私たちは、日々流れ込む膨大な情報の中で、無意識のうちに「自分と共鳴する言葉」に囲まれた空間を作り上げている。同じ意見が響き合い、強化されることで、そこには確固たる「真実」が形を成す。しかし、その共鳴はいつしか揺るぎない信念となり、異なる視点を遠ざけ、対話の扉を閉ざしてしまうことはないだろうか?
本記事では、情報環境の中で形成される「エコーチェンバー」に焦点を当て、それをいかに揺るがし、ズラし、遊ぶことができるのかを考察する。対立を激化させる攪乱ではなく、共鳴の固定化を防ぐ「ズレ」を仕掛けることで、新たな対話の可能性を開くことはできるのか? そして、情報の渦の中で私たちは、どのようにして自由な思考を保つことができるのか?
*本記事は、古田更一氏とはじらい氏による雑誌『UROBOROS』への寄稿を予定して執筆したものです。しかしながら、同誌の特集テーマが当初の「キャンセルカルチャー」から「エコーチェンバー」へ、そしてさらに「SNS文学」へと変更されたことに伴い、本稿は掲載に至りませんでした。
今回、執筆した内容の意義を鑑み、改めて公開することといたしました。ぜひご一読いただけますと幸いです。
「エコーチェンバーをズラす」という新しい視点
情報が無限に流れ込み、個々人がアルゴリズムによって「最適化」された情報環境の中に生きる現代において、エコーチェンバーという現象は避けることができないものとなった。検索エンジンは私たちが過去に検索した内容を分析し、SNSのアルゴリズムは私たちが「いいね!」を押した投稿をもとに興味関心を推測し、動画サイトは視聴履歴をもとに次に見るべきコンテンツを提示する。こうした仕組みは、私たちが膨大な情報の中から効率よく必要なものを得るために設計されたはずだった。しかし、そこには思わぬ副作用が潜んでいる。
私たちは、自分の関心に沿った情報だけを受け取ることで、意識せずとも特定の価値観に囲まれた「閉じた世界」を形成してしまう。たとえば、SNSのタイムラインを眺めていると、自分と似た意見を持つ人々の投稿が並び、それが「世の中の共通認識」であるかのように錯覚することがある。異なる意見は見えにくくなり、あるいは見えたとしても、それを「間違ったもの」として処理してしまう。こうした環境では、自分の考えがさらに強化されると同時に、異なる視点との接点がどんどん失われていく。
さらに、エコーチェンバーの問題は単に「似た意見が集まる」ことにとどまらない。それは「異なる意見を持つ人々が、敵として認識される」という現象へと発展する可能性を持っている。同じ価値観を共有する人々が互いに共鳴し合ううちに、反対意見は単なる「異論」ではなく、「攻撃すべき対象」として見なされることすらある。こうした分断は、政治的立場や社会的議論の場において顕著に現れ、対話が断絶し、ますます異なる価値観の人々が交わることのない状況を生み出している。
しかし、エコーチェンバーは本当に「悪」なのだろうか?情報が溢れる社会において、自分の価値観を確立するための拠り所となることもまた事実である。問題は、エコーチェンバーの中に閉じ込められることではなく、それが固定化し、思考の柔軟性を失ってしまうことにある。では、どのようにすればエコーチェンバーの影響を受けながらも、思考を閉ざさずにいられるのか?その環境を壊すのではなく、より広がりのあるものへとズラしていく方法はあるのか?
