餌か、あるいは食卓か? サイゼリヤ が社会に与えるもの ──テーマ『好きな飲食店』 ハツデン...! に寄稿して

誰と、どこで、どう食べるか──それは、単に空腹を満たす行為以上に、私たちがどんなふうに「共に生きているか」を映し出す営みだった。かつてファミレスのテーブルには、語らいがあり、黙って分け合う信頼があった。けれど、効率が正義となった今、飲食店は“餌を与える装置”へと変わりつつある。回転率、コスパ、セルフオーダー。会話の余地はどこへ行ったのか?

本記事では、サイゼリヤという空間を出発点に、「食べること」と「一緒にいること」の関係を問い直す。食卓が家から失われ、地域共同体も後退したいま、飲食店はかつてのように“居場所”になり得るのか? そして、そこにあるささやかなふるまいは、制度とどう向き合い、逸れることができるのか?

「餌か、あるいは食卓か」──この問いの先にあるものを、オイラなりに考えてみた。
本記事は、初田塾出版による雑誌『ハツデン...!』への寄稿文を加筆・再構成したものです。ミラノ風ドリアを囲みながら、「ここにいていい」と言える空気をどう取り戻すかについて、TarCoon☆CarToonとして綴りました。

*本記事は、雑誌『ハツデン...!: 好きな飲食店』内で「餌か、あるいは食卓か? サイゼリヤ が社会に与えるもの」というタイトルで寄稿しています。こちらの本もお読みください。

餌か、あるいは食卓か

飲食店とは、ただ腹を満たす場ではない。誰と、どこで、どう食べるかによって、人は自分の「居場所」を確かめている。けれど現代の社会は、そんな食の時間さえも効率化し、“餌を与える装置”へと制度化しようとしている。メニューは絞られ、席は狭くなり、滞在時間さえも計算されるなかで、オイラたちはいつの間にか「誰かと一緒にいる」ことを失ってしまったのかもしれない。

それでも、オイラは問い続けたい。食べるという行為のなかに、まだ「語り合うこと」「黙って共にいること」──そんな当たり前だった関係のぬくもりを取り戻すことはできないのか? その手がかりを、オイラはサイゼリヤという場に探しに行く。

「餌を与える装置」としての飲食店か、「語り合う食卓」としての空間か──。

かつてオイラたちに居場所を与えてくれたファミレス・サイゼリヤは、今どんな社会のかたちを映しているのだろう?

食べることをめぐる制度と空気のあいだで揺れながら、もう一度“共にいる”ためのふるまいを考えなおしてみたい。これは、ミラノ風ドリアを囲みながら見つめる、小さくて大きな制度設計の話である。

制度のなかの食事

「飲食店とは何か?」と問うことは、けっしてグルメレビューの範疇にとどまらない。それは、オイラたちが日々どこで、誰と、どのように生きているのか、そしてこれからどう生きようとしているのかという、より根源的な社会のありようを問い直すことにほかならない。食事とは、単に空腹を満たす生理的な行為ではない。誰と、どこで、どのように食べるかによって、人は「生きている実感」を受け取る。だからこそ、外食という制度、すなわち“飲食店”という空間には、「何を食べるか」以上に、「どう食べるか」が問われているのだと思う。

たとえば、サイゼリヤ。ミラノ風ドリア、100円ワイン、塩気の強い柔らかいフォッカチオ。どれも安価で、そしてどこか安心できる味がする。だが、オイラにとってサイゼリヤとは、決してコストパフォーマンスの象徴ではなかった。むしろ「誰かと一緒にいることに理由がいらない場所」として記憶されている。おしゃべりでも、沈黙でも、気まずくならない距離感。気を使わなくていい緩やかな空気。あのテーブルには、ささやかな共同体のようなものが確かにあった。

けれど、最近のサイゼリヤには、その空気がやや薄れているように感じられる。テーブルは小さくなり、椅子の背もたれは妙に硬く、間隔も狭まった。メニューからはいつの間にか「選ぶ楽しさ」が削がれ、オーダーする手元の動きはどこか機械的になっている。それは単なる店舗デザインや運用効率の変化ではなく、「食べる」という営みがどのように制度化されていくかの兆候として捉えるべきではないだろうか。

