作品データ(1967)
■ タイトル 日本のいちばん長い日
■ 製作年 1967年
■ 製作国 日本
■ 配給 東宝
■ 上映時間 157分
作品データ(2015)
■ タイトル 日本のいちばん長い日
■ 劇場公開日 2015年8月8日
■ 製作年 2015年
■ 製作国 日本
■ 配給 ファントム・フィルム、KATSU-do
■ 上映時間 130分
日本のいちばん長い日(2015年版)
ストーリー
1945年7月、戦局が厳しさを増す中、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表された。連日閣議が開かれ議論に議論が重ねられるが、降伏かそれとも本土決戦か結論が出ないまま8月に突入。広島、そして長崎に原爆が投下され『一億玉砕論』の声も上がる中、日本最大の決断がくだる。しかし降伏に反対する若手将校らは玉音放送を流させまいとクーデターを企て皇居やラジオ局占拠に向け動きはじめる……。
解説
混迷極める太平洋戦争末期の日本において国の行く末を模索する人々の姿を描いた、半藤一利のノンフィクション小説を映画化。陸軍大臣、天皇陛下、総理大臣など閣議に参加した人々の姿と、クーデターを企む青年将校たちの姿が描かれる。監督は『駆込み女と駆出し男』など、人間ドラマに定評のある原田眞人。
スタッフ
■ 監督 原田眞人
■ 原作 半藤一利
■ 脚本 原田眞人
■ 製作 迫本淳一
キャスト
■ 役所広司
■ 本木雅弘
■ 松坂桃李
■ 堤真一
■ 山崎努
日本のいちばん長い日(1967年版)
ストーリー
戦局が次第に不利になってきた日本に無条件降伏を求める米、英、中のポツダム宣言が、海外放送で傍受されたのは昭和二十年七月二十六日午前六時である。直ちに翌二十七日、鈴木総理大臣官邸で緊急閣議が開かれた。その後、八月六日広島に原爆が投下され、八日にはソ連が参戦、日本の敗北は決定的な様相を呈していたのであった。第一回御前会議において天皇陛下が戦争終結を望まれ八月十日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。十二日、連合国側からの回答があったが、天皇の地位に関しての条項にSubject toとあるのが隷属か制限の意味かで、政府首脳の間に大論争が行なわれ、阿南陸相はこの文章ではポツダム宣言は受諾出来ないと反対した。しかし、八月十四日の特別御前会議で、天皇は終戦を決意され、ここに正式にポツダム宣言受諾が決ったのであった。この間、終戦反対派の陸軍青年将校はクーデター計画を練っていたが、阿南陸相は御聖断が下った上は、それに従うべきであると悟した。一方、終戦処理のために十四日午後一時、閣議が開かれ、陛下の終戦詔書を宮内省で録音し八月十五日正午、全国にラジオ放送することが決った。午後十一時五十分、天皇陛下の録音は宮内省二階の御政務室で行われた。同じ頃、クーデター計画を押し進めている畑中少佐は近衛師団長森中将を説得していた。一方厚木三〇二航空隊の司令小薗海軍大佐は徹底抗戦を部下に命令し、また東京警備軍横浜警備隊長佐々木大尉も一個大隊を動かして首相や重臣を襲って降伏を阻止しようと計画していた。降伏に反対するグループは、バラバラに動いていた。そんな騒ぎの中で八月十五日午前零時、房総沖の敵機動部隊に攻撃を加えた中野少将は、少しも終戦を知らなかった。その頃、畑中少佐は蹶起に反対した森師団長を射殺、玉音放送を中止すべく、その録音盤を奪おうと捜査を開始し、宮城の占領と東京放送の占拠を企てたのである。しかし東部軍司令官田中大将は、このクーデターの鎮圧にあたり、畑中の意図を挫いたのであった。玉音放送の録音盤は徳川侍従の手によって皇后官事務官の軽金庫に納められていた。午前四時半、佐々木大尉の率いる一隊は首相官邸、平沼枢密院議長邸を襲って放火し、五時半には阿南陸相が遺書を残して壮烈な自刃を遂げるなど、終戦を迎えた日本は、歴史の転換に伴う数々の出来事の渦中にあったのである。そして、日本の敗戦を告げる玉音放送の予告が電波に乗ったのは、八月十五日午前七時二十一分のことであった。
解説
大宅壮一名義(実際の著者は当時編集者だった半藤一利)で当時の政治家宮内省関係、元軍人や民間人から収録した実話を編集した同名原作(文芸春秋社刊)を、「上意討ち -拝領妻始末-」の橋本忍が脚色し、「殺人狂時代」の岡本喜八が監督した終戦秘話。撮影は「喜劇 駅前競馬」の村井博。
スタッフ
■ 監督 岡本喜八
■ 原作 大宅壮一
■ 脚色 橋本忍
■ 製作 藤本真澄 、 田中友幸
キャスト
■ 三船敏郎
■ 黒沢年雄
■ 笠智衆
戦後70年の節目の2015年8月8日に再映画化された『日本のいちばん長い日』ですが、この作品は1967年に岡本喜八監督によって一度メガホンが取られたのです。 おいら大昔に一度レンタルして見た記憶があるのだけどね、でも当時はよくわからなかったのよ。 んで、今回、再映画化されると聞いて、もう一度見直して見ることになったんですね。 それがもう面白くてさ。面白くて仕方なくてさ、折角だから、今年に上映された(2015年版)は絶対に観ようと心に誓ったのです。 そこで今回の『映画観』は、1967年版と2015年版の両方合わせて感想を述べたいと思いますよ。 結論から述べると(1967年版)と(2015年版)どちらも良い! しかしながら、これは同じ原作を元に作られた映画ではあるけれども、リメイクとか新劇場版というように考えない方がいいかもしれないね。 群像劇を疾走感のある演出で描かれたエンターテイメント(1967年版)と、情緒的に描かれた政治サスペンスの(2015年版)というべきなんかなぁ? 出来事や人物は同じではあるけれども全く違った描かれ方をしている。原田眞人監督は両作品を楽しめるようにかなり意識して作られたんじゃないだろうか。 (1967年版)と(2015年版)の両方を合わせてみることで全体的に補完しあって観れるようにできていると感じたのよ。
