「正統」と「異端」というラベルが、いつの間にか溶けてしまった時代に、我々は何を“厚み”として拾い直せるのだろうか。今月2月16日発売の『表現者クライテリオン』三月号に、友人の火野祐亮氏が寄稿した書評、平坂純一『最後の異端者 評伝 美輪明宏』をめぐる文章を読んで、そんなことを考えた。火野くんは美輪明宏という存在を、懐古ではなく「再配達」として受け取り直し、昭和の豊かさを“いま”の倫理と地続きに繋いでみせる。けれど同時に、戦後日本のアメリカかぶれと物質主義のなかで育ったオイラたち自身もまた、その時代の産物として、大衆として、粗悪品の側に立ってしまっている。その事実を否定せずに、希望を配り直すにはどうすればいいのか。火野くんの読み筋にうなずきながら、TarCoon☆CarToonとしての感想を綴りました。
今月16日発売の『表現者クライテリオン』三月号に、平坂純一さんの近著『最後の異端者 評伝 美輪明宏』の書評を寄稿させていただきました。ご一読いただけますと幸いです。 pic.twitter.com/WTC6k4Fm2s
— 火野佑亮の文化人チャンネル (@HinoYusuke20) February 13, 2026
*この記事は、『表現者クライテリオン』三月号掲載の火野祐亮「平坂純一『最後の異端者 評伝 美輪明宏』書評」への応答記事です。
まずは、ぜひ火野佑亮氏の寄稿をお読みください。
正統と異端が溶ける時代に、厚みを拾い直す
オイラは友人の火野佑亮氏の感想文を読みながら、最初にひとつの感触に触れた。
この人は“昭和”を守りたいんじゃなくて、“人間の厚み”を守りたいんだな、っていう感触だ。昭和という看板に惹かれているのではなく、昭和に残っていた会話の密度、場の匂い、庶民の生活感情、つまり「言葉が身体に結びついていた時代の手触り」に惹かれている。そして令和を「軽佻浮薄」と言うとき、火野氏が殴っているのは時代そのものじゃなくて、我々の世界に増えてしまった“薄さ”のほうなんだと思う。
火野氏が描く平坂純一は、そこで止まらない。平坂純一は、美輪明宏を語ることで昭和文化史を語り直し、さらにその語り直しを、いまの読者に届く語りへ変換しようとする。
文学を信じるとは何を意味するのか。評伝を信じるとは何を意味するのか。たぶんそれは、過去を飾り棚に並べることじゃない。過去を“いまの言葉で抱き直す”ことだ。過去の人が生きた時間を、いまの世界で、もう一度使える形にして差し出すことだ。そうだとしたら平坂純一の仕事は、単なる記録ではなく、ある種の包摂の仕事でもある。忘れられかけた厚みを、語りとして再配達する。しかも説教ではなく、会話の機知や、状況の具体や、詩的な象徴語で、読者が自分の腹で受け取れる形にして。
ここからはオイラの話をさせて欲しい。
我々の生きているこの国は、戦後日本のアメリカかぶれと物質主義の中で生まれ育ったものたちが、そのまま“大衆”になってしまった。美輪明宏の世代からすれば、それは残念な風景に見えるのかもしれない。けれど、残念だと嘆いて終わらせるのではなく、その残念ささえ含めて、誰かが希望を配り直す役目を担わなければならないのだろう、とオイラは思っている。
希望は、最初から綺麗な場所には宿らない。希望は、最初から正しい場所には宿らない。むしろ希望は、汚れた場所にしか生まれないことがある。だって、希望は“足りなさ”からしか立ち上がらないからだ。
火野氏の言う「粗悪品」、感覚を刺激するだけで消費されていくもの。それを我々は簡単に嫌悪できる。けれど、その粗悪品を生産してしまうのも、買ってしまうのも、結局我々自身の延長にあるのだとしたらどうだろう。粗悪品を切り捨てることは、自分自身の一部を切り捨てることにもなる。
だからオイラは、火野氏の感想文が「否定」ではなく「引き受け」へ降りてきた点に、強い誠実さを感じた。粗悪品の側にいる自分を引き受けたうえで、それでもなお、厚みのあるものへ手を伸ばす。その手の伸ばし方を、恥ずかしがらずに書く。これは、簡単なようで簡単じゃない。
火野氏が言うように、昭和文化史を振り返る意味は、「いまや少数派になってしまったとしても、我々はその衝波の連続した先に立っている」という自覚を持つことにあるのだろう。衝波というのは、たぶん“正統と異端がぶつかった波”であり、“郷里と異邦が交差した波”であり、“庶民の生活感情と上品な美意識がせめぎ合った波”でもある。自分たちは、その波が起こした地形の上に立っているのに、地形の成り立ちを忘れやすい。忘れると、今いる場所を「最初からこうだった」と思い込んでしまう。そこに思考停止のアホ共が生まれる。
火野氏の感想文は、その思考停止に楔を打つ。
過去を裁くのではなく、過去の痛みを無駄にしないために、冷静に考える。勝利を祝うのではなく、勝利の副作用まで見ようとする。結論へ飛びつくのではなく、彷徨を価値として残す。
それはつまり、包摂とは「許すこと」ではなく、「時間の中で脱落したものを拾い直すこと」なのかもしれない、という感覚に繋がっていく。ならばTarCoon☆CarToonがやるべきことも、統治や管理ではなく、見捨てられた厚みをもう一度観測し、語りとして手渡し、希望の形にし直すことなのだろう。
誰かを“正す”のではなく、誰かの時間を“取り戻す”。誰かを“黙らせる”のではなく、誰かの声が生まれ直す余白を“守る”。
オイラは火野氏の感想文を読んで、その仕事の輪郭を、もう少しだけ具体的に想像できるようになった気がした。……けれど、その想像はまだ途中だ。途中だからこそ、続ける意味があるのかもしれない。
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