温度の暴政と、ぬるさの自由 ──テーマ『スーパー銭湯/サウナ』ハツデン...! に10月号に寄稿して

本記事では、電子文芸誌『ハツデン...!』10月号「スーパー銭湯/サウナ」特集に寄せた寄稿文をもとに、TarCoon☆CarToonとして、「温度の暴政」と「ぬるさの自由」を手がかりに、湯船・サウナ・水風呂・外気浴がつくる“共温性(きょうおんせい)”──同じ温度を共にするという公共の感覚──を考察します。水圧と他者の周圧、マナーと同一化、そのあいだに立ち上がる“場の機嫌”を見つめます。

それは、「同じ極端を共有するとき、私たちはどこまで“同じ”であるべきか?」という問い。
熱と冷の往復のあいだで“間(あいだ)”を保つ作法を探る試みです。

“ぬるさは怠惰ではなく、共同体のブレーキ液”──TarCoon☆CarToonが綴る、極端からの帰還訓練としてのスーパー銭湯論。

*本記事は、雑誌『ハツデン...!』9月号「Disability(障害/障がい者)」に「語りえなさの隣に立つ──障害を引き受けながら、演じきらないという構え」というタイトルで寄稿しています。ぜひ本誌でもご覧ください。

*本記事は、雑誌掲載版に加筆・再構成した増補版です。

温度の暴政と、ぬるさの自由──熱と冷のあいだで、人は“間”を保って人間となる。

 スーパー銭湯は、いくつもの湯船やサウナ、水風呂、外気浴スペースを備えた“大きな共同浴場”だ。仕事帰りの会社員も、週末の家族連れも、トレーニング帰りの若者も、みんな同じのれんをくぐる。そこで共有されるのは、静かに洗う・かけ湯をする・長椅子を譲り合う──という小さな作法たち。けれど見落とされがちだが、もっと大切なものがある。同じ温度を共にするという、暗黙の約束だ。

サウナ室の高温、冷たく締まる水風呂、少しぬるめの炭酸泉、外気にさらされるベンチ。館内は、熱と冷が周到に配置された“温度の地図”になっていて、砂時計やロウリュの合図に合わせ、人々はほぼ同時に、ほぼ同じ順序で温度を通過していく。誰かが指揮しているわけでもないのに、拍の合った行進のような一体感が立ち上がる。その光景は、まるでSNSのタイムラインだ。誰も命令していないのに、同じトレンドに飛びつき、同じ反応を繰り返す。温度は、個人の内側では完結しない──SNSの言葉もまた、個人の声を超えて「場のリズム」に飲み込まれる。

その体験は、たしかに社会性を育てる。けれど同時に、同じ極端を同じ順序でなぞることは、“みんな同じであるべし”という圧力に傾く危うさも孕む。裸で並ぶ平等は、優しさにもなるが、均一の命令にも変わりうる。ここでオイラは、二つの言葉を手がかりに考えてみたい。ひとつは、人を急がせ、揃わせ、締め付けてしまう設計としての「温度の暴政」。もうひとつは、熱と冷のあいだに挟まる外気の数分や炭酸泉のぬるさ、湯気の曖昧さが、判断を保温し関係をほぐす力として作用する「ぬるさの自由」だ。

オイラの関心は、設備の善し悪しそのものではない。圧(水圧/周囲からの周圧)と間(あいだ)という感覚をどう手入れすれば、場の機嫌を守りつつ、同一化の締め付けへ堕さずにすむのか──そこにある。合言葉はシンプルだ。protect, but do not control(保護せよ、しかし管理するな)。この小さな倫理を胸に、まずは湯の縁から、熱と冷の“間”へ降りていこう。

 オイラは思う。
極端を愛してしまうのは個人の癖だと思っていたけれど、スーパー銭湯の自動ドアが開くたび、そこに流れこむのは個人の癖をいったん棚上げにして“同じ温度を共有する”という、奇妙に公共的な訓練じゃないか、と。冷房で凍った身体が、熱気で救われるのはたしかに個人的な快楽だ。けれど、その快楽は、隣の誰かの呼吸と歩調を合わせたときに、初めて“場の機嫌”として立ち上がる。湯気の粒子は一人称では吸えない。温度は、いつだって複数形だ。

サウナもそうだ。高温に焼かれ、水で殴られ、外気で撫でられる──あの往復で身体は“バグる”。でもスーパー銭湯では、そのバグが同時発生する。砂時計の砂が落ち切るのを見守っていた十数人が、合図もなく立ち上がり、無言の隊列をつくって水風呂に吸い込まれていく。誰も指揮しないのに、誰も逆らわない。これをオイラは共温性(きょうおんせい)と呼びたい。拍の合う音楽みたいに、温度の切り替えが集団のリズムになる瞬間。個人の自律神経は、知らぬ間に他人の動きにチューニングされ、同じ温度差を、同じ顔つきで通過する。オイラだけが“ととのう”のではない。場がととのい、そこにオイラは乗せてもらっている。

風呂に浸かる理由も、ここでは少し違って見える。汗を流すだけならシャワーでいい──それは独居の論理だ。けれど大浴場で湯に沈むとき、安心させるのは水圧だけじゃない。隣の肩まで沈む音、桶の打楽器のような間欠音、湯面を渡ってくる小さな波。四方八方からの“圧”は水だけの仕事ではなく、他者の存在がつくる周圧でもある。やさしさじゃない、でも暴力でもない。匿名の他者から届くフェアな圧力の重ね書き。オイラはその周圧に包まれながら、自分の輪郭を測り直す。ここでは「触れないまま触れ合う」ことが、ちゃんと可能になる。