食事をめぐる制度は、社会の姿を映す鏡である。オイラたちの社会が「効率性」「自立」「回転率」を至上とする以上、飲食店もその方向へと変化していくのは当然の帰結だろう。だが、その過程で何が失われるのか。早く、安く、ひとりで食べられる環境が整う一方で、誰かと一緒に、ゆっくりと、黙っていても共有できるような時間や空気が、静かに失われているのではないか。

飲食店の変化は、ただの業態の変化ではない。それは、オイラたちが「どんなふうに一緒にいたいか」という願いが、どこで制度に組み込まれ、どこで切り捨てられるかという線引きの現場でもある。TarCoon☆CarToonとして、オイラはこの問題を見過ごすことができない。制度を風刺し、制度の中に現れる人間の可笑しみと悲しみを描こうとするなら、まずはこの「食べることのかたち」に向き合わなければならない。

飲食店とは何か。それは「食を通じて社会と関わる空間」のことであり、同時に「食を通じて他者と自分を知る場所」のことでもある。だからこそ、この問いは、飲食店の外にも届いていく。あなたの食卓にも、会社の休憩室にも、公園のベンチにも──そこに食べることがある限り、「どう生きたいか」という問いは、必ず潜んでいるのだ。

餌を与える装置としての飲食店

ファストフードが悪いとは思わない。だけど、そこにある“スピード”と“安さ”が、まるで価値の中心であるかのように振る舞いはじめると、オイラは少しだけ怖くなる。「早く、安く、迷わず食べられる」ことが至上命題になるとき、食べるという行為から“誰とどう食べるか”という問いがこぼれ落ちていく。食事が“栄養補給”という名のタイムアタックになりはじめると、そこに「関係」や「対話」は入りこむ余地を失ってしまう。

そういう意味で、飲食店は今、ひとつの分岐点に立たされているように思う。ひとつの方向は、「餌を与える装置」としての飲食店だ。時間のない労働者に、家庭を持たないひとり暮らしの人に、あるいは食事を“義務”としてしか扱えない多忙な日常の中にいるすべての人に対して、とにかく“速やかに”“安価に”“満腹になれる”ことを提供する場。オイラももちろん、そういう店に助けられたことがある。安く、そこそこにうまく、気を使わずにひとりで入れる。それ自体は必要な社会の機能だと思う。

けれど、問題はそこに“代替可能性”が入りこんできたときだ。つまり、どこで食べても同じ、誰といても変わらない、食べるという行為の「場所性」や「関係性」が溶けてしまうとき。食卓がただの機械的なインターフェースになってしまったとき、そこにはもう、会話も、記憶も、気配すら残らない。ただ「摂取」と「退出」だけが残る。まるで無人コンビニのイートインのように、あるいは画面の向こうの誰かが運んできてくれるデリバリーアプリのように。

サイゼリヤもまた、この二つの顔を持っている。オイラにとってはかつて「食卓」であり、「関係を編み直す場」だった。でも今、少しずつその空気が変わってきている気がする。長く座ることをためらわせる硬い椅子、手早く運ばれる皿、黙ってスマホを見る人たち。そこにあるのは、語らいではなく、滞在ではなく、「すみやかな消化と退店」だ。もちろん、すべてがそうというわけじゃない。けれど、社会全体が「餌の制度化」に傾いている今、その空気はたしかに場の設計にも染み込んできているように見える。

「餌で十分」と言い切れる強さも、ひとつの生き方だと思う。でもオイラは、もう少しだけ、誰かと食べたい。おいしいと口にして、それに返事があるという奇跡を、捨てずにいたい。飲食店が「装置」に戻ってしまう前に、それを「場」として守る声が必要なんじゃないか。空腹を満たす以上の価値を、もう一度テーブルの上に取り戻したい。

「餌か、あるいは食卓か」という問いは、誰かに用意された正解を選ぶことじゃない。食べるという日常のなかで、オイラたち自身がどういう空気をつくり、どういう関係を結び直していくか。その選び方の問題なんだと思う。だからこそ、飲食店のあり方を考えることは、同時に、社会のあり方を考えることに直結している。

失われゆく「共にいる」空間

かつて、食卓はもっとはっきりとした輪郭を持っていた気がする。家の中心にあって、そこにはルールがあり、秩序があり、なにより「一緒にいること」が前提として据えられていた。親が料理を運び、子どもが箸を並べ、誰かが牛乳をこぼして、誰かが黙ったまま天井を見つめていた。たとえ全員が同じ方向を向いていなかったとしても、あのとき確かにオイラたちは“ひとつの場”を共有していた。

