「わかりあえるはず」という信念は、いつから「わかりあえないなら沈黙せよ」という圧力に変わったのだろう?SNSでの応酬、引用RTの連打、通知欄を埋め尽くすラッシュ──それは暴力にも見えるけれど、ひょっとすると“届かなかった善意”のかたちだったのかもしれない。ありがた迷惑、誤配、過剰な親切。うまく言えないまま、誰かにぶつかってしまった言葉には、思想の原風景が眠っている。
本記事では、電子文芸誌『ハツデン...!』6月号「思想」特集への寄稿をもとに、TarCoon☆CarToonとして「未完成な思想」「ズレと共鳴」「ラブラッシュと呼ばれる通知攻撃」などを手がかりに、現代における“思想の手触り”を問い直す。思想とは、正しさや整合性ではなく、“うまく伝わらないけれど、それでも関わりたい”という衝動にこそ宿るのではないか?
「思想とは、ありがた迷惑の別名である」──この仮説のもとに、わかりあえなさを生きる技術について、オイラなりに考えてみた。
本記事は、『ハツデン...!』への寄稿文「わかりあえなさの中で灯す──思想とは、ありがた迷惑の別名である。」を加筆・再構成したものです。ズレたまま語る勇気について、TarCoon☆CarToonとして綴りました。
*本記事は、初田塾出版による雑誌『ハツデン...!』への寄稿した文章の加筆修正版となります。本文は2025年6月の出版後に公開予定です。お楽しみに!
*本記事は、雑誌『ハツデン...!: 思想』内で、「わかりあえなさの中で灯す──思想とは、ありがた迷惑の別名である。」というタイトルで寄稿しています。こちらの本もお読みください。