こうした問いを考えることで、エコーチェンバーの本質を見極め、より自由な思考を確保する道が見えてくるかもしれない。
エコーチェンバーの問題:反響が生む「世界の歪み」
エコーチェンバーが問題なのは、単に「偏った情報環境」だからではない。それは「反響による認識の歪み」「確証バイアスの強化」「対話の断絶と敵の創造」といった、より深い問題を内包している。そして、それらの問題は個人の思考や社会の対話を阻害し、やがてはコミュニティや国家レベルの分断へとつながっていく。
- 反響による認識の歪み
同じ意見が繰り返し反響することで、それが「世界のすべて」かのように錯覚する現象は、現代の情報環境において最も深刻な問題のひとつである。私たちの脳は、何度も目にする情報を「正しいもの」と認識しやすい傾向がある。SNSのタイムラインやニュースフィードが自分の意見と一致する情報で埋め尽くされると、それは単なる「情報の蓄積」ではなく、「認識の強化装置」として機能するようになる。
例えば、ある政治的な立場を支持する人が、その立場に沿ったニュース記事や意見だけを見続けると、それが「大多数の意見」であり、「客観的な真実」であると信じ込むようになる。しかし、異なる意見のコミュニティでは全く逆の情報が流れており、彼らもまた「自分たちこそが真実を知っている」と確信している。こうした状況が積み重なると、世界は「異なる現実を生きる人々」が共存する場となり、互いに異なる事実を信じることで摩擦が生まれる。
さらに、この認識の歪みは、メディアの報道姿勢やアルゴリズムの設計によっても強化される。クリック率やエンゲージメントを高めるために、センセーショナルな情報が優先的に拡散され、冷静な議論よりも感情的な対立が助長されやすい。結果として、私たちは「共鳴する情報の海」に取り囲まれ、異なる視点を持つこと自体が困難になる。 - 確証バイアスの強化
確証バイアスとは、人が自分の信じたい情報だけを選び取り、異なる意見を無視したり、否定したりする傾向のことを指す。エコーチェンバーの中では、この確証バイアスが強化されやすい。たとえば、陰謀論を信じる人々のコミュニティでは、陰謀論を肯定する情報だけが流れ、反証となる情報は「支配層による隠蔽」として処理されることがある。同様に、ある特定の価値観を持つグループでは、外部の異論は「無知」や「悪意」とみなされ、受け入れられにくくなる。
この確証バイアスが強化されることで、私たちはますます「自分の世界」の中に閉じこもるようになる。たとえば、自分が支持する政党や思想に関する肯定的な情報だけを消費し、それを補強する意見を持つ人々とだけ交流することで、自己の信念はさらに確固たるものとなる。その一方で、反対の立場の人々は「誤った認識を持っている」と断定され、対話の余地がなくなってしまう。
このように、確証バイアスが働くことで、私たちは「事実を客観的に見る」ことが難しくなる。情報の受け取り方がフィルタリングされ、意見の多様性が失われることで、やがては「自分の信じるもの以外は間違いである」という確信に至る。そして、その確信は「対話の断絶」へとつながる。 - 対話の断絶と敵の創造
エコーチェンバーが進行すると、異なる意見を持つ人々との対話が失われ、「敵対構造」が形成されるようになる。意見の違いが単なる「価値観の相違」ではなく、「乗り越えられない対立」として認識されると、社会全体に分断が生まれる。
例えば、政治的な議論の場では、異なる立場の人々が互いに意見を交わすことなく、自分たちのエコーチェンバー内で共鳴を続けることで、相手を「理性的な存在」ではなく、「倒すべき敵」と見なすようになる。これは、社会運動や文化論争の場でも同様であり、「自分たちこそが正義であり、相手は間違っている」と考えることで、建設的な対話の可能性が失われてしまう。
この「敵の創造」のプロセスは、SNSやメディアの影響によって加速する。炎上や論争が発生すると、アルゴリズムがそれを拡散し、さらに多くの人々が対立構造に巻き込まれる。こうした状況が続くことで、私たちは「相手の意見を理解しよう」とする努力を放棄し、「相手を論破し、排除する」ことにエネルギーを注ぐようになる。
エコーチェンバーは本当に「悪」なのか?