その場は、特別じゃなかった。むしろ当たり前だったからこそ、それが「人間であること」の一部だとさえ、思っていなかった。でも気づけば、その当たり前は風化していた。三世代で暮らす家は少なくなり、核家族すらも定型ではなくなり、「家族団らん」は昭和の広告のなかだけに残されたレトリックになっていった。炊飯器の音よりも、レンジのチンという電子音のほうが親しみのあるサウンドになり、みんなが同じ時間に同じ場所で食べることは、むしろ調整の手間を要する“イベント”になってしまった。

だからこそ、サイゼリヤのような場所が、かつてオイラにとっては“救い”だった。家で食卓を囲むことが難しくなっても、あそこに行けば、誰かと一緒に食事ができた。友だちと、恋人と、バイトの先輩と、意味もなく集まり、長く居座り、ワインをもう一杯だけ頼む。その時間に大した深い意味はなかったかもしれない。でも、意味なんかなくても「共にいる」という事実だけで、心がほどけていく感じがした。

サイゼのテーブルは、オイラたちにとって「家の代わり」だったのかもしれない。気を張らなくていい。食べたいものを食べればいい。話したければ話せばいいし、黙っていても隣で誰かが笑っている。そこには、制度で決められたルールはなかった。でも、ちゃんと“空気”があった。長居していい雰囲気、注文が少なくても責められない距離感、そして「そこにいていい」という許しのような時間。不文律のやさしさが、そこには漂っていた。

けれど、今、その空気は確実に変わりつつある。滞在時間の短縮を促すような設計、静けさを強制するような照明、メニューの合理化、回転率という言葉の重み。あの頃はたしかに“人が集う場”だったはずのサイゼが、次第に“用を済ませる場”にすり替わっている。その変化は、個人の気持ちの問題じゃない。社会そのものが、「共にいること」よりも「個々に効率よく処理すること」を重視するようになってきたからだ。

だからこそ、食卓の記憶は、いまやオイラにとってひとつの“問い”になっている。もう一度、あの「何も話さなくても、誰かと一緒にいられる空気」を取り戻すことはできるのだろうか? そのために、飲食店はどうあってほしいのか? そしてオイラたちは、その空気を守るために、どんなふうに“ふるまう”べきなのか?

食卓は、制度ではなく、関係のなかに宿るものだった。だから壊れるときも、ゆっくりと静かに壊れていく。けれど、だからこそ、もう一度つくりなおすことも、きっとできるはずだ。誰かと向かい合い、食べ、話し、沈黙し、そして笑う。そのあたりまえの風景を、オイラはまだ、信じていたい。

サードプレイスとしてのファミレス──空気と不文律の政治学

家でもない、職場でもない、けれど確かに“そこにいていい”と感じられる場所。サードプレイスという言葉が流行りはじめたとき、オイラはそれを少しうさんくさいものだと思っていた。洒落たカフェやコワーキングスペースがもてはやされるのを見ながら、「そんな場所、本当に誰でも受け入れてくれるのかよ」と、どこかで突っ込んでいた。でもサイゼリヤに座っているとき、ふと気づいたことがある。オイラにとってのサードプレイスは、ずっと前からここだったんじゃないか、と。

サイゼは、オイラにとって最も身近で、最も気負いのいらない“居場所”だった。昼でも夜でも関係なく、誰とでも、あるいはひとりでも入れる。高くもなく、安っぽくもなく、店員さんも過干渉しない。長居しても、気まずさはない。そういう空気が、あの店にはたしかにあった。それは“設計”というよりも、“関係の蓄積”として醸成されてきたものだった。

そこでは、明文化されたルールではなく、「ふるまい」がすべてを支えていた。ドリア一皿でも堂々といられること、長時間いるときは少しずつ注文すること、静かに語り合うことも、たまに騒いでしまう若者を軽く流すことも、全部そこにいた人たちが場を読んで調整していた。そうした不文律が、制度よりもずっとやさしく、ずっと複雑に、場の空気をつくっていた。

TarCoon☆CarToonの視点で言えば、これはきわめて“政治的”な空間だったと思う。人と人が、制度に頼らず、空気によって共にあるための場。明文化された秩序ではなく、察しと気づき、寛容と自己抑制によって保たれる関係の場。言い換えればそれは、オイラたちが「制度に管理されない共生のかたち」を一時的に成立させていた証でもある。

