「語ってほしい」と求められる空気のなかで、語らないことを選ぶのはなぜだろう?
共感、配慮、代表性──それらすべてが、善意の仮面をかぶって、語りを引き出そうとする。けれど、オイラは語らなかった。「演じきらないこと」「語りきらないこと」の中にも、誠実さがあると信じてきたからだと思う。
本記事では、電子文芸誌『ハツデン...!』9月号「Disability(障害/障がい者)」特集に寄せた寄稿文をもとに、TarCoon☆CarToonとして、「感動ポルノ化」「語りの引き出され」「共生の演技化」など、現代社会における“語ることの圧力”と“語らないことの倫理”について自分の体験をお話しします。
それは、「わかりあえなさ」のまま共にいることができるか?という問い。
「善き生とは何か?」という問いを軸に、語りと沈黙、理解とズレのあいだで揺れ続ける生の倫理を描き出す試みです。
“在り方の誠実さ”をめぐる倫理エッセイ──TarCoon☆CarToonが綴る、もうひとつの「障害を引き受ける」という姿。
*本記事は、雑誌『ハツデン...!』9月号「Disability(障害/障がい者)」に「語りえなさの隣に立つ──障害を引き受けながら、演じきらないという構え」というタイトルで寄稿しています。ぜひ本誌でもご覧ください。
*本記事は、雑誌掲載版に加筆・再構成した増補版です。