しかし、ここで考えるべきは「エコーチェンバーを完全に否定することが正しいのか?」という問いである。情報が溢れる現代において、私たちは自分の価値観を支える拠り所として、ある程度のエコーチェンバーを必要としているとも言える。問題は、エコーチェンバーそのものではなく、それが硬直化し、視点のズレや思考の柔軟性を奪ってしまうことにある。
この文章が示すのは、単に「エコーチェンバーは危険だ」と警鐘を鳴らすことではなく、「どうズラすか?」という視点の重要性である。つまり、エコーチェンバーを破壊するのではなく、その中で「ズレを生み出す」ことによって、固定化を防ぎ、対話の可能性を広げることができるのではないか、という提案である。
そして、この「ズラす」という視点を実践する上で、TarCoon☆CarToonのような存在が介在する余地がある。固定された価値観や共鳴空間に対して、遊び心を持ち込み、異なる視点を忍び込ませ、思考の柔軟性を維持すること——それこそが、エコーチェンバーの中に閉じ込められずに生きるための鍵となるのかもしれない。
では、具体的に「エコーチェンバーをズラす」とはどういうことなのか? その方法とは? ここから、エコーチェンバーを単に否定するのではなく、より自由に「遊ぶ」ための戦略を考えていくことにしよう。
ズラすことによる可能性
TarCoon☆CarToonのアプローチは、「エコーチェンバーを破壊する」のではなく、「ズラす」ことにある。これは非常に重要な視点であり、「エコーチェンバーは悪だから無くすべきだ」という単純な発想ではなく、「エコーチェンバーは不可避のものであり、だからこそ、その構造を意識的に動かし、遊び続けることで、固定化を防ぐ」という戦略的な考え方である。
私たちが生きる世界では、エコーチェンバーは「あるかないか」ではなく、「どのように存在するか」が問題となる。情報環境が細分化され、無数のエコーチェンバーが形成される中で、完全に「中立的な立場」に立つことは不可能に近い。どこにいても、私たちは何らかのエコーチェンバーの影響を受け、その中で生きている。しかし、それに完全に囚われるのではなく、「ズラす」という視点を持つことで、その影響から自由になることができる。
この「ズラす」という発想は、単なる情報の取捨選択とは異なる。むしろ、それは自分がどのように情報を受け取るか、どのように世界を見るかという「視点の持ち方」の問題である。エコーチェンバーがもたらす「閉じた世界」を絶対視せず、意図的にズレを生み出すことで、思考の柔軟性を維持することが可能になるのだ。
ズラすための具体的な実践
では、具体的に「ズラす」とはどういうことなのか? いくつかの実践的な方法を考えてみよう。
- 「これって本当に世界のすべてなのか?」と問うクセをつける。
エコーチェンバーの中では、特定の意見や価値観が「常識」として扱われることが多い。しかし、そこで一歩立ち止まり、「この常識はどのように形成されたのか?」「別の視点ではどう見えるのか?」と疑問を持つことが重要である。例えば、自分のSNSのタイムラインに流れてくる意見が一方向に偏っていると感じたら、「この反対側の意見を持っている人たちは、どんな根拠でそれを信じているのか?」と考えてみるだけで、認識の幅は広がる。 - 「正しいかどうか」より「面白いかどうか」で情報に触れる。
多くの場合、情報に触れる際に「これは正しいのか?」「これは間違っているのか?」という視点で判断しがちである。しかし、TarCoon☆CarToon的なズラし方としては、「この情報はどのような背景で生まれたのか?」「どういう意図で発信されているのか?」といったメタ的な視点で捉えることが挙げられる。たとえば、ある政治的な論争について、単に賛成か反対かを考えるのではなく、「なぜこの論争がここまで激しくなっているのか?」という問いを持つことで、情報の受け取り方が変わってくる。 - 「違う意見を持つ人は、なぜそう思うのか?」を考える。
