「文学を信じること」とは何だろう? それは普遍的な価値を確信することなのか、それとも人間の内面の深さを信じることなのか。『文学への希望』を読んで、文学が失われつつあるのではなく、書く人間の「個」が希薄になりつつあるのではないかと考えた。小松左京と伊藤計劃の話を思い出しながら、文学と信念について考えた感想文。
この記事は、noteの『灯台』文藝同人誌で投稿された「文学への希望」の応答記事です。まずは、下記のnoteをお読みください。
「文学への希望」を読んで
この文章を読んで、文学に対する信念の喪失を嘆く著者の思いには大いに共感した。文学が単なる娯楽や気休め、現実逃避の手段に成り下がり、文筆家たち自身も「文学を信じていない」ことに対する絶望は、決して的外れではない。しかし、その絶望を嘆くだけで終わるのではなく、「それでも文学を好きであること、愛することを信じる」ことが大切なのではないかとオイラは思う。
文学が信じられなくなっているという現状は確かに寂しい。しかし、そもそも「文学を信じる」とは何を意味するのか? それは、文学が何らかの普遍的な価値を持つと確信することなのか、それとも、文学が単なる言葉の遊びではなく、人間の生にとって不可欠なものであると信じることなのか。もし後者であるならば、文学を信じるとは、結局のところ、人間の心の動きや、個人の内面の深さを信じることと同義なのではないか。
そう考えたとき、オイラが気になったのは、「文筆家の心の中身がなくなっているのではないか?」ということだった。文学の価値が軽視されることよりも、そもそも書き手自身が、自分の内面を掘り下げなくなっているのではないかという懸念がある。今の時代、SNSを通じて誰もが気軽に感情を吐露できるようになった。それは便利な一方で、「個人そのものの平均化」を促しているようにもオイラは思う。個人が日々の小さな感情を即座に外へ発信することで、内面が育つ前に消費されてしまうのではないか。そうなると、文筆家が本来持っているはずの「内なる声」や「心の澱」のようなものが、蓄積されることなく流されてしまう。
このことを考えると、オイラは「小松左京が伊藤計劃を評価せず、さらにSF界に対して伊藤計劃を評価しないように要請したせいで、彼は生前SF界から正当な評価を受けなかった」という珍説を思い出す。真偽のほどは定かではないが、仮にこの話が事実だったとすれば、文学の世界はかつてから「信念」によって動かされていたわけではなく、むしろ個々の作家の思惑や権威の力学によって評価が決められることが多かったのではないかと思えてくる。つまり、文学が「何を描くか」ではなく、「誰が描いたか」で判断されてきた歴史があるのではないか。そして、それは今も変わらないのではないか。
文学が何かを伝える力を失っているのではなく、そもそも書く人間の「個」が希薄になりつつあるのではないか——そう思うと、文学の問題は単に「文学を信じるかどうか」という問いを超えて、人間そのものの在り方に関わる問題のようにオイラは思えてくる。
だからこそ、「文学の希望」は、単に文学の形式や評価の問題ではなく、「人間の内面がどこへ向かうのか?」という問いに結びつくのではないか。もし、文学が信じられなくなっているなら、それは単に文学の価値の問題ではなく、オイラたちが「言葉を通じて何かを伝えようとする意志」そのものを失いかけているからではないか。
文学を信じるとは、結局、人間の「個」を信じることに繋がる。そう考えたとき、この文章の著者が抱いた絶望は、同時に希望の裏返しなのかもしれない。なぜなら、「文学を信じるべきだ」という強い思いがあるからこそ、それが失われることに絶望しているのだから。希望は、最初からないものには抱かれない。 この文章が語る絶望の奥底には、まだ希望があるようにオイラは思う。