インスタグラムに定期的に投稿している食事の写真です。コンビニのご飯でも器に盛り付けるだけでも美味しそうに見えるものだということを感じたので写真を撮り始めました。
器に盛り付けた写真と、盛り付ける前パッケージ上の写真を掲載しています。Instagramに投稿。その第1作目。
清貧を心掛けるとノブレスオブリージュ
清貧とは、無理に富を求めようとはせず、行いが清らかで貧しい生活に安んじていることを言います。またそれは、私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であることでもあります。
個人的に思うことを述べるとすれば、ブルジョワジーが行えばそれは道徳的に良い人に見られるでしょうから、清貧という価値観はとても良いことに見えるでしょうが、貧困層がそれを行なってしまうと、最低限の生活の補償も得られずにより苦しい立場に追いやられるのではないか?という思いがよぎるので、実は自分自身が好んで使う言葉ではないと思っています。
また、SDGsが叫ばれている現代ですが、富裕層の消費が落ち込めば景気は後退し貧困層はより食べるのも厳しくなるので、清貧を心掛けるというスタンスはよろしくないと感じたりもします。それは、ブルジョワジーの財力、権力、社会的地位の保持には責任が伴うと考えるからこそ清貧を心掛けるのはいかんのではないかと感じるのです。
しかしやはり、強欲に富を追い求めること自身は道徳的にあまり宜しくないと、感じるわけですから、比較的貧困ではないほんの少し富裕層の人々は心掛けることを良いとして、丁寧な暮らしやミニマリストと称して責任が伴う行動を蔑ろにしているように思えてしまうのです。
一体何に日かかっているのかというと、清貧を心掛けるというこの心掛ける欲の部分に違和感を感じているのです。
ではどうであればいいのか?それは、私欲をすてて行いが正しいために、生活が質素であるということであって欲しいということです。
まず義務を果たせ!といいたい。自ら質素でミニマムな生活に浸って、それをひけら返すな!
義務を全うし与えられた責任に向き合っていれば、自ずと清貧になるでしょうし、わざわざ心掛けるものではない!
そんなことが言いたくて、この投稿『清貧を心掛ける。シリーズ』というのをはじめたのを思い出しました。