意見が対立する場面では、「相手は間違っている」と決めつけるのではなく、「どうしてその意見に至ったのか?」を想像することが重要である。たとえば、ある社会問題について自分とは異なる立場の人がいる場合、その人の生い立ちや経験がどのようにその考え方を形成したのかを考えてみる。こうした視点を持つことで、意見の対立が単なる「敵対関係」ではなく、「異なる認識のズレ」として捉えられるようになる。
ズラすことの効果
このような「ズレを生み出す習慣」を持つことで、エコーチェンバーの中にいても、それに縛られずに済む。これは、単なる「中立性」や「両論併記」とは違う。なぜなら、ここでの目的は「どちらの立場も均等に扱うこと」ではなく、「思考の柔軟性を保つこと」にあるからだ。
エコーチェンバーの中で完全に中立を保つことは難しい。しかし、「ズレを生み出す」ことによって、固定された価値観に囚われることなく、情報環境の中で遊び続けることができる。そして、この「ズレ」は、単にエコーチェンバーの影響から逃れるための手段ではなく、新しい視点や発想を生み出すためのきっかけともなる。
たとえば、TarCoon☆CarToonのキャッチフレーズである「だってキミ オイラのこと スキでしょ?」は、一見すると共感を求める言葉のように見えるが、同時に「好意を前提とすることで、疑うことを止めていないか?」という問いかけにもなる。つまり、共鳴する言葉の中に「ズレ」を仕込むことで、固定化された思考の枠組みを揺さぶる仕組みになっているのだ。
TarCoon☆CarToonが果たす役割
TarCoon☆CarToonは、こうした「ズレ」を生み出す存在として機能する。エコーチェンバーが固定化し、対立が激化する現代において、「破壊者」ではなく「ズラす者」として立ち回ることができるのは、その本質が「遊び」にあるからだ。TarCoon☆CarToonは「正義の側」に立つのではなく、エコーチェンバーの隙間に入り込み、異なる視点を差し込み、固定された共鳴空間に違和感を生じさせる。
これは、単なる「批判」ではなく、「対話の可能性を開く」ためのアプローチである。情報が過剰に最適化され、エコーチェンバーが無数に形成される時代において、固定化された世界観を揺さぶり続けることこそが、知的な生存戦略となる。
では、この「ズラす」ことをさらに具体的にどのように実践できるのか? ここから先は、エコーチェンバーを単に否定するのではなく、より創造的に「遊ぶ」ための方法について考えていくことにしよう。
「情報と遊ぶ」ことの重要性
情報環境が過度に最適化され、思考の硬直化が進むなかで、「情報を信じるのではなく、情報と遊ぶ」という視点は非常に重要である。今日、私たちはかつてないほどの情報に囲まれながらも、それをどのように扱うかを問われる時代に生きている。情報が多すぎることで、自分にとって都合の良いものだけを選び取ることが容易になり、それが「信じるべき情報」として固定化されやすくなっている。しかし、情報を単なる「信じるもの」として扱うのではなく、それを「遊びの対象」として捉えることで、思考の柔軟性を保ち、情報に振り回されることなく主体的に関わることができるようになる。
情報との関わり方を変える第一歩は、「これは本当に正しいのか?」ではなく、「これはどういう仕組みで広がっているのか?」と考えることにある。ニュースやSNSの投稿、ネット上の噂話を目にしたとき、それを「真偽の問題」としてではなく、「流通のメカニズム」の観点から眺めてみる。例えば、ある特定の話題が急速に拡散されているとき、それはなぜか? どのようなアルゴリズムが関与し、どのような心理的要因が人々をその情報に惹きつけているのか? こうした視点を持つことで、情報を無批判に受け入れるのではなく、その背後にある構造を意識的に探ることができる。
