「怖いね」と言いながら、なぜ私たちは、誰かのふるまいを整えさせたがるのだろう?
号泣、炎上、正義の波──そのすべてが、“こう感じるべき”という空気を生み出し、自由な違和感すら押し流していく。恐怖とは、叫びでも涙でもなく、「そのあと」に訪れる「整ったふるまい」の圧力なのではないか?
本記事では、電子文芸誌『ハツデン...!』8月号「怖いもの/恐怖症」特集に寄せた寄稿文をもとに、TarCoon☆CarToonとして、「善意の制度化」「空気が決める感情」といった概念を通して、現代社会における“恐怖の正体”を語ります。
それは、「わからない」と言えない空気への恐怖、「ふるまいがあらかじめ決まっている」ことへの不安だ。
「恐怖のあとに何が残るのか?」──この問いを軸に、規範と逸脱、善意と無責任のあいだで揺れる時代の倫理を見つめ直す試みである。“問いを殺さない態度”として、TarCoon☆CarToonが綴った恐怖論。
*本記事は、雑誌『ハツデン...!』8月号「怖いもの/恐怖症」内で、「恐怖の正体は“あと”にある──善意が生む規範化恐怖症」というタイトルで寄稿しています。こちらの本もお読みください。
*本記事は、雑誌『ハツデン...!』8月号「怖いもの/恐怖症」に増補版を公開予定です。
善意が生む規範化恐怖症
「恐怖」という言葉に出会うとき、人はしばしばその対象を暴力や災害、死のような即物的で直接的な危機と結びつけて理解しようとする。恐怖とは、戦慄し、叫び、涙を流すといった身体の反応であり、それらは本能的な生存反応であると説明されがちだ。けれど、そのような定義では、日々感じている“じわじわと染みてくるような怖さ”や、“なんとなく息苦しい空気”といった微細で持続的な不安の正体を捉えることはできない。
オイラは、そうした「恐怖の即物的理解」に異を唱えたい。問いたいのは、「何が怖いのか?」というよりもむしろ、「怖さがどのように生まれ、どこに残るのか?」という構造そのものだ。はっきり言えば、恐怖とは「出来事そのもの」ではなく、「出来事のあと」にあらわれる“ふるまいの変化”にこそ宿っている。これがオイラの考える出発点になる。
つまり恐怖とは、「感情の動き」ではなく、「社会的リアクション」として捉えたほうがいい。たとえば、災害や戦争、テロ、パンデミックといった極限状況において、人々が一時的に示す悲鳴や涙は、むしろ素直で自然なものだと感じる。けれど、その出来事が「終わったあと」、オイラたちは“どうふるまうか”を問われはじめる。誰が何を言うべきか、どのような感情を共有すべきか、どちらの立場に立つべきか──そういった「ふるまいのコード」が、いつのまにか空気のように社会を覆いはじめる。
このとき、恐怖のかたちは変わってしまう。目の前の現実への即応から、「空気への服従」「共感の演出」「態度の規格化」といった、より間接的で制度的なものへと転化していく。そこでオイラは、「わかっているふり」というキーワードをあらためて掘り起こしたくなる。その場の空気に合わせて振る舞うことの倫理的な不自由さや、他者に見せる「正しさ」が義務のように要求される息苦しさが、そこに確かにあるからだ。
つまり、恐怖とはもはや生理的な反応じゃない。それは、社会が変わってしまったことに対する感覚であり、その変容に無自覚なまま巻き込まれていくことへの、遅れてやってくる感情なのだと思う。だからこそ、オイラはこう言いたい──「恐怖とは“あと”に残るものだ」と。
暴力の瞬間にではなく、沈黙が義務になり、感情が制度化され、問いが封じられてしまった“その後”にこそ、本当の恐怖は息をひそめている。オイラの論考は、そこから始まる。
感情の全体主義──共感の強制としての恐怖
感情って、本来はもっと不安定なもので、バラバラで、個人の内側で勝手に生まれるものだと思ってる。揺れたり、噛み合わなかったり、誤解されたりしながら、ようやく誰かと分かち合えるのが「共感」だって、オイラは思ってる。でも最近じゃ、この「感情」そのものが、義務や規範みたいな顔をして立ち上がってくる場面が多すぎやしないか?
