2019 無人島ごみひろいin家島 環境問題を一人一人が問うこと。ごみひろいの感想

先日、無人島ごみひろいに参加しました。毎年恒例で半年に一度開催されており、春に友ヶ島、秋に家島に向かいます。
ちょっとした遠足みたいで、気の知れた人や、初めてあうユニークな人たちと集団行動するのはとても楽しい。

無人島ごみひろい

島ごみのほとんどは都会のごみが流れ着いたもので、島から出たごみはほんの僅かでしかありません。これは和歌山県・友ヶ島だけの問題ではなく、無数の島や海岸が友ヶ島と同様、都会のごみで覆われていると考えられます。
私たち島ごみプロジェクト実行委員会は、瀬戸内を中心に様々な島で活動することに挑戦しています。 島での活動を通じて、社会全体のごみについての意識やごみの状況が改善されるのではないかと考え ています。

https://shima-gomihiroi.jp/about.html

ボランティアの価値を見つけた!

さてごみひろいである。これはボランティアです。オイラ自身これまで個人的な考えでは、ボランティアにあまり価値を感じていなかった。
いなかったと過去形なのは、今回一つの解答が出てきて、そして価値を見出せたからですね。ボランティアをするということの意味を実感できたと言う方が適切かもしれません。
そして、その答えは”問い続ける”ということが目的であって、その目的と結果が同時に存在している事に価値があるとわかったという事です。あらゆる問題の根本的な解決に倫理的な解決があると思います。その倫理的解決のために、この問うということがある。問うことでしか人間は問題を意識を持てないし、問題を解決する為の前進はできない
それこそが今回のボランティア『無人島ごみひろい』で得た答えでした。
オイラ自身にとって、このごみひろいというボランティアが、なぜゴミ拾いをしているのか?との問いと同時に、そこに答えも居合わせていたことに気づいたのはとても衝撃だった。
今回は、その自分なりの衝撃をまとめたいと思います。

*本当に言いたいことはここまでで全部言えたし、ここから先は読む必要はないのだけれども、興味のある方は読んでください。

なんでボランティアしてんだろう?

オイラが無人島ごみひろいに参加して、今年で6年目になります。
その度に何故ゴミを拾うのか?なぜボランティアでなければいけないのか?ということを問い続けてきました。
というのも、個人的にはゴミ問題、地球環境問題は楽観視していて、技術の進歩が科学的にゴミ問題を解決させると信じて疑わなかったし、多額の金を投じて清掃作業を行えば改善するだろうと思っていたからです。そしてそもそも地球環境問題そのものが利権の為にでっち上げられた国際金融資本による壮大で謀略的なデマではないかとすら疑ってすらいました。
だから何で個人的に苦労してまでゴミを拾うのか?というのがわからなかったし、そもそも人間の労働力をマネーを投じずに労働を課すということに疑問を感じてさえいました。
それだったらチャリティーを通じて集まった金を清掃資金に当てた方が、労働者も潤うとさえ、浅い知識で安易に考えていました。(今思えばそもそも、なんも考えていなかったなぁとさえ思える)

目の前の問題を解決する

しかし、それでもごみひろいに参加してきたのは、まず目の前にあるゴミを拾った瞬間に、その目の前にあるゴミ問題は解決したからなんです。
これは拾った瞬間に感じたことでした。人間が生活していない無人島。そこにはゴミを処理する人がいない。けれども今この拾った瞬間に目の前のゴミは処理できているじゃないか!そしてこれはゴミ問題の解決に至る道のりにおいて、間違いなく前進しているんだという達成感と実感があった。
更にこの様にも感じました。このゴミは海に再び流されず、適切にまとめられ、適切に処理され、再びゴミとして漂う事はなくなる。
きちんと処理することで目の前の問題は解決しているのだ。これは、毎日排出され増え続けるゴミ問題の根本的な解決には至ってはいないけれども、それでも目の前に存在しているゴミについては処理されているという点で解決している。その衝撃と感動はとても大きかった。

楽しいからゴミ拾う

それとは全く別の観点でいうと、楽しさがそこにあったというのも大きい。
ごみひろいのスタッフやあの場に集まる参加者たちの人柄が好きでそこに居たいという気持ちでやってきたというのがあります。自然の中でのんびりと過ごす。
まぁ普通に楽しいんですよ。遠足みたいでレジャーですレジャー。

それでいいのか?問題は解決したのか?

とはいえ、これでは何故ごみひろいをやっているのか?という説明に自分の中では納得はいっていません。
何故なら毎日排出され増え続けるゴミ問題の根本的な解決に至っていないし、ごみひろいのスタッフやあの場に集まる参加者たちの人柄が好きなのであれば、ごみひろいではない場所で会えばいい話です。
だからどうにも、自分の中で納得がいかずに、その答えを求めて問い続けるために、ごみひろいに参加してきたというのも、もしかしたらあるかもしれません。
ごみひろいに参加する度に考え、みんなに会いたいから会いに来ているのだけれども、逆にそうではない、行かなくていい理由も探していた様にも思えます。

議論が繰り広げられる時間-ワークショップ

こうして個人的に”ごみひろいをなぜするのか”という問いを続けてきたが、無人島ごみひろいでは、ただゴミを拾うだけのボランティア活動だけではなく、お互いに意見を交わし合うワークショップもあります。
ワークショップは泊まり込みでキャンプをする時に行われるのですが、夜にお酒を飲みながら気軽に議論を交わし合う感じですね。
たまに白熱した議論が繰り広げられ、問い続けるという意味ではとても有意義な時間です。
ゴミを拾うという実作業の場では、なかなかゴミ問題をじっくりと考える時間はないので、1日の振り返りとしても、ゴミ問題を見つめ直すのにも良い時間でもあるわけです。

問題の解決方法

いろんな意見が飛び交いました。法で取り締まるべきだとかね。
個人的には大反対ですよ。だってなんでそんな自由が奪われなきゃいけないの?オイラそんなことに気を使って生きたくない。地球よりも自分の生活が大事!と考えてしまうタイプなのですが、とはいえ個人的な感情は抜きにして、オイラはじっくりと考えたいタイプなので、長期的な人類の繁栄自分たちの子供たち次の世代の人々の生活を考えれば、今なんらかの形で抜本的に解決しなきゃいけないよね?というのもわかるわけです。わかるけれども、最近取り上げられているマイクロプラスチック問題だとか、あのあたりがよくわからない事が多い。本当に害になっているのかどうかわからないですしね。

ゴミ問題は本当に問題なのだろうか?