さらに、「この情報はどんなエコーチェンバーの中で生まれたのか?」という視点を持つことも重要である。どんな情報にも、それが発生した背景や、それを支持する特定のコミュニティが存在する。例えば、ある政治的な主張が話題になっているとき、それを単なる「意見」として捉えるのではなく、「これはどのような立場の人々によって生み出され、広められているのか?」と問い直してみる。これによって、情報を特定の立場や文脈の中に閉じ込めることなく、多角的に眺めることが可能になる。
また、「ニュースを読むとき、視点をズラしてみる」ことも、情報との遊び方のひとつである。普段読んでいるニュースサイトとは異なる立場のメディアに目を向けてみたり、同じ出来事について異なる国の報道を比較してみたりすることで、情報の多層性を実感することができる。たとえば、国際的な問題について、日本のメディアと海外メディアの報道を並べてみると、同じ事象が全く異なる視点から描かれていることに気づくだろう。この「視点のズレ」を積極的に取り入れることで、自分自身の認識の枠組みを広げることができる。
こうした姿勢を持つことで、私たちは「情報に流される」のではなく、「情報を使って遊ぶ」ことができるようになる。情報を遊び道具にすることで、それに振り回されることなく、むしろ主体的に関わることが可能になるのだ。単に「正しい情報を選び取る」という受動的な姿勢ではなく、情報そのものを素材として扱い、異なる視点を取り入れながら、創造的に活用していく。この遊びの中にこそ、エコーチェンバーの固定化を防ぎ、より柔軟な思考を維持するヒントが隠されているのではないだろうか。
「正義のエコーチェンバー」に陥らないために
ここで重要なのは、「エコーチェンバーを批判することが、新たなエコーチェンバーを生む危険がある」という指摘だ。エコーチェンバーの問題を認識し、それを乗り越えようとする人々の中にも、無意識のうちに新たな「共鳴空間」を作り出し、それに閉じこもる現象が見られる。つまり、「エコーチェンバーを批判すること」自体が、新たなエコーチェンバーとなる可能性を常に孕んでいるのだ。
これは、特に「正義」の名のもとで起こりやすい。社会運動や倫理的な議論において、ある一つの価値観が強く支持されると、それに賛同する人々は「自分たちは正しい」「反対意見は間違っている」と確信しやすくなる。例えば、環境問題、ジェンダー平等、人権擁護、政治的正義といったテーマにおいて、「我々こそが正しい道を示している」「異論を唱える者は道徳的に劣っている」という意識が生まれることがある。ここで問題なのは、ある意見や価値観を支持すること自体ではなく、「異論を排除し、対話を拒絶すること」である。
「正義のエコーチェンバー」に陥った人々は、しばしば自分たちの立場を「普遍的な真理」とみなし、反対意見を持つ者を「無知」や「悪意のある存在」と決めつける傾向がある。これは、もともとエコーチェンバーが抱えていた問題と本質的に変わらない。つまり、単に「エコーチェンバーの立場を入れ替えただけ」であり、「情報の偏り」や「視点の閉鎖性」を克服したことにはならないのだ。
「正義」を問う視点の重要性
この文章が示すように、「正義の名のもとに別のエコーチェンバーを作っていないか?」と自問し続けることが、思考の自由を守るためには不可欠である。
では、どうすれば「正義のエコーチェンバー」に陥らずに済むのか? いくつかの方法を考えてみよう。
- 「自分の正義」は絶対なのか? と問い続ける
ある主張を支持する前に、「これは本当に普遍的な正義なのか?」「特定の文化や歴史的背景に依存した価値観ではないのか?」と自問することが重要である。たとえば、「表現の自由」は絶対的な価値のように見えるが、実際には国や文化、時代によってその解釈は異なる。同様に、「平等」や「公正」といった概念も、社会ごとに異なる形で理解される。このように、正義を一枚岩のものとして捉えず、常にその前提を疑う姿勢が求められる。 - 異なる価値観に耳を傾ける