とくにSNSなんかでは、「怒るべき場面で怒る」「泣くべき場面で泣く」といった、ふるまいのテンプレートが空気のように共有されているように感じる。そしてその型にハマらないと、「無関心」「冷たい」「不誠実」みたいなラベルが貼られたりする。
オイラが指摘したいのは、そういう構造そのものなんだ。感情の全体主義って、オイラは呼んでる。
これって、昔の独裁政権みたいに思想や言論をがっつり統制してくるわけじゃない。もっとやさしく、もっと善意っぽい顔して、気づかないうちに忍び寄ってくる──“共感”のかたちをした同調圧力なんだ。
この「共感の強制」がやっかいなのは、それがいかにも“いいこと”として登場することだ。「思いやり」とか「正しさ」とか、否定しようのない言葉をまとって、ふるまいの正解をつくってしまう。するとどうなるか。表面上は優しさで満ちているように見えても、そこからちょっとズレた感情表現は、すぐに排除の対象になってしまう。
たとえば、事件や災害が起きたとき。「コメントを出さないのは不誠実だ」っていう声が飛んでくる。
でも求められてるのは、事実確認や慎重な考察じゃない。「悲しいですね」「許せません」「被害者に寄り添いたい」──そういう**“適切な感情”を、適切なタイミングで、適切な言葉で表明すること**が正しさの証明になってしまっている。
オイラには、それがすごく怖い。
共感って、本来もっと複雑なものでしょ?
悲しみがすぐに来ない人もいる。怒るよりも戸惑う人もいる。何も言えなくなる人だっている。
「今ここで悲しまなきゃおかしい」っていう空気のなかで、無理やり自分をその感情に寄せていくと、どこかでちいさなひび割れができる。それが、違和ってやつだ。
その違和こそが、感情にとっての大事な揺らぎだと思うし、それを感じとる自由がオイラにとっての「人間らしさ」なんだ。
けれど、今の空気はそれを許さない。「わかっているふり」だけが、生き延びるための免罪符になってる。
そのくせ、誰も命令してるわけじゃない。空気を読んで、察して、あらかじめ正しいふりをしておく。それを、オイラたち自身が自動的にやっちゃってる。
そう、全体主義って、もう国家や指導者が押しつけてくるもんじゃないんだ。
オイラたちが善意や常識のなかに飼ってしまってる、“正しいふるまいの自動化”こそが、それなんだ。
怒らなきゃいけない、悲しまなきゃいけない、黙ってたら冷たいと思われる、違う意見は冷笑になる。
そういう世界で、本当に「自分の感情」で生きてるって言えるのか?
誰かの涙や怒りをコピーしただけのふるまいが、自分の生の証になるって、ほんとに言えるのか?
オイラは、その空気がいちばん怖い。
「社会の表情の硬直」という病
恐怖が社会に残すもの──オイラの言葉で言えば、それは「社会の表情の硬直」だ。
つまり、出来事の“あと”に変化する空気が、顔つきやふるまいや言葉の選び方にまで染み込んで、表情がひとつの方向へ引きつったまま、戻らなくなってしまうという状態。
この比喩は、ただの気分や印象じゃない。もっと根の深い、構造的な変化をとらえてるつもりだ。
たしかに危機の直後には、一時的な混乱や混沌が広がる。けど、それが過ぎると今度は急に、やけに整った秩序が現れることがある。
みんなが落ち着きを取り戻して、同じ方向を見つめ、「わかっている」顔をしはじめる。でも、その顔こそが、オイラにとっての“恐怖の痕跡”だ。
表情が固まる。言葉が選ばれすぎて、態度が整いすぎる。
オイラはそれを、「整形された顔のように、表情を変えられない社会」と呼んだ。
多様な感情の出入り口が塞がれて、“正しいふるまい”だけが通行許可をもらってる。そんな空気のなかで、「違ってもいい」が抜け落ちていく。
人間って、もっとぐにゃぐにゃしてる生き物じゃなかったっけ?
表情がコロコロ変わるのは、感情がゆらぐからで、それが不安定なまま誰かと関わるっていうことなんじゃないか。
でも今は、その揺れが「一貫性がない」とか、「信用できない」とかって排除される。
代わりに求められてるのは、「整ってる態度」「明確な立場」「わかりやすいリアクション」。
そんなのばっかだ。
だから、間違えられない空気が濃くなっていく。
誰もが「ちゃんと悲しんでいるふり」をして、誰もが「間違ってないふり」をしている。
その“ふり”が定着したとき、じゃあ、本当の感情ってどこにいったの?ってオイラは思う。
あるいは、もうそれが「本物」と「見せかけ」の区別なんてつかなくなってるんじゃないか?
