「日本を伝承し、創造していくために」を拝読し、日本文化の変化や継承について深く考えさせられました。筆者が語る、日本の歴史や伝統が失われつつあることへの憂いには強く共感します。文化は、長い時間をかけて培われたものであり、それを次の世代へと受け継いでいくことの重要性を改めて感じました。今を生きる人々の思い出や営みを次の世代へつなぐこともまた、文化の継承ではないかと考えた感想文。
この記事は、今西宏之さんのレポートへの応答記事です。まずは、下記のレポートをお読みください。
今西宏之
日本を伝承し、創造していくために
「世界のための日本のこころセンター」が主催されている「自啓共創塾」の講義に参加された方々は、立場や信条に差異はあるにせよ、日本の歴史・思想・文化・風土を重んじ、それらを学んだ上でこれからの日本と日本人の発展と隆盛に寄与したいと考えておられると私は解釈している。かくいう私自身もそうである。本稿では、「自啓共創塾」の授業のレポートという形を通じて、いかにしてこれからの時代に日本人が日本を伝承し、そして創造していくべきかを私なりの思想と方法論を持って叙述していきたい。
現在、いわゆる「伝統工芸」を生業としている職人が自らの工房や屋号、あるいは商品の名称に平然とアルファベットを用いている場合が少なくない。また、非常に長い歴史と格式を持つ大寺院が施設の名称をアルファベットで表記する、あるいは催しの名称に英文を用いるなどの事例も昨今非常に多くなっている。
これらのような事例が頻発しているのは、「観光」による文化破壊ももちろんあろうが、根底にあるのは、日本人自身が日本を見失いつつある、という事実であろう。和食を日本人自身が作らず、または食べなくなり、着物も日常生活では着ず、歴史ある景観や建物が次々と破壊されている。いわばフラットな「ニッポンジン」が生み出されつつある。
その意味で今年の元旦に発生した輪島の地震は象徴的な出来事であった。日本の歴史的産業とその担い手である人々が多数居住する輪島は日本人にとってかけがえのない土地である。しかし、その輪島の復興を「無駄」であるとして切り捨てを是とするような言説が流布した。これは前述した「フラットな」「ニッポンジン」が生み出されつつあることと無関係ではないであろう。
人間はどこまで行っても歴史的な存在である。集団であれ個人であれ、歴史が無ければ存在していく事は不可能である。私たちは今こそ、日本の歴史性に依拠し「日本人」として意志を持って生きていかねばならない。
かつて、戦後日本を代表する批評家・劇作家・翻訳家として活躍した福田恆存は「保守とは横町の蕎麦屋を守ることである」という言葉を残したとされている。私たちは現代におけるかけがえのない「横町の蕎麦屋」を発見し、それらを守る営為を行わねばならない。そしてその営為は日本だけでなく、世界の発展にも大いに寄与するはずである。
その営為とは具体的には何であろうか。例を挙げるならば地元の神社仏閣に参拝することであり、長い歴史的由緒を持つ種々の工芸品を購入して使うことであり、身近な祭礼や年中行事に参加することであり、武道や芸道と言った「道」を学ぶことであり、おにぎりを握ることである。
普段どのようにして生活するか、この中にこそ本当の意味での思想や哲学の本質がある。この「自啓共創塾」で出会った方々、運営をして下さった「世界のための日本のこころセンター」の方々と連帯をし、本稿で記した営為を強く行っていくことを私は心から希望する。
文化を守るとは、今を生きる人の幸せを守ること
今西宏之氏の「日本を伝承し、創造していくために」を読んで、オイラは筆者の日本文化に対する強い愛情と危機感に深く共感した。筆者が訴えるように、日本文化は今まさに大きな変化の渦中にあり、伝統工芸や寺院の名称にアルファベットが用いられること、和食や着物が日常のものではなくなっていくこと、歴史ある景観や建物が次々と姿を消していくことは、確かに寂しく、また憂うべきことかもしれない。
オイラも日本が好きだからこそ、こうした変化に対して筆者と同じように寂しさを感じるし、何かできることはないかと考える。しかし一方で、日本文化は単なる「形」ではなく、それを生きる人々の営みそのものではないかと思う。筆者が「フラットなニッポンジンが生み出されつつある」と表現することへの危機感も理解できるが、同時にオイラは、日本文化が時代の流れの中で育まれ、受け継がれていくものだと信じている。
文化を守るというのは、決して締め付けることではない。むしろ、寛容であることだと思う。かつての日本も、時代の変化とともに人々が生きやすいように文化を形作ってきた。その積み重ねが、今の日本の豊かさにつながっているはずだ。もし文化を守ることが「こうあるべき」と人々を縛るものになってしまったら、それは文化の継承ではなく、文化の停滞になってしまうのではないだろうか。
筆者は福田恆存の「保守とは横町の蕎麦屋を守ることである」という言葉を引用している。オイラもこの言葉には共感する。しかし、今の時代に置き換えるならば、「保守とはイオンのフードコートで食事をする家族や若者を守ること」なのではないかと思う。
オイラが子供の頃、母親に自転車の後ろに乗せてもらってジャスコやダイエー、イズミヤに買い物へ行くことが当たり前だった。中学生になれば、フードコートで友達とフライドポテトをつまんだり、夏にはかき氷を買い食いしたりした。高校生の頃はラウンドワンでボウリングをしたり、カラオケで盛り上がったりした。そんな思い出の場所が、オイラたちにとっての「横町の蕎麦屋」だった。
現在、ラウンドワンは「ヤンキー文化の逆輸入」としてアメリカの若者の居場所になっているという。だが、それは日本で生まれた文化が、海を越えて新たな形で受け入れられたということでもある。今の日本の中高生は、イオンモールで映画を見て、カップルはフードコートでバスキンロビンスの31アイスクリームを食べる。友達同士で買い物をし、駐車場横の植え込みでTikTokを撮る。肌や目の色が違う子供たちが日本語を話し、アニメや漫画、YouTubeの話で盛り上がる。こうした光景もまた、日本的なものとして醸成されていった結果なのかもしれない。
そう考えたとき、「保守とは横町の蕎麦屋を守ることである」という言葉を、オイラは「今を生きる人々の思い出を大切にすること」と捉えた。過去の文化を尊重することはもちろん大切だが、それと同じくらい、今の人々が育む文化を守り、次の世代へ繋いでいくこともまた「保守」なのではないだろうか。
日本文化を愛することは、単に過去を懐かしみ変化を嘆くことではない。むしろ、今の営みの中に連続する日本らしさを見出し、それを自然と受け継いでいくことこそが文化の継承だと思う。日本文化は形を変えながらも、確かに次の世代へと受け継がれていく。それを信じて、オイラもまた、