可笑しいのは、オイラたちが「人と人との間(あいだ)を保て」と言いながら、日常では極端へ走ることだ。0か100か。詰めるか、断つか。SNSでは曖昧が嫌われ、「ぬるい」は悪口になった。けれどスーパー銭湯では、“ぬるい”は機嫌を守る温度として尊ばれる。ぬる湯、寝転び湯、炭酸泉──どれも場のテンポを下げるための装置だ。早まる心拍が他人の心拍を煽らないように、怒りの立ち上がりを“場の粘度”で遅延させる。ぬるさは、共同体のブレーキ液であり、公共心の保温材でもある。

もちろん、“裸の平等”は暴力にもなる。刺青、体毛、年齢、障害、性自認、肌色。服を脱ぐほど“標準からのズレ”は露出するし、「同じ皮膚であれ」という無言の命令は濃くなる。張り紙のマナー、サウナマットの私物化、長湯の占拠──規範はすぐに統一へ転ぶ。だからオイラは繰り返す。protect, but do not control。守るが、支配しない。言い換えれば、場の機嫌を守るための最低限の“圧”は必要だが、同一化の“締め付け”に変えてはいけない。湯気という曖昧さが視線を拡散し、湯船という圧が身体を支え、そこに人と人の“間”が立ち上がるなら、規範は機能する。反対に、曖昧さを嫌って透明化を進め、圧を強制力に高めた瞬間、場は窒息する。

 気候が極端に振れるのは自然の理(ことわり)だ。
けれど社会の気候が極端に振れるのは、集団の嗜好そのものが仕組みを焚き付けるからだ。効率、即時、最大化、スイッチング。オイラたちは“早い・強い・はっきり”が好きで、その好みはタイムラインのアルゴリズムだけでなく、スーパー銭湯のタイムテーブルにも滲む。ロウリュの掛け声、TVの音量、回転率の良い導線。スーパー銭湯が“極端の遊園地”になってしまう危険は、常にある。その一方で、あの場所には別の可能性も宿っている。極端からの帰還を“共に練習する”ための公共装置である可能性だ。熱→冷→外気──その小さな往復を、他者と同時に、しかし同一ではなく通過する。そのとき、オイラたちは“間”に戻る術を、身体で学ぶ。

だからオイラは、個人の快楽を手放すわけじゃないけれど、共に感じ合うことを前提に温度を選び直したいと思う。かけ湯ひとつ、座る場所ひとつ、タオルを置く角度ひとつ。小さな所作が場の温度を上下させ、見知らぬ誰かの一日を少しだけ救うかもしれない。スーパー銭湯は“大衆生”の学校であり、ぬるさの共同体の実験場だ。Watch, but do not govern──監視せよ、しかし統治するな。互いの体温を気にかけるが、他人の温度を支配しない。オイラが守りたいのは、そのゆるい共感だ。

サウナの“バグ”も、ここでは共有地になる。高温で意識が白くなり、水で世界が割れ、外気で音が戻る。その再起動のタイミングを、十数人が同じ椅子列で過ごすとき、オイラは自分の“設定”だけでなく、場の“初期設定”を少しだけ変えられる気がする。怒りのしきい値を、場として上げる。断定の速度を、場として下げる。たとえば、早口の正義に飛びつく反射を、ひと呼吸ぶんだけ遅らせる。錯覚であってもいい。錯覚を共に反復することが、作法を共に変えるからだ。

 ここまで見てきたのは、ただの入浴記ではない。
温度はいつだって複数形で、スーパー銭湯の中ではその事実が可視化される。サウナの高温と水風呂の冷たさ、湯船の水圧と他者がつくる周圧、そして外気のぬるさがつくる余白──それらを共にたどることで、オイラたちは「場の機嫌」を学び、同時に「同じであれ」という見えない号令の気配も嗅ぎ取る。だからこそ合言葉はやっぱり、protect, but do not control(保護せよ、しかし管理するな)。必要な圧は引き受けるが、締め付けにはしない。曖昧さは排除せず、ぬるさをブレーキ液として残す。

わかりやすく言えば、こういうことだ。

  • サウナの三段跳び(熱→冷→外気)は、極端から帰還する練習であって、極端に滞在する競争じゃない。
  • 湯船の「押し返す感覚」は、他者と触れないまま触れ合うための最低限の抱擁で、同一化の号令ではない。
  • ぬる湯や外気浴の数分は、判断を過熱させないための保温で、怠惰の証明ではない。

この三つを胸に入れておけば、張り紙のマナーも注意の言葉も、命令ではなく機嫌の調律として響く。かけ湯一杯、座る位置ひとつ、タオル一枚の角度で場の温度は変わるし、その小さな所作の総和が、今日の共同浴場の初期設定を少しだけ良い方へずらす。オイラは、その程度の“政治”なら喜んでやりたいと思う。

だからオイラは、スーパー銭湯で学んだ作法をSNSにも持ち込みたいと思う。サウナの三段跳び(熱→冷→外気)は、極端に滞在する競争ではなく、極端から帰還する練習だった。湯気の曖昧さは監視を拡散し、ぬる湯の数分は怒りを遅延させ、周圧は匿名のフェアな抱擁として作用する。これらはすべて、タイムラインに必要な「ぬるさの自由」だ。

 そして最後に、こう言っておく。
極端は、場をひとつに束ねる強い糊になる。共温性は連帯のリズムを与えると同時に、均一の足並みを欲しがる。だからこそ、オイラは“間”を守るために、誘いと距離を同時に置いておきたい。

共に同じ極端を体験すること、それは社会性に必要なものだし、全体主義の第一歩だ。
共に地獄を、そして天国を味わおう!
オイラは行かない。

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