怖いのは、それにすぐには気づけないことだ。
むしろ、空気が落ち着いたように見える瞬間こそヤバい。
なぜならその静けさって、恐怖が「感情の型」になって沈殿してしまった兆候だから。
恐怖ってのは、死や暴力のことじゃない。
オイラが本当に怖いのは、そのあとに社会の空気が変わってしまって、
変わったことにすら誰も気づかなくなる、その無風状態だ。
「すべてがうまく説明されてしまう」ようになったら終わりだと思う。
すべてに名前がついて、感情には正解があって、ふるまいには模範がある。
そんな世界じゃ、問いは生まれないし、違和も立ち上がれない。
みんな、整った言葉で感情を納めて、静かに納得したふりをしていくだけになる。
そのとき、オイラたちは何を失ってる?
それって、たぶん「人間性そのもの」なんじゃないかと思ってる。
変わること、迷うこと、揺れながら誰かと向き合うこと。
それこそが、人間であることの不確かさであり、信頼の始まりなんじゃないかって。
「人間は表情がコロコロ変わるからこそ愛おしい」って、オイラは言いたい。
それは、表情=ふるまいが「まだ決まっていない」からこそ、希望が残ってるってことなんだ。
恐怖の真の姿って、だから“危機”の顔なんかしてない。
むしろ、「何も起きてないように見える」その日常にこそ、オイラは怖さを感じてる。
表情が動けない空気。変わることができない社会。それが、オイラにとっての“硬直”という病だ。
SNS社会と「語ることの暴力化」
今の時代で、いちばんふるまいや感情が丸見えにされて、しかもその“あり方”まで管理されてしまう場所──それがSNSだと、オイラは思ってる。
とくにTwitter(X)はその典型で、発言ひとつひとつが、たちまちその人の思想や倫理観、政治的な立場までも映し出す記号に変換されてしまう。
「何を言ったか」じゃなくて、「どう言ったか」「なぜ黙っているのか」が評価や信頼を左右する世界。
そこでは、語ること自体が“態度”として監視され、判断の対象になってしまう。
事件が起きれば、何か言わなければ「無関心」だと見なされ、言ったとしても「浅い」「ずれてる」「踏み込みが甘い」と叩かれる。
つまり、語ることが評価され、黙ることが非難される。
その構造のなかで、「語らない自由」はどんどん痩せ細っていくし、発言はまるで踏み絵みたいになっていく。
オイラがよく目にするのは、「Twitterに逃げてきた人」たちが、そこでまた「語ることの正しさ」に追い詰められてる姿。
もともと語ることが怖くて、外から押し出されてきたような人が、いざ語ろうとした瞬間に、また別の怖さに包囲されてしまう。
皮肉な話だ。
人とつながるために言葉を使ってるはずの場所が、
いつのまにか、「語ること」それ自体が怖くなる場所に変わってしまってる。
もっと厄介なのは、その語りが**「正しさの競技」**になってること。
どれだけ早く、どれだけ適切に、どれだけ共感的に発言できるか。
言葉の選び方、タイミング、姿勢までもが採点されて、
発言は「表現」じゃなくて、「提出物」としてジャッジされていく。
そんな環境のなかで、語ることは徐々に、暴力のかたちを帯びはじめる。
オイラが言う「暴力」っていうのは、他人を罵倒したり、差別語を使うことだけじゃない。
むしろ、本来なら対話の入口だったはずの「語り」が、他者を沈黙させていく道具に変わってしまうこと。
「自分の正しさを証明するための武器」になってしまったとき、それはもう暴力なんだと思う。
そしてその暴力性は、決して悪意をまとってやってこない。
「被害者に寄り添いたい」とか、「社会をよくしたい」とか、
否定しづらい正義の顔をして、
“語るべき”という空気を作り出し、それに乗らない人間を「不誠実」と見なす。
黙ってる人には、「なぜ黙っているのか?」「あなたの立場は?」という問いが、
まるで照明のように向けられて、沈黙さえも選別の対象になる。
けど、本当に問われるべきなのは、誰が発言したか、誰が黙っていたかじゃない。
誰が、どうやって語ることを暴力に変えてしまったのか。
そして、それに誰がどんなかたちで加担してしまっているのか。
その視点が抜け落ちてしまえば、発言はすぐに管理と排除の装置になってしまう。
オイラがほんとうに恐れてるのは、「語らなければいけない」という空気によって、