マイクロプラスチックまでいかなくても、海の生き物がプラスチックを食べ物と間違って食べ続け、消化されずに胃に溜まり死んでしまうという話を見る。その観点で言えば個人的にはかわいそうなので、なんとか取り除いてあげたいな。という気持ちが湧く。
でも、今生活するのにいっぱいいっぱいの人たちに自分の生活とは直接関わりのない生き物のことに気を使えるのか?というと、それは難しいでしょう。
目の前の問題を解決することでいっぱいいっぱいになっている人たちに長期的な目線に立てだとか、広い目線で考え様だとか自分が生きるのでさえ苦しいのに、未来の子供達、地球全体の事を思えだとか、そんなの強要できません。

演説で関心を寄せることはできたか?

16歳の環境活動家のトゥンベリさんの話を思い出した。米ニューヨークの国連本部で開かれた「気候行動サミット」で温暖化防止を訴えた演説だ。
なぜオイラが彼女に共感できなかったか?それは人々の関心を置いてけぼりにして、暴力的な言葉で強制しようとしているように写ったからです。
彼女の言っていることは正しい。正しいがそれで問題が解決するようには思えないのだ。
そしてそう思った時にオイラはあることに気づいた!
”置いてけぼりにされる気持ち”である。
人々には優先すべき事が山の様にある。もちろん地球環境問題も優先すべき事でしょうけれども、人々には実感する機会がないチャンスがない。あるとすれば最近頻発し始めた異常気象がもしかしたら、温室効果ガスの影響かもしれない。それでもそれが実際に自分たちの行動の結果、そうなったかどうかを知る術はない。
そして、オイラ自身がこれまで環境問題はその気になれば解決すると信じてきていた様に、身近でないものに、人々はいちいち意識することはないし、解決しなければいけない問題であるということすら気付かない。

そして、今大多数の人々は現状ではまだまだどうしようもない状況になっているとは思えていない。
トゥンベリさんの言葉が空虚なものに感じたように、多額の金をかけてまで解決すべきことでもないし、法で縛りつけるほどのものでもないと思い込んでいる。
そこには環境問題を意識しない、意識していないという事があるのでしょう。

空虚な議論の中で気付いたこと。

ごみひろいの夜に開かれたワークショップでの座談会。環境問題をどう解決するか?という答えのないと問い。ここにもオイラはここの会話がとても空虚なものに感じた。空虚に感じたのは議論がではない。ここでしか議論が行われていないことへの空虚さです。
ごく普通の生活をしている大多数の人々が議論していないことへの空虚さです。
それはトゥンベリさんの演説の様に、人々が環境に目を向けないとどうにも解決しないというのがわかるからだ。
だから法的に縛らなければいけないという意見や、オイラ自身が考えていたお金で解決する、科学の発展がどうにかしてくれるだろう、という希望的観測すらも空虚に感じたのだと思います。ここだけでしか話されていないからだ。
例え何らかの方法で問題が解決し、環境破壊は防がれ、ゴミが地球上から一掃されたとして、それは本当に問題を解決したと言えるのだろうか?
気がつけば誰かの手によって美しくなったけれども、よくわからずまた同じ事を繰り返し地球を人類が住む事ができない星にしてしまうのではないか?そんな繰り返しをこれからもするのか?
そう思ったからこそ、ワークショップで出てくる議論の限界を感じていたし、国連本部でトゥンベリさんが暴力的な言葉も効果がある様に思えなかった。
しかし、でもこのごみひろいの活動が無駄ではないんだなと感じる事があった。

一人一人が問うこと。に気付いたこと。

ごみひろいに参加している人達の思いが本当にいいんです。素直で純粋に良くないこととして考えている。少しでも良くしたいね、綺麗にしていきたいね。と思っている人たちがいる事である。
普段の生活でも、ゴミを意識して生活しているという声を聞く事にも感動した。残念ながらオイラ自身はそこまで考えて生活はできないけれども。でもその感覚は間違いではないんだなと今では思う。
そこに希望があった。それは日々問い続けているからだということもわかった。ゴミ問題は何も考えずにただ惰性で生活することでは気付きません。でもこうしてごみひろいに参加した人たちがどうすべきか見つめることで少しづつ正しさが浸透していく。そんな気がしたのです。
演説やPRなどの啓蒙活動ではなく、一人一人が問い続けることである。
そして人間は問う生き物だから人間なのである。
これはお金や、科学的な解決ではない根本的な解決である。そう気づいた。問うという事があらゆることの原点だという事に今更長気づいたと言ってもいいかもしれない。
6年もかかった。6年もかかったけれども、実感としてそういう事だったのか!と気付けたのは大きい。この感動は何事にも変え難い。
なぜならば、これまでオイラは何度も問う事が人間だし、問い続ける事が人間らしさで、問う事を奪う様な事があっては人間でいる必要はないし、どんどん人間から問う事を奪