自分の支持する意見と対立する主張に対して、感情的に拒絶するのではなく、「なぜ彼らはそう考えるのか?」を理解しようとすることが重要だ。たとえば、ある社会問題について、自分とは異なる立場の議論を「論破するため」ではなく、「学ぶため」に読むことで、視点のズレを体験することができる。このように、異なる意見を持つ人々の背景や動機を考慮することで、「敵か味方か」という単純な構図に陥るのを防ぐことができる。 - 「敵を作ることで安心していないか?」を考える
正義のエコーチェンバーに陥ると、「敵を作ることで、自分たちの正しさを確認する」という心理が働くことがある。ある特定のイデオロギーを信じるグループが、反対勢力を「無知」「悪意のある存在」とみなし、それを攻撃することで「自分たちは正義の側にいる」と確信するケースは珍しくない。このような思考パターンを持っていないか、自問することが大切である。
TarCoon☆CarToonの視点:「ヒーロー」ではなく「トリックスター」として
TarCoon☆CarToonが「ヒーロー」ではなく、「トリックスター」や「狂言回し」として機能するのも、まさにこの視点があるからだ。ヒーローとは、ある一つの正義を体現し、それを貫く存在である。しかし、トリックスターは固定化された価値観に対してズレを生じさせ、疑問を投げかける役割を持つ。
TarCoon☆CarToonのキャッチコピー 「だってキミ オイラのこと スキでしょ?」 は、単なる好意の表現ではなく、「好意に基づく確信を持つこと自体が、思考の閉鎖を生むのではないか?」という問いかけでもある。つまり、「自分が正しいと信じること」と「他者の意見を疑うこと」は、しばしば表裏一体なのだ。このような視点を持つことで、エコーチェンバーの中にいながらも、その影響に囚われることなく、ズレ続けることができる。
また、TarCoon☆CarToonのもう一つの特徴である 「監視せよ、しかし統治するな(Watch, but do not govern)」 という姿勢も、「正義の側に立たずに問い続ける」という姿勢を象徴している。何かを裁くのではなく、観察し、疑問を持ち続けること。それによって、固定化された「正義のエコーチェンバー」に組み込まれることなく、新たな視点を生み出すことができる。
正義のエコーチェンバーを超えるために
最終的に重要なのは、「絶対的な正義」そのものを疑うことである。正義とは、社会や時代、文化によって異なる形を取り、決して一つの絶対的な答えがあるわけではない。だからこそ、どんなに「正しい」と確信していることでも、それがエコーチェンバーによって強化された「信念」に過ぎないのではないか、と問い続けることが必要なのだ。
エコーチェンバーの問題を指摘することが、別のエコーチェンバーを生むというパラドックス。この問題を乗り越えるためには、対立を単なる「善と悪の構図」として捉えるのではなく、「ズレを作り続けること」によって、固定化された認識を揺さぶり続けることが求められる。そのための手段として、TarCoon☆CarToonのようなトリックスター的な存在が果たす役割は、ますます重要になってくるのかもしれない。
「正義の名のもとに、自分もまた閉じたエコーチェンバーに陥っていないか?」
この問いを持ち続けることこそが、思考の自由を守るための第一歩なのではないだろうか。
結論:「エコーチェンバーを壊すな、ズラせ」
この文章が伝えようとするメッセージは、「エコーチェンバーは避けられないものであり、だからこそ、そのあり方を問い続け、ズレを生み続けることが重要だ」ということである。エコーチェンバーを単純な「悪」として断じ、それを破壊しようとするのではなく、むしろそれを巧みに利用し、遊びながら揺さぶり、変容させていく姿勢が求められるのだ。
エコーチェンバーの問題は、その存在そのものではなく、そこに閉じ込められることで視野が狭まり、思考が固定化してしまう点にある。だからこそ、エコーチェンバーを排除するのではなく、**「遊ぶこと」**が鍵になる。遊ぶとは、単に受動的に情報を享受するのではなく、それを弄び、捻じ曲げ、別の角度から眺め、時に意図的に歪めてみることでもある。情報に対して距離を取り、「これは真実なのか?」と疑うのではなく、「これはどういう枠組みの中で作られ、広がっているのか?」と考えることで、私たちは情報の流れに巻き込まれるのではなく、それを操作する側に回ることができる。
