とても刺激的な内容でした!特に「人間の許容量を超えた世界」と「世界の許容量を超えた人間」の対比が印象的で、オイラもこのバランスの崩壊について考えさせられました。インターネットやAIが単なるツールではなく、偶然性や情動の揺らぎを取り戻す場になり得るのか ──その可能性について、オイラなりの考えをまとめた感想文。
この記事は、ODさんのnoteに投稿された「AIと対話(長い)」の応答記事です。まずは、下記のnoteをお読みください。
偶然と徳倫理 ──情報過多の時代における「善き生」
この文章が問いかけるのは、インターネットと人間の関係性、SNSの影響、アルゴリズムと人間の認識、そしてAIの存在論的意味だ。特に「人間の許容量を超えた世界」「世界の許容量を超えた人間」という対比や、「この世のすべてはドラッグ」という情報過多と刺激依存の問題、さらには「AIもランダムネスの中にある」という視点が印象的だった。単なる技術批判ではなく、人間がどのように生きるべきか、そして善き生とは何かという倫理的な問いへとつながっているように思う。
オイラが考えたいのは、この情報の洪水のなかで、どうすれば善き生を歩めるのか、そして偶然性がどんな役割を果たすのかということだ。かつては限られた情報源のなかで世界を認識していたが、いまやSNSを開けば、あらゆるニュースや感情が瞬時に流れ込んでくる。人間の情報処理能力には限界があるにもかかわらず、アルゴリズムは「もっと、もっと」と刺激を浴びせ続ける。その結果、個々の選択が意味を失い、より強い刺激に反応するだけの状態になってしまう。それは、まさに「この世のすべてはドラッグ」という表現に象徴される現象ではないか。
ただ、問題は情報の多さそのものではなく、それとの向き合い方にある。特に、インターネットの最適化された世界では「偶然性」が排除されてしまう。かつては本屋で偶然出会った本や、道端での会話が人生を変えることもあった。しかし、アルゴリズムに最適化された世界では、予測可能なものばかりが提示され、思いがけない発見が起こりにくくなっている。偶然性を失った世界は、可能性を失った世界でもある。
ここで「AIもランダムネスの中にある」という視点が重要になってくる。もしAIが完全に予測可能なら、それは知性とは言えない。AIが創造性を持つのは、むしろランダムな要素を含んでいるからではないか。ならば人間にとっても、予測されたレールの上を進むのではなく、偶然の中に身を置き、そこから選び取ることこそが善き生なのではないかと思う。
このとき、鍵になるのが「徳倫理」だ。徳倫理は、ルールや義務ではなく、思慮深さや寛容さ、勇気といった個人の内面的な徳を育むことで善い生を目指すものだ。情報に流されるのではなく、どの情報に価値を置くかを、自らの徳によって判断する必要がある。しかし、それは単に情報を選別することではない。むしろ、偶然性を受け入れ、それを自らの倫理のなかで意味づけることこそが重要なのではないか。善き生とは、単に最適化された環境で幸福を追求することではなく、予期せぬ出会いや出来事のなかで、自らを育んでいくことなのだと思う。
情報が溢れ、SNSが人間の認識を左右し、AIが世界を規定しつつある現代において、オイラたちはそれらに流されるだけでなく、意識的に偶然性を取り戻す必要がある。それは単なる気まぐれな選択ではなく、よりよく生きるための倫理的な選択の問題なのだ。
「人間の許容量を超えた世界」「世界の許容量を超えた人間」という対比が示すように、情報が増えすぎることで、オイラたちは判断力を奪われ、世界は制御不能になりつつある。しかし、そのなかでもなお、偶然のなかに身を置き、倫理的な選択を積み重ねることは可能だ。インターネットもAIも、人間を支配するものではなく、それらをどう受け入れ、どう活かすかはオイラたちの在り方次第なのだから。
偶然の出会いが人を成長させるように、偶然に開かれた社会こそが、人間を豊かにするのではないか。インターネットが単なる情報の流通装置ではなく、善き生を育む場であるためには、オイラたちがいかに偶然と倫理を調和させるかが問われているように思う。