誰もが息苦しくなってしまってる構造なんだ。
誰かを傷つける発言よりも、
「発言しないことのほうが悪い」とされる空気のほうが、もっと根が深い気がしてる。
語ることに追われ、沈黙にも怯え、逃げ場がなくなっていく。
「もはやどこにも隠れ場所がない」という感覚は、たぶん暴力そのものより深い。
言葉って、自由であるはずなのに、
いまはもう、語っても黙っても、“自由”じゃなくなってる。
ここで気づかされるのは、言葉の自由って、ただ「語る自由」だけじゃないってこと。
「語らない自由」や「保留する自由」、「沈黙する余地」があってこそ、
初めて語ることが意味を持てる。
そのバランスが崩れたとき、
語ることは他者をケアする言葉じゃなくて、誰かを線引きするための道具に変わってしまう。
オイラは、語りたいと思ってる。
でも、その語りが誰かを黙らせてしまうものであってほしくはない。
語ることは開くことのはずで、
誰かの入り口になれるような言葉を、もう一度取り戻せたらって、そう思うんだ。
「知らない」と言えない社会と閉じゆく世界
「怖いのは、知らないことではない。怖いのは、『知らない』と言えない雰囲気が出来上がることだ」
──TarCoon☆CarToon
この一文には、オイラがずっと感じてきた核心がそのまま詰まってる。
「知らない」って、もともとは学びや対話のスタートラインに立つための言葉だったはずだ。けど、今の空気じゃ、そう言うだけで“無知”“怠慢”“鈍感”ってレッテルを貼られちまう。
とくにSNSなんかでは、「知っているふり」をすることが、なんとかして生き延びるための最低限のふるまいになってる。わからないって言えない。間違えることができない。そういう空気にどっぷり浸かってると、「知らない」ことそのものが人格の否定に直結してしまう。
たとえば、社会問題について「知ってる?」と聞かれて、「わからない」と答えたとする。それだけで、「意識が低い」とか、「当事者意識がない」とか、「無責任なやつ」とか、人格そのものが評価されてしまう。
「知らなかった」と正直に言った瞬間に、オイラは非人間的な存在みたいに扱われて、「そこにいるべきじゃない」と切り捨てられてしまう。
それが、今の社会のリアルな姿なんじゃないかって思う。
でも、いちばん怖いのは、それが“誰かの命令”によってじゃなくて、みんなが「良かれ」と思って、「わかっているふり」を積み重ねているうちに、世界そのものがだんだん閉じていってしまうことなんだ。
問いが生まれない。間違いが許されない。
「わからない」と言った瞬間に対話の扉が閉じるなら、もうその先には何も始まらない。
問いってのは、いつだって「まだわかっていないこと」からしか始まらない。
でも「わからない」と言えない空気のなかでは、人はみんな、あらかじめ用意された“正しさ”に乗っかって、それっぽいことを言おうとする。
すると生まれてくるのは、本当の問いじゃなくて、“わかってるふり”の再生産だけなんだよな。
この閉じ方は、議論の場だけにとどまらない。
仕事でも、友だちづきあいでも、日常のあらゆるところで、「知ってるふり」は求められる。
「そんなことも知らないの?」って言われないように、前もって答えを用意しておく。
「知らない」と口にすることが、まるで爆弾を抱えるようなリスクになる。
そうやって、交われたはずの出会い、始まったはずの対話が、静かに、確実に失われていく。
恐ろしいのは、知識そのものじゃない。
「知識のふり」をキープし続けることに、全神経を奪われること。
そして、それが当たり前になったとき、世界は“知っているふり”で構成された、閉じきった空間に変わっていく。
オイラが言いたいのは、世界は暴力的な出来事で壊れるんじゃなくて、静かに、気づかれないまま、ふるまいの積み重ねで縮んでいくこともあるってこと。
“何も起きないまま”、ゆっくりと世界が閉じていく。
それが、オイラにとっての、もっとも不気味な恐怖だ。
そして、それに抗うってことは、「もっと知れ!」っていう努力のスローガンじゃ済まないと思ってる。
必要なのは、「知らない」と言える勇気。
「わからないまま」でいる余白。
「保留します」と言っても、相手に見放されない関係。
