆CarToonが本に寄せる姿勢です。
ISNOWHERE|レンタルボックス
ISNOWHEREというプロジェクトは、TarCoon☆CarToonが参加する物理的なレンタルボックスとも連動しています。
ボックスには、以下の2種類の本が並びます:
- TarCoon☆CarToonが寄稿した本
- TarCoon☆CarToonが繰り返し読んできた本(中古/絶版/思想書など)
ここで起きてほしいのは、正解の共有ではなく、問いの発火です。
あなたの沈黙に、誰かの声が触れる。あなたの問いが、本の沈黙に触れる。
その接触が、別の「いまここ」を立ち上げ直す。それが ISNOWHERE の本棚です。




読書とは、“誰か”の声が“あなた”の沈黙に触れること
TarCoon☆CarToonにとって、本は「意味を伝える道具」ではなく、
「誰にもなりきれない声の断片」を浮かび上がらせるための媒体(メディア)です。
ISNOWHEREとは、「どこにもない」という不在性と、
「いまここにある」という現前性の、二重露光のような構造をもった思想シリーズです。
あなたの問いと、誰かの声とが出会う場所として、
この本棚が静かに存在していることを、心から願っています。
大阪梅田駅から行く場合
【JR大阪駅より徒歩】JR西日本 大阪駅より徒歩5分。
大阪の地下街WhityうめだのE58階段をでてから東へ歩くとスグです。
| 住所 | 〒530-0057 大阪府大阪市北区曾根崎2丁目16−19 メッセージ梅田ビル 1階 |
|---|---|
| 交通手段 | JR西日本 大阪 下車徒歩5分 阪神電車 大阪梅田駅 下車徒歩4分 阪急電車 大阪梅田駅 下車徒歩6分 OSAKAメトロ 御堂筋線、梅田駅 下車徒歩4分 OSAKAメトロ 谷町線、東梅田駅 下車徒歩3分 OSAKAメトロ 四つ橋線、西梅田駅 下車徒歩9分 |


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