疾走感のある演出で描かれたエンターテイメントの1967年版
半世紀近く昔の作品なのに、これがまたカッコ良いんだ! 全体に通して流れる疾走感がいい! カット割りのテンポと聞きなれない難しい言葉のリズムの良いこと。 観ていて飽きないね。 20分もあるアヴァンタイトルも良いね。それだけで引き込まれる。 日本側がポツダム宣言を察知してから、米軍の沖縄上陸と広島の原爆投下までの流れを一気に進めるのだけど、それがすごいのよ。 おいらが好きなシーンの一つなんだけれども、会議を進めている中、轟音とともに突如差し込まれる原爆投下のシーンの絶望感。「うわぁ…」って思うよね。胸が締め付けられる。 アヴァンタイトルの疾走感も良いけれども、本編に入ると、台詞もまたカッコ良いのよ。
- 「難しいよ。戦争をやめることじゃなくて、どうやって陸軍を抑えるかがね」(水書記官長)
- 「不服な者は、この阿南の屍を越えていけ!」(阿南陸相)
- 「阿南君は暇乞いに来たんだね」(鈴木貫太郎総理大臣)
- 「一人の赤裸々な日本人として右するか左するか決めたいと思う」(森近衛師団長)
- 「我らただただ純忠の大義に生きんのみ!」(畑中中佐)
どれも美しい日本の言葉、カットのリズムと相まって気持ちが良いんだよね。台詞がずっと耳の奥で児玉しているのよ。その演出が飽きさせない作りになっているんじゃないかなぁ。 後半はついに決起して宮城(皇居)を占拠するのだけれども、史実としては失敗に終わってしまうことを知っていたとしても、こんな事態をどうやって収拾するんだろう?って不安になったのよねぇ。 そういう風に観客を引き込ませる役者の演技というのは素晴らしい。
情緒的に描かれた政治サスペンスの2015年版
大事なのは戦後70年の節目に作られたということなんじゃないかなぁ。現代の人が過去を振り返るのに必要な映画で、これはやっぱり岡本喜八監督の1967年版と合わせて観ることで楽しめるように作られたのだと、思いたい。 冗長ではあるけれども、群像劇として作られた1967年版では描くことのできなかった、阿南陸相や、天皇陛下、そして鈴木総理の心の内面を中心に物語にしたのだと思う。 おいらはわりと面白かったと思っている。 ただ残念なのは、やはりこれ単体では内容は伝わりにくいんじゃないかな?と思ったんですよね。 ポツダム宣言受諾に関する陸軍の抵抗とか、いつの間にが玉音放送をすることにになっていたりとか、1967年版を散々見直して、挑んだにもかかわらず、いつの間にか話が進んでいて、史実を知っていないと何が起きているのかわからないんじゃないかな?とおもったんよ。 特に玉音放送のくだりは、旧版では天皇陛下がなんでもするといった上で、陸軍や海軍を鎮めるのに自ら出向くと言ったり、玉音放送をするなんて恐れ多いという意見がある中、なんとか放送をするという決断に至るのだけれども、2015年版では気がつけば放送をする事が決まっていたのよね。 だから、あの8月14日から8月15日の出来事を知らない人が見たら置いてけぼりを食らうんじゃないかな?とおもった。 ともあれ何度も言うようだけれども、これは1967年版と合わせて観る事を前提としてたならば、阿南陸相の人柄や、これまでは描く事すら不敬とされた天皇陛下を見る事ができたのだし、映画として観るならば満足のいく作品でした。
なんとなく思ったこと
玉音放送で天皇陛下が音読する、終戦の詔書の内容を閣議で決めるシーンがあるのだけれども、そこで迫水久常(内閣書記官長)が『時運ノ趨ク』に拘って他の大臣が「難しい言葉を使う必要はない」と反対していて、なんでこの台詞を入れたのかなぁ?と気になった。 考えすぎかもしれないけれども、おいらにはどうもこのあたりの台詞が、1967年版との差別化を監督(もしくは脚本家)自身が伝えようとした、一種のメタ発言なんじゃないかなと思ってしまったのよね。 もちろん1967年版の独特の台詞回しはかっこいい!でも聞き手の感情に訴えかける事がなければ何の意味もない!と言いたかったのかなぁと。 つまり、この2015年版はやっぱり、現代の若者やこれからを生きる人にかつて生きた昔の人の気持ちに寄り添って考えて欲しいといった気持ちで作られたのかなと思うのよ。 感情に訴えて、こうだったのではないか?ああだったのではないかと、考えを巡らさないと、感情移入出来る隙を与えないと、埋もれて消えて無くなってしまう。 そういう意味では、今回天皇陛下を作品の中で描けたのも良かったのだとおいらは思う。 監督は、なんとしても、過去の出来事を埋もれさせたくなかったんじゃないかな?と思ったのよね。 バイチュ〜♪ (。^3^)ノシ⌒★ つ づ く @TKMS_all4Aさんをフォロー