誰と、どこで、どう食べるか──それは、単に空腹を満たす行為以上に、私たちがどんなふうに「共に生きているか」を映し出す営みだった。かつてファミレスのテーブルには、語らいがあり、黙って分け合う信頼があった。けれど、効率が正義となった今、飲食店は“餌を与える装置”へと変わりつつある。回転率、コスパ、セルフオーダー。会話の余地はどこへ行ったのか?
本記事では、サイゼリヤという空間を出発点に、「食べること」と「一緒にいること」の関係を問い直す。食卓が家から失われ、地域共同体も後退したいま、飲食店はかつてのように“居場所”になり得るのか? そして、そこにあるささやかなふるまいは、制度とどう向き合い、逸れることができるのか?
「餌か、あるいは食卓か」──この問いの先にあるものを、オイラなりに考えてみた。
本記事は、初田塾出版による雑誌『Monthly INAGO』への寄稿文を加筆・再構成したものです。ミラノ風ドリアを囲みながら、「ここにいていい」と言える空気をどう取り戻すかについて、TarCoon☆CarToonとして綴りました。
*本記事は、初田塾出版による雑誌『Monthly INAGO』への寄稿した文章の加筆修正版となります。本文は2025年5月の出版後に公開予定です。お楽しみに!
*本記事は、雑誌『Monthly INAGO: 好きな飲食店』内で、「餌か、あるいは食卓か? サイゼリヤ が社会に与えるもの」というタイトルで寄稿しています。こちらの本もお読みください。