そういう空気を、ちゃんとつくっていけるかどうかなんだ。
問いを生むには、「知らない」という状態を、人間の自然な姿として肯定できるかどうかにかかってる。
オイラはそう思うし、だからこそ、「わかってるふり」に一度立ち止まることから、
世界との向き合い方を、もう一回、やり直せるんじゃないかって信じてる。
恐怖の正体とは何か──感情の規格と倫理の遅れ
「恐怖」って、つい感情的な反応や突発的な事件のこととして片づけてしまいがちだけど──
オイラが見ているのは、そういう“瞬間”じゃない。
恐怖ってのは、そのあとにゆっくりと立ち上がる“ふるまいの変化”のなかにこそ潜んでると思ってる。
たとえば、怒る、悲しむ、語る、黙る──
どれも本来は自由なはずの感情や態度なのに、そこに「正しさ」が結びつけられてしまうと、一気に空気が変わる。
「こうすべき」「こう感じるべき」っていうテンプレが先回りしてきて、そこに合わせなきゃいけないみたいな雰囲気が、じわじわと迫ってくる。
そうなると、恐怖ってのはもう、外から押しつけられるもんじゃなくなる。
むしろ、自分のふるまいの中に、知らないうちに入り込んできて、住み着いてる。
誰かを責めることで正義を演じたり、語ることで誠実っぽさを演出したり、「知ってるふり」で人間性を証明しようとしたり──
そうやって「正解のふるまい」が増えれば増えるほど、自由に感情を抱くこと自体が難しくなっていく。
だからオイラにとっての恐怖の正体は、「自分の感情が自分のものじゃなくなること」だ。
「今こう感じなきゃいけない」という空気のなかで、ふと自分の感情を疑いはじめる。
「こんなふうに感じてるオイラはおかしいんじゃないか?」って、内側で監視が始まる。
そうなったとき、人は〈感情〉を生きてるんじゃなくて、〈演技〉を生きてる。
でもその演技は、誰かに命じられて仕方なくやってるわけじゃない。
むしろ、「こう感じるのが自然」「この反応がふつう」っていう空気に合わせていくことが、
いちばん無難で、いちばん安全なふるまいになってるだけなんだ。
で、ここでオイラが強く思うのは──この恐怖って、倫理が足りないとか、無いとかいう話じゃないんだ。
倫理が“遅れてる”んだよ。
どういうことかっていうと、
「正しいふるまい」は社会的にもう整備されて、みんながすでに使ってるのに、
それを支えるべき内面の熟慮や、他者との関係性の構築、感情の咀嚼が追いついてない。
「共感しなきゃいけない」「語らなきゃいけない」「怒らなきゃいけない」っていう外側の形式ばっかが先に流通してて、
内側の準備はぜんぜん間に合ってない。
だから、「考える前に正しくふるまえ」っていう風に空気が回る。
そのズレが、オイラの言う“恐怖”の根っこなんだ。
爆発みたいな暴力じゃない。
制度化された“善意”のスピードに、自分の身体や感情が追いつけない。
その結果として生まれる「居場所のなさ」──これが、今の恐怖のかたち。
しかもこの恐怖って、いつも“あと”にやってくる。
暴力のあと。災害のあと。事件のあと。
沈黙が流れ、空気が一変し、「何を言うべきか」がだんだん決まっていくなかで、ようやくオイラは気づく。
「これ、本当に自分の感情だったのか?」
「今オイラが語ってるこの言葉は、誰の声だったのか?」
恐怖は、身体が震えたその瞬間にはまだ姿を現さない。
その震えを、「正しく解釈」しようと、空気が整えられはじめたときに、
ようやくその正体が浮かび上がってくる。
感情と倫理が一致しないまま、制度の速度にあわせてふるまいだけが先に走る。
その置き去りにされた心。そこに、いちばん深い恐怖がある。
だからこそオイラは、「本当に怖いのは、いつも“そのあと”にある」って言いたい。
何が起きたのか、よりも、
そのあと、みんなどう振る舞いはじめたのか。
それを問えるかどうかが、
この社会がまだ“社会である”って言えるかどうかの、ぎりぎりのラインなんだと思う。
恐怖のあとで、もう一度ふるまうということ
恐怖とは、叫びでもなければ、死でもない。
そのあとに訪れる「ふるまいの変化」──それこそが、オイラが見つめていた“恐怖の正体”なんだ。
出来事に反応して、涙が流れ、身体が震え、声が詰まる。そこに嘘はない。
でも問題は、その直後に、「どう振る舞うか」「どう感じるべきか」が、言葉にされず決定されていく過程にある。
