本記事では、電子文芸誌『ハツデン…!』「2025年の漢字」企画に寄せた寄稿文を土台に、TarCoon☆CarToonとして“みゃくみゃく”の余韻を「脈=流れ」として捉え直し、二次創作と実務をどう結び、祭のあとを“続き”に変えるかを考えます。関西で受け取った流れを名古屋へ送り、さらに日常へ分岐させるための、通りのよさと萎れにくさの設計──それは、理念ではなく段取りの問題だという立場からの試論です。
問いは単純で厄介です。終わったイベントの熱を、どうやって“脈”として保存し配るのか? 怒りや標語だけでなく、増やすための手つき(小さな継続・小口の支援・役割の可変性)で関係を回せるのか? 「守るとは、生み出すことか?」という逡巡を軸に、所有より流通、スピードより滞りをつくらない運用、そして寛容∥自己抑制∥不文律という見守りの三原則を、具体の作法として提示します。
*本記事は、雑誌『ハツデン...!』「今年の漢字」特集に「みゃくみゃく、と続けよう ── 脈を守り、二次創作と実務で循環をつくる」という題で寄稿した原稿を基にしています。ぜひ本誌でもご覧ください。
*本記事は、雑誌掲載版に加筆・再構成した増補版です。
みゃくみゃく、と続けよう ── 脈を守り、二次創作と実務で循環をつくる
オイラが今年の漢字に「脈」を選んだのは、万博が終わったその夜、頬骨のあたりに妙な張りを感じたからだ。子どもの頃に泣き叫んだ後のような、表情が硬く押し固められた感じだ。もちろん泣いてなどいない。——でもそれは喪失の表情でも、単なる疲労でもない。会場を離れてなお、どこかで続いている脈の余韻が、顔の内側でこわばりになって現れたのだと思いたい。あんなに楽しんでいたものはもう目の前にない。にもかかわらず、あそこにあったものは方向を変え、速度を変え、何かの奥底を流れ続けている。では「続く」とは何を意味するのか? 展示物が片づいても脈動は止まらないのか? 祭が終わっても、関係の循環は弱まらないのか? オイラは、その見えない流れを「脈」と呼びたい。
会場は、いわゆる“万博らしさ”の喧噪から少し外れていた。とくに夕刻、光が斜めに傾く時間帯、万博会場とは似つかわしくない土の道に影が長くのび、足音がふっと小さくなる。カメラを掲げる人の腕、子どもの手を引きゆっくり歩く親子の歩幅、スタッフの視線の行き先——それぞれの動きが干渉せず、ほどよい距離で重なって、まるで森の小道を分け合うみたいだった。立ち止まると、音が引いていく。幼い頃の夕方、公園から帰る間際に胸の奥がきゅっとなるあの感じ——“もう帰る時間だよ”と言われる前から、身体の中で帰路の支度が始まってしまう、あの静かな心細さ。ミャク様ロス、と笑って言いながら、オイラはそれを脈の移動として受け取った。胸から足へ、足から指先へ、指先から紙へ。居場所を変えながら、脈は消えない。むしろ移るたびに性質を変え、別の可能性を帯びて立ち上がる。
会期中、オイラが何度も見かけたのは、誰かが誰かの「わからなさ」に付き合う場面だった。列の途中で由来を説明する人、隣の見知らぬ人に「ここからが面白いんです」と小声で告げる人、地図を指でなぞって最短ではなく“景色の良い”道順を示す人。そこでは、正しさの一点に向かうのではなく、通りのよさが優先されていた。知識の即時の優劣より、流れを途切れさせない工夫が評価される。オイラは思った——自由や多様性を口にするなら、禁止や破壊より、増やす方へ舵を切らないといけない。人を増やす、物語を増やす、寄り道の経路を増やす。万博の周縁に生まれた二次創作の奔流は、まさにその実験だった。描く、編む、歌う、運ぶ。所有より流通に価値が宿り、優劣よりつながりが地図になる。破壊だけを革命と呼ぶ態度には、たぶんこの生まれ続ける脈の面白さは伝わりにくい。けれど創作は“産むこと”の連鎖で、産むには脈が要る。流れが滞れば、思想も作品も先へ運べない。
オイラはときどき、ベンチに腰かけて人の肩越しに空を見た。雲が薄くほどけ、白い大屋根の縁にかかっては流れていく。耳を澄ますと、歓声は遠くでふくらみ、近くでは囁きが重層的に漂う。ここでオイラは「守る」という言葉の意味を考え直した。守るとは、命を生み出すことだ。何かを排除し固定することで守るのではなく、芽が出る環境をつくり、芽同士の間に風が通るようにし、弱い芽にも陽が射すように配置を変える。活動家の言う自由や多様性が、その“生まれ”の手触りと結びついたときにだけ、スローガンは脈を持つ。逆に、怒りの正しさだけで支えられたスローガンは、流れがないから長持ちしない。
70年の大阪万博「人類の進歩と調和」から、どれほどのクリエイティブが生まれたかは語り尽くせない。建築、デザイン、音楽、思想、そして生活の細部。大きな理念は、生活の細部に落ちるときに脈になる。2025年の「いのち輝く未来社会のデザイン」は、その継承であり更新だったとオイラは感じている。理念を箱に閉じ込めるのではなく、流れとして分配する。太陽の塔が“人間の尊厳”の神像だとすれば、ミャク様は“流れの人格化”。オイラは、その革命性を会期中にもっと言葉にできなかったことが少し悔しい。革命は爆発ではなく、流路の組み替えで起こる。どこに分岐を設け、どこを合流させ、どこに溜まりをつくるか。編集と同じだ。誌面も、会場も、都市も、脈設計の問題として横断できる。
