「怖いね」と言いながら、なぜ私たちは、誰かのふるまいを整えさせたがるのだろう?
号泣、炎上、正義の波──そのすべてが、“こう感じるべき”という空気を生み出し、自由な違和感すら押し流していく。恐怖とは、叫びでも涙でもなく、「そのあと」に訪れる「整ったふるまい」の圧力なのではないか?
本記事では、電子文芸誌『ハツデン...!』8月号「怖いもの/恐怖症」特集に寄せた寄稿文をもとに、TarCoon☆CarToonとして、「善意の制度化」「空気が決める感情」といった概念を通して、現代社会における“恐怖の正体”を語ります。
それは、「わからない」と言えない空気への恐怖、「ふるまいがあらかじめ決まっている」ことへの不安だ。
「恐怖のあとに何が残るのか?」──この問いを軸に、規範と逸脱、善意と無責任のあいだで揺れる時代の倫理を見つめ直す試みである。“問いを殺さない態度”として、TarCoon☆CarToonが綴った恐怖論。
*本記事は、雑誌『ハツデン...!: 思想』内で、「恐怖の正体は“あと”にある──善意が生む規範化恐怖症」というタイトルで寄稿しています。こちらの本もお読みください。
特別付録:イナゴ系”への恐怖──「ふるまいが決まってしまっている」時代に生きる私たちの不安
「イナゴ系」や「ネットイナゴ」と呼ばれる人々に、どこか鬱陶しさや迷惑さを感じるとき、私たちは本当に彼らの“ふるまい”そのものに怒っているのだろうか?
オイラは、そこにある種の〈無意識的な恐怖〉が紛れているのではないかと疑っている。
彼らは、事件や発言をめぐっていち早く反応し、空気を読み、怒りや正義を表明する。そのスピードと集団性は、ある意味で「模範的」ですらある。しかし、私たちはそれを模範として受け止めるどころか、反射的に「うるさい」「うっとうしい」と感じてしまうことがある。それは本当に彼らの過剰さのせいなのか?
──あるいは、それは私たち自身の「遅れ」や「ためらい」を突きつけられることへの防衛反応ではないのか?
つまり、ネットイナゴが怖いのは、単に攻撃的だからでも、無責任だからでもない。その本質は、彼らが“文脈を破壊する力”を持ちながら、しかも“善意”を掲げてふるまっている点にある。複雑な背景や揺らぎを押し流し、「正しい空気」に一斉に染まるその姿は、見る者の中に「自分がズレてしまうかもしれない」という不安を呼び起こす。
私たちは、彼らの標的となった人々の姿に、自分自身の未来を重ねてしまう。「もし自分が少し言い間違えたら?」「文脈を誤解されたら?」──そんな想像力がリアルに働くからこそ、イナゴ系への恐怖は単なる嫌悪を超えた、〈恐怖症的〉な拒否反応へと育っていく。
その拒否反応の根底には、「空気から逸脱すること」への不安がある。周囲が感じているように自分も感じられているか? 共感できているふりができているか?──“ふるまいの正しさ”を外れた瞬間、自分が次の標的になってしまうかもしれないという無意識の予感。それは一種の社会的ホラーであり、「語れないことがある」という怖さが、“語りすぎる人々”を通して逆照射されているのだ。
このとき、恐怖とは叫びや死ではない。そのあとに訪れる「ふるまいの変化」こそが本質だ。身体が震え、涙が流れる──そこに嘘はない。だがその直後、「どう感じるべきか」が空気の中で決められていく。その空気に合わせて語るべき言葉を探し、自分の態度を“整える”。そうして「ふるまい」は制度となり、人の心さえ規格化されていく。
恐怖は過去の事件ではなく、未来に向かう「不自由な予感」として残る。「怖いもの」とは、「わからない」と言えない空気であり、「ふるまいがあらかじめ決まっている」状態のことだ。
そしてもう一つ、見落としてはならない別の恐怖もある。「わからない」と言いながら無責任にふるまい、「自由なふるまい」を掲げて他者への配慮や自省を捨てるような逸脱だ。これは制度の反対側にあるようでいて、結局は同じように「問い」を殺すふるまいである。制度によって抑圧される空気も、逸脱によって荒らされる空気も、どちらも社会の呼吸を奪い、“違和感”や“遅れ”を言葉にする余白をなくしてしまう。
だからこそ、オイラが信じたいのは「揺らぎ」だ。答えの出ない問いのなかで、それでも迷いながら、ふるまいを選びなおすこと。善意に追い詰められず、自由に無責任にならず、ただ「決まりきらなさ」に耐えること。それは制度でも逸脱でもない、第三の倫理であり、小さくとも確かな《人間の再発見》の営みなのだ。
私たちは今、「ふるまいが決まってしまっていること」への恐怖、つまり〈規範化恐怖症〉の時代を生きているのかもしれない。怖いのは、事件や暴力だけじゃない。「何をどう思えばいいか」が無言のうちに押し付けられ、「それ以外の態度」が浮いてしまうこと。
その空気のなかで、「オイラはオイラのふるまいを、もう一度選びなおす」──その態度こそが、問いを殺さない唯一の倫理になると、オイラは信じている。
なお、「イナゴ系」や「ネットイナゴ」と呼ばれる人々について、オイラはあえて肯定的に呼び直したいとも思っている。彼らは、無意識の感情を増幅し社会を動かす〈エモーショナル・カタリスト〉であり、秩序を横断しながらミームを運ぶ〈ノマディック・ミーマー〉なのかもしれない。あるいはもっと中立的に、その役割と存在を認められる名前が、他にあるはずだ。
わからなさの中で名づけること。名づけきれないまま、それでも応答すること。オイラは、その不確かさのなかにしか倫理が生まれないと思っている。
彼らのふるまいが問いを殺しているように見える時、私たちがすべきなのは「問いを閉ざす彼らを批判すること」ではなく、「その問いを、もう一度開きなおす」ことだ。オイラが語るのは、彼らの排除でも、迎合でもない。未完成なまま、揺れながら、関わり方を問い続ける──そんな、人間らしさへの小さな信頼の話なのだ。