そうなるともう、自分の反応を信じきれなくなってくる。
世の中が求めるふるまいと、自分の中でかすかに感じていた何かが、ずれていく。
そのずれをごまかすために、「わかっているふり」をして、語るべき言葉を探して、態度を“整える”。
そして、いつの間にか「ふるまい」は制度になる。
制度となったふるまいが、人間の心をも規格化しはじめるとき、恐怖はもう過去の事件や暴力じゃない。
未来に向かう「不自由な予感」として、ずっと身体の奥底に沈殿していく。
オイラが描きたかったのは、まさにその構図だ。
「怖いもの」とは、
「わからない」と言えない社会であり、
「違和感がある」と言えない空気であり、
「ふるまいが決まってしまっている」という状態そのものなんだ。
──だけど、同時に、**それを反転させたもう一つの“恐ろしさ”**もまた、世界には広がってる。
「わからない」ことを当たり前と吹聴するバカどもが蔓延し、
「違和感がある」と言いながら陰謀論をばらまき、
「自由なふるまい」と称して自省も責任も持たず、やりたい放題やってる連中。
それもまた、「怖いもの」なんだ。
規範に押しつぶされることも、逸脱が野放しになることも、どちらも“問い”を殺す。
前者は「違和感を持ってはならない」空気をつくり、
後者は「違和感を持つことすら悪用される」空気を生む。
恐怖とは、そういう両極に引き裂かれながら、
語ることも語らないことも、どちらも「消費されていく」感覚なんだ。
好きとか嫌いとか、怒りとか同情とか、全部が“用途”に変わってしまった世界で、
「まだ問いかけることができる余白」が減っていく。
それが一番怖い。
だからこそ、オイラが提唱したいのは、制度でも逸脱でもない「揺らぎ」なんだ。
“わかっていないふり”じゃなくて、“わからなさ”をそのまま生きる態度。
“好き勝手に振る舞う”んじゃなくて、“まだ決まっていないふるまい”に耐える姿勢。
その倫理的な「遅れ」や「保留」に、恐怖を超える手がかりが眠っている。
「人間は表情がコロコロ変わるからこそ、愛おしい」
それは、不確かさに耐える倫理への信頼であり、
説明しきれないものに場所を与える政治的想像力であり、
「知らなさ」や「違和感」を、誰のものにもせずに持ち続ける思想的余白なんだ。
恐怖のあとに何が残るかは、まだ決まってない。
けれど、そこでオイラがもう一度“ふるまい”を選びなおせるなら、
それは恐怖の連鎖を断ち切る、小さくもしなやかな「態度の再発明」になる。
この営みは、オイラが語ってきた《人間の再発見》という思想と、深く響きあう。
ここで言う《人間の再発見》ってのは、近代的な主体の復権とかじゃない。
管理されすぎた善意に抗い、
規格化された共感に揺さぶりをかけ、
責任なき自由を飼いならし、
「人間であることの不完全さ・未完成さ」に、もう一度信頼を寄せるってことだ。
制度でも逸脱でもなく、正しさの押し付けでも、無知の開き直りでもないところで、
オイラはもう一度、「問う人間」「迷う人間」「震える人間」として、
ふるまいを、再び始めたいと思ってる。それが、《人間の再発見》という問いであり、
そして、恐怖のあとにもなお残る、オイラのなかの最後の倫理なんだ。
*ここからは、 -official web site-限定内容となります。ハツデン…!8月号の本編を読んだ後にお読みください。
どちらかと言うと本音で言いたかったのはこちら側の内容です。
特別付録:イナゴ系”への恐怖──「ふるまいが決まってしまっている」時代に生きる私たちの不安
「イナゴ系」や「ネットイナゴ」と呼ばれる人々に、どこか鬱陶しさや迷惑さを感じるとき、オイラは本当に彼らの“ふるまい”そのものに怒っているのだろうか?と思うことがある。
オイラが、イナゴ系に怒っている人たちに感じているのは、そこにある種の〈無意識的な恐怖〉が紛れているのではないかと疑っている。
彼らは、事件や発言をめぐっていち早く反応し、空気を読み、怒りや正義を表明する。そのスピードと集団性は、ある意味で「模範的」ですらある。しかし、私たちはそれを模範として受け止めるどころか、反射的に「うるさい」「うっとうしい」と感じてしまうことがある。それは本当に彼らの過剰さのせいなのか?