「祭が大事だ」と言う声を、オイラは信じたい。だが、「祭が大事だ」と叫ぶ人たちは、なぜ万博という“超ド級の祭”に十分な関心を向けなかったのか——この問いは残る。もしかすると、あの巨大さは“自分の出番がない”感覚を生みやすいのだろうか。もしそうだとしたら、次に必要なのは「出番の設計」だ。観客で終わらせない導線、わずかな参加が確実に“誰かの役に立つ”と手応えできる仕掛け、帰宅後に自分の街で続けられる小さな継続の提案。脈が都市圏の外へ、生活圏の中へ、無理なく染みていく経路図。オイラ自身、会期中にそういう地図をもっと配れたのではないか。悔しさは学びの形をしている。
ここで一つ、オイラの妄想を聞いてほしい。会場の大屋根リングの木材を使って、関西中の神社にミャク様の祠を建てたい。祠は偶像のためではなく、脈を保管し分配する小さな装置だ。旅の御朱印みたいに、各地の祠で脈を受け取り、しるしを押していく。万博の各国スタンプラリーを関西の神社群に分散させて、会場で押しきれなかったスタンプをもう一度——そんな拡張版だ。祠の内部には細い管が通っていて、参拝者が掌をかざすと、管がほんのり温かくなる。——受け取った脈を、次の場所へ送る合図。そして関西にとどまらず、まずは名古屋へ、名古屋からさらに別の街へ。都市は点ではなく線で、線ではなく脈でつながる。オイラは、名古屋を革命の地にする、と大げさに言いながら、革命の実体を“毛細化”だと思っている。太い幹線だけでは届かない場所に、細い通り道を増やす。イベントは着火、ZINEは保温、日記は記録、対話は撹拌。どれも脈の管理だ。
具体的な活動の話をしよう。オイラは、関西から名古屋へ五つの脈を送る設計を考えている。人をつなぐ人脈、意味をつなぐ文脈、合図で通じ合う気脈、小口で回す資脈、そして系譜の稜線を見せる山脈。これは比喩の遊びではない。実務だ。日々、Xで短い記録を流し(文脈の維持)、月次で小さな会を開き(気脈の確認)、ZINEとチップで交通費・会場費を薄く支え(資脈の循環)、先人と現場を並置する読書・鑑賞ノートを撒く(山脈の可視化)。そして、それらの場に一人ずつ“友の友”を招く(人脈の増殖)。強い号令や厳密な規約ではなく、通りのよさと萎れにくさを優先する。オイラが掲げる「寛容∥自己抑制∥不文律」は、統治の原則ではなく、見守りの三原則だ。見ることは循環を助けるが、締め上げれば末端が冷える。温度と湿度を保つように、脈の条件を保つ。
オイラは最終盤、出口近くで家族の会話を耳にした。「よかった」「また来たい」。会期は終わるし、同じ形で“また”は来ない。それでも、その短い言葉の並びに脈を感じた。拍手ではなく、呼吸の列。誰も煽らず、誰も命令せず、それでも静かに同じ方向へ向かう気配。あれをどうやって日常へ持ち帰るか——それだけを考えながら、会場を出た。
帰宅して、オイラはサイト更新用のMacBook Proをひらいた。具体的な継続の方法を思い描きながら、作業に取りかかる。
1)公開しなくても、毎日日記を記す。
2)月一で小さな集まりを開く。
3)ZINEは形を問わず出す。
4)人と何かをやる時は“通りのよさ”を優先し、役割を固定しない。
5)寄付・チップは金額より流れの可視化を重視する。
やることは派手じゃないが、脈はこういう地味さでしか太らない。速さでも遅さでもない、滞りをつくらない設計が要る。
SNSでは流速が上がり、評価の値札がすぐ貼られる。そこで意味の脈は細りがちだ。だから、紙と声に戻す。紙は溜まりを作れるし、声は温度を伴う。議論が尖り始めたら場を変え、空気が淀んだら窓を開け、関係が硬くなったら役割を回す。正しさは必要だが、正しさを運ぶ通路がなければ流れない。通路づくりこそ、オイラの仕事だと思う。
万博で何が残ったのか、と問われたら、オイラはこう答える。——方法が残った、と。方法とは、誰かの隣に立つ距離の取り方であり、わからなさに付き合う時間の配分であり、分からないまま手を離さないための段取りだ。大きな理念は、方法に降りて初めて脈になる。だからオイラは、関西から名古屋へ方法の脈を送る。人を紹介し、事例を記録し、資金の通り道を細かくひらく。すべては「次に誰が続けやすいか」を基準に決める。
最後に、万博への悔しさも書き添えておく。オイラはあの場の革命性を会期中に十分に言葉にできなかった。それは事実だ。ただ、その不足は言葉を急がせるだけでなく、設計を丁寧にする動機にもなる。失敗の場所を特定し、次の回路図を引き直す。爆発ではなく、回復としての革命。太い幹で押し通すのではなく、細い枝を増やして到達点を増やす。これが、オイラのいう「脈」の倫理だ。オイラが言いたいことは、やっぱり単純だ。——脈を守れ。脈を編め。脈を途切れさせるな。
万博は終わった。けれど脈はここにいる。オイラの頬に、紙に、名古屋の夜風に。関西から送り出した脈が、名古屋で新しい分岐をつくり、誰かの日常の中でまた別の流れを生む。そのとき、オイラたちはようやく“祭のあと”を終えるのだろう。終わりではなく、続きとしての終わり。耳を澄ませば、聞こえるはずだ。——みゃくみゃく、と。
革命の地は名古屋だ、とオイラは決めている。平和な畿内と、騒がしい関東を横目に、ただ見守り続けようじゃないか。
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