だからこそ、オイラはあの空間を愛していた。家にいると疲れてしまう日も、職場では自分を偽らざるをえない日も、サイゼのテーブルには“素のままで座れる余白”が残っていた。食べながらしゃべってもいいし、黙っていてもいい。誰かがしゃべっていて、誰かが眠そうにしていて、誰かがワインをもう一杯だけ飲んでいる。そこには、「個」と「群れ」のあいだにある、ちょうどいいゆるさがあった。

だけどその“空気”は、制度に守られているわけじゃない。設計が変われば、回転率が重視されれば、照明やBGMが変われば、それは簡単に壊れてしまう。実際、オイラが最近感じるサイゼリヤの変化──椅子の硬さ、テーブルの狭さ、メニューの画一化、居心地の悪さ──は、まさにその“空気の破壊”にほかならない。

サードプレイスというのは、ただの「第三の場所」ではなく、「制度外の共生」を可能にする、きわめて繊細な空間だと思う。そしてファミレスは、実はその最前線にいた。制度でもなく、契約でもなく、不文律と気配によって成立していたあの場は、現代社会に残された最後の“やさしい無法地帯”だったのかもしれない。

オイラたちはいま、その空間を失おうとしている。だけど本当に、それでいいのか? 「誰でもいられる空間」を、企業の効率や社会のスピードに明け渡してしまって、オイラたちは、ちゃんと“人間らしい場所”にとどまることができるのか? サイゼのテーブルに残された最後の余白は、まだかろうじて、オイラたちの言葉とまなざしに守られているように思う。ならば、オイラはその余白を信じて、もう少しだけそこに座っていたい。

制度との距離のとり方──ふるまいとしてのレジスタンス

オイラたちは、制度のなかで生きている。
外食という仕組みも、メニューの価格設定も、座席のデザインも、注文の流れも、すべては「こうふるまうべきだ」という期待に沿ってつくられている。飲食店とは、食べるための場所であると同時に、「こうあるべき身体」の演出空間でもある。食べたらすぐ出る、注文は早めに決める、騒がず、黙って、静かに済ませる。そんなふうに、制度はオイラたちのふるまいを“型”にはめようとする。

けれどオイラは、そんな制度と、いつも“ちょっとした距離”をとっていたいと思う。真正面から戦うんじゃない。暴力的に壊すわけでもない。ただ、ほんの少し、ずらす。ほんの少し、溢れる。ほんの少し、逸れる。そういう微妙な“ふるまいの揺らぎ”のなかに、TarCoon☆CarToonとしてのささやかなレジスタンスがあると思っている。

たとえば、ミラノ風ドリアにエスカルゴのガーリックバターをのせるとか。小エビのサラダをメインディッシュのようにゆっくり食べるとか。そういうことだ。メニューに書かれている通りに食べるんじゃなくて、自分なりの組み合わせや時間配分で“編集”していく。それは制度の中に居ながら、それを鵜呑みにしない、ひとつの態度だと思う。

もう少し言えば、「語り合う」ということも、ふるまいのひとつだ。黙って食べるのが正解になりつつあるこの時代に、あえて声にすること、相手の言葉をきちんと聞くこと、それを咀嚼してまた返すこと。そうしたやりとりが許される空間を、オイラたちは“生きた制度”のなかに滲ませていくことができるんじゃないか。語ることで制度に穴を開ける。笑うことで空気を変える。黙ることで相手の居場所を残す。そういうひとつひとつの動きこそが、「食卓」を再構築する運動になるのだと思う。

重要なのは、抗うことではなく、ずらすことだ。制度の流れに真正面からぶつかるのではなく、そのリズムに少し揺れを加える。ファミレスの椅子に腰をかけたとき、オイラたちは“客”という役を与えられる。でもその役割を演じきらずに、ちょっとだけ「異物としてふるまう」ことで、制度のグルーヴにノイズを差し込むことができる。それはとても小さな行為だけど、だからこそ、強い。

オイラたちは、もう完璧な食卓には戻れない。家族も、時間も、場所も、すでに不確かなものになった。けれど、ふるまいを通じて、居場所の断片を拾い集めることはできる。制度の中に“生きた人間”として滞在することは、まだできる。サイゼリヤのテーブルに、ドリア一皿とワイン一杯を置いて、向かいにいる誰かと笑いながら、あるいはただ無言で向き合いながら、その時間を共有する。そんな場面が、制度のなかに小さな綻びをつくり、それがやがて“居場所”の設計図になっていくと、オイラは信じている。