──あるいは、それは私たち自身の「遅れ」や「ためらい」を突きつけられることへの防衛反応ではないのか?
つまり、ネットイナゴが怖いのは、単に攻撃的だからでも、無責任だからでもない。その本質は、彼らが“文脈を破壊する力”を持ちながら、しかも“善意”を掲げてふるまっている点にある。複雑な背景や揺らぎを押し流し、「正しい空気」に一斉に染まるその姿は、見る者の中に「自分がズレてしまうかもしれない」という不安を呼び起こす。
人々は、彼らの標的となった人々の姿に、自分自身の未来を重ねてしまう。「もし自分が少し言い間違えたら?」「文脈を誤解されたら?」──そんな想像力がリアルに働くからこそ、イナゴ系への恐怖は単なる嫌悪を超えた、〈恐怖症的〉な拒否反応へと育っていく。
その拒否反応の根底には、「空気から逸脱すること」への不安がある。周囲が感じているように自分も感じられているか? 共感できているふりができているか?──“ふるまいの正しさ”を外れた瞬間、自分が次の標的になってしまうかもしれないという無意識の予感。それは一種の社会的ホラーであり、「語れないことがある」という怖さが、“語りすぎる人々”を通して逆照射されているのだ。
このとき、恐怖とは叫びや死ではない。そのあとに訪れる「ふるまいの変化」こそが本質だ。身体が震え、涙が流れる──そこに嘘はない。だがその直後、「どう感じるべきか」が空気の中で決められていく。その空気に合わせて語るべき言葉を探し、自分の態度を“整える”。そうして「ふるまい」は制度となり、人の心さえ規格化されていく。
恐怖は過去の事件ではなく、未来に向かう「不自由な予感」として残る。「怖いもの」とは、「わからない」と言えない空気であり、「ふるまいがあらかじめ決まっている」状態のことだ。
そしてもう一つ、見落としてはならない別の恐怖もある。「わからない」と言いながら無責任にふるまい、「自由なふるまい」を掲げて他者への配慮や自省を捨てるような逸脱だ。これは制度の反対側にあるようでいて、結局は同じように「問い」を殺すふるまいである。制度によって抑圧される空気も、逸脱によって荒らされる空気も、どちらも社会の呼吸を奪い、“違和感”や“遅れ”を言葉にする余白をなくしてしまう。
だからこそ、オイラが信じたいのは「揺らぎ」だ。答えの出ない問いのなかで、それでも迷いながら、ふるまいを選びなおすこと。善意に追い詰められず、自由に無責任にならず、ただ「決まりきらなさ」に耐えること。それは制度でも逸脱でもない、第三の倫理であり、小さくとも確かな《人間の再発見》の営みなのだ。
私たちは今、「ふるまいが決まってしまっていること」への恐怖、つまり〈規範化恐怖症〉の時代を生きているのかもしれない。怖いのは、事件や暴力だけじゃない。「何をどう思えばいいか」が無言のうちに押し付けられ、「それ以外の態度」が浮いてしまうこと。
その空気のなかで、「オイラはオイラのふるまいを、もう一度選びなおす」──その態度こそが、問いを殺さない唯一の倫理になると、オイラは信じている。
なお、「イナゴ系」や「ネットイナゴ」と呼ばれる人々について、オイラはあえて肯定的に呼び直したいとも思っている。彼らは、無意識の感情を増幅し社会を動かす〈エモーショナル・カタリスト〉であり、秩序を横断しながらミームを運ぶ〈ノマディック・ミーマー〉なのかもしれない。あるいはもっと中立的に、その役割と存在を認められる名前が、他にあるはずだ。
わからなさの中で名づけること。名づけきれないまま、それでも応答すること。オイラは、その不確かさのなかにしか倫理が生まれないと思っている。
彼らのふるまいが問いを殺しているように見える時、私たちがすべきなのは「問いを閉ざす彼らを批判すること」ではなく、「その問いを、もう一度開きなおす」ことだ。オイラが語るのは、彼らの排除でも、迎合でもない。未完成なまま、揺れながら、関わり方を問い続ける──そんな、人間らしさへの小さな信頼の話なのだ。

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