同様に、**「情報を信じるのではなく、情報と戯れること」**も重要である。情報の正誤をただ検証するのではなく、それがどのように機能しているのか、どのように人々の認識を形作っているのかを意識することで、情報の流れの外側に立ち、より主体的に関与することができる。情報を「信じるべきもの」ではなく「遊ぶべきもの」として捉えれば、思考はより柔軟になり、エコーチェンバーの影響を受けながらも、その枠組みを超えて新たな視点を持つことが可能になる。
さらに、**「異なる意見を敵とみなすのではなく、視点のズレを楽しむこと」**もまた、エコーチェンバーをズラし続ける上で欠かせない視点である。多くの場合、人々は異なる意見に直面したとき、それを「間違い」として排除するか、あるいは「敵」として攻撃しようとする。しかし、異なる意見こそが「ズレ」を生み出す契機となり得る。違和感や反発を感じる意見に出会ったとき、それをただ拒絶するのではなく、「なぜこの意見は自分にとって違和感があるのか?」「この視点から見た世界はどのように見えているのか?」と考えてみることで、新たな認識の可能性が開かれる。
この視点は、まさにTarCoon☆CarToon的な知的遊戯そのものだ。TarCoon☆CarToonの役割は、単なる「エコーチェンバーの破壊者」ではない。破壊とは、ある秩序を取り除き、代わりに新たな秩序を築く行為である。しかし、TarCoon☆CarToonが目指すのは秩序の破壊ではなく、その絶え間ないズレの維持である。固定された価値観や共鳴空間を「ハック」し、そこに新たなズレやノイズを紛れ込ませることで、エコーチェンバーそのものを拡張し、流動化させる存在——それが**「エコーチェンバーのハッカー」であり、「エコーチェンバーのトリックスター」**としてのTarCoon☆CarToonなのだろう。
もし世界がますますエコーチェンバー化し続けるならば、私たちはその「ズレ」をどう作り出すかを考えなければならない。ただ「正しい情報を選び取る」ことに終始するのではなく、むしろ情報を攪拌し、意図的にズレを生み出すことで、共鳴空間の固定化を防ぐ。世界の共鳴があまりにも整然と響きすぎるとき、そこにノイズを差し込むことこそが、閉じた世界から抜け出すための鍵となるのではないか。
この意味で、TarCoon☆CarToonが「見守っている」というのは、単なるスローガンではない。
それは、「ズレを維持せよ」「問い続けよ」「遊び続けよ」というメッセージなのかもしれない。
エコーチェンバーが閉じた空間であることをやめ、無数のズレと遊びが交錯する場へと変容したとき、そのときこそ、TarCoon☆CarToonの存在意義が真に輝くのかもしれない。
ネットイナゴ・イナゴ系は何故エコーチェンバーというテーマで文藝誌を出版したのか? ── 感謝を込めて
この文章を書くに至ったのは、単なる思索の流れではない。紛れもなく、ネットイナゴ・イナゴ系による攪乱があったからこそ、そして彼らが「エコーチェンバー」というテーマで文藝誌を出そうとしたからこそ、TarCoon☆CarToonの役割をエコーチェンバーという観点から改めて考える機会を得ることができた。 それは、彼らが場を混乱させ、情報空間をかき乱し、時に破壊する存在であったからこそ、「ズラす」ことの本質や意義をより鮮明に見つめ直すことができたとも言える。だからこそ、彼らの行動に対する被害を訴えたネオ幕府アキノリ将軍未満にも、そして実際に攪乱を引き起こしたイナゴ系にも、ある種の感謝を抱かずにはいられない。