制度を壊さず、でも完全には乗っ取られない。
そんな身振りを、これからもオイラは繰り返していきたい。
そのために、今日もまた、オイラはサイゼリヤへ行く。
同じメニューを、違うふるまいで食べるために。

ミラノ風ドリアを囲んで──居場所を取り戻すために

ミラノ風ドリアは、いまも290円だ。グラスワインは100円。フォカッチャは柔らかく、やや塩辛い。何も変わっていないようで、何かが少しずつ変わってしまったことに、オイラは気づいている。

かつてオイラたちは、このドリアを囲んで笑い合った。安くて、うまくて、気軽で、みんなでいられた。家がなくても、金がなくても、パーティーなんて開けなくても、「ここにいるだけで、何かが満たされる」そんな空気があった。サイゼリヤのテーブルには、食事と会話と沈黙とが、等しく並んでいた。人と一緒に食べることが、自然なことであり、当たり前だった。

だけどいま、その当たり前は静かに後退している。合理性という名の波が、空気を変え、設計を変え、人のふるまいを変えていく。食べたら出て行け、注文は手短に、話は控えめに、滞在は最小限に。そういう無言の合図が、オイラたちの居場所を少しずつ削っている。それでも、まだ完全には奪われていない。ミラノ風ドリアは、まだここにある。

オイラは思う。「ここにいていい」と感じられる空間を、もう一度つくりなおすことはできないだろうか。ただ懐かしむのではなく、制度を敵視するのでもなく、オイラたち自身のふるまいで。静かに座ること。食べること。語り合うこと。黙って寄り添うこと。それらを丁寧に選びなおすことが、「食卓」の再設計につながるのではないか。

オイラたちは、もうあの頃の家族には戻れない。けれど、あの頃のような「一緒にいる感覚」は、形を変えて続けられるかもしれない。それはきっと、TarCoon☆CarToonとしてのふるまいそのものだ。ずらすこと。ずれること。制度のなかで制度に従いすぎないこと。そして、偶像的でありながら、限りなく人間的であること。

サイゼリヤは、もはや単なるファミレスじゃない。オイラにとって、それは「問いを立て直す場所」になった。餌ではなく、食卓を選びなおすこと。他人とともにあることを、もう一度肯定すること。そして、誰かと何かを“囲む”という行為のもつ温度を信じること。

今、目の前にあるミラノ風ドリアに「いただきます」と呟くとき、オイラはその一皿に、制度と関係と、かつてあった居場所の記憶が折り重なって見える。それは過去ではない。これからも繰り返されていく問いのかたちだ。

   サイゼよ、おまえは餌場で終わっていいのか?

   それとも、新しい食卓として、もう一度オイラたちの関係を編み直す場所となるのか?

   その答えは、厨房にも、運営本部にもなく、いまこの席に座るオイラたち一人ひとりのふるまいの中にある。

   だったら、今日もまた、ミラノ風ドリアを囲もう。

   もう一度、食卓を始めるために。

(この記事は2025年4月6日に執筆したものです。)

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
PayPalで気軽に支援できます。

TarCoon☆CarToonに寄付してサポートする。
*キャンセルするまで毎月お支払い頂くサブスクの場合、
サポート料金¥960と、登録時初回限りの設定料 ¥960の、合計¥1,920が掛かります。

TarCoon☆CarToonの活動を支援できるサービスです。
ブログやイベント、オンライン上での活動を応援したい方はサポートしていただければ幸いです。

この記事を書いた人

TarCoon☆CarToon

ソーシャルアイドル/偶像家/プロパガンティスト やりたいこと、いっぱい!やりかけのもの、いっぱい!怒られること、いっぱい!楽しいこと、いっぱい!いっぱいがいっぱい、たーくんかーとぅーん!

お問い合わせ窓口

ConTact

展示・購入、講演会

TarCoon☆CarToonにご関心をお持ちいただきありがとうございます。展示・購入、講演など、お仕事のご依頼をお待ちしております。誤字脱字のご連絡や、ネタのタレコミ、その他のお問い合わせ、優待利用のご連絡、オンラインコミュニティへの参加申請等は、詳細ページのからご連絡ください。
コンタクト
問い合わせる所