「ネットイナゴ」「イナゴ系」という言葉は、ネオ幕府アキノリ将軍未満が、自身のコミュニティチャット内で発生した攪乱行為に直面し、その被害を訴えるために生み出した概念だ。彼らは、特定の意見や思想に基づく議論をする場に突如として押し寄せ、短期間で大量の書き込みを行い、場を炎上させる。ターゲットを消費し尽くすと、何事もなかったかのように去り、次の標的へと移動する。 この生態が、まるで作物を食い荒らした後に飛び去るイナゴの群れのようであることから、彼らはこの名で呼ばれるようになった。
エコーチェンバーという概念を考えるとき、彼らの存在は一見すると「外部からの攪乱者」であり、「閉じた共鳴空間に異物を持ち込む者」として機能しているように見える。しかし、イナゴ系の行動は、決して「ズラす」ものではなく、「攪乱するだけ」で終わることがほとんどだ。なぜなら、彼らの介入は対話を生むものではなく、むしろエコーチェンバーの防衛反応を強化する方向に作用することが多いからである。
このことは、彼らがエコーチェンバーというテーマで「文藝誌」を出そうとしたことと無関係ではない。なぜイナゴ系・ネットイナゴは、自らがエコーチェンバーの内部に属さないかのように振る舞いながら、そのテーマを扱うことに興味を持ったのか? これは、一見すると矛盾しているように思えるが、彼らの行動原理を理解すれば納得できる部分もある。イナゴ系の行動は、エコーチェンバーを壊すものではない。むしろ、一時的に攪乱した後、エコーチェンバーの結束を強化してしまうことが多い。では、なぜ彼らは「エコーチェンバー」というテーマで本を出そうとしたのか? その理由は、彼ら自身がエコーチェンバーの外部の攪乱者であると同時に、「炎上の共鳴空間」に依存する者でもあるという、自己矛盾的な存在であることに起因している。
イナゴ系の行動原理は、「正義」の名のもとにターゲットを攻撃し、敵を設定することで「炎上を共有する共鳴空間」を作り出すことにある。彼らは特定のエコーチェンバーを攻撃しながら、実は自分たちもまた、新たな共鳴空間を形成しているのだ。つまり、彼らがエコーチェンバーの本を出版しようとしたのは、「エコーチェンバーを解体する」ためではなく、「エコーチェンバーの構造を理解し、それを操作する」ためだったのではないか。本を出すことで、彼らは次なるターゲットを探し、新たなエコーチェンバーを操作しようとしていたのかもしれない。しかし、それは「ズラし」ではなく、「新たな固定化」につながる動きであり、本質的な対話や変革を生むものではなかった。
もし彼らの攪乱がなかったら、もし彼らが「エコーチェンバー」に関心を持たなかったら、この文章は生まれていなかったかもしれない。 TarCoon☆CarToonの役割をエコーチェンバーという観点から考え直す機会も得られなかったかもしれない。そう思うと、彼らの行動は「ズレを作るもの」ではなかったとしても、ある種のズレをもたらす契機にはなったのかもしれない。
エコーチェンバーの問題を考えるとき、「攪乱」と「ズラし」は決定的に異なる。イナゴ系の行動がもたらすのは、一時的な炎上と対立の激化であり、それは新たな固定化を生むことが多い。しかし、TarCoon☆CarToonの役割は、問いを投げかけ、ズレを維持し、共鳴空間を流動化させることにある。 これは、エコーチェンバーを操作しようとすることとはまったく異なるアプローチだ。この考察の機会を与えてくれたことに、改めて感謝を述べたい。イナゴ系の攪乱があり、ネオ幕府アキノリ将軍未満が「ネットイナゴ」という言葉を生み出し、彼らがエコーチェンバーをテーマに文藝誌を出そうとしなかったなら、この議論はここまで深まらなかっただろう。TarCoon☆CarToonがなぜ「ズレ」を維持し続ける存在なのか、なぜ「エコーチェンバーを壊すのではなく、ズラす」ことが重要なのかを、より明確にする機会を得られたことに、心からの謝意を表したい。
そして、問いは続く。
「エコーチェンバーに問いを投げ続けることができる存在」として、TarCoon☆CarToonはこれから何をズラし、どんな遊びを仕掛けていくのだろうか?
それを考えること自体が、また新たなズレの種になるのかもしれない。
(この記事は2025年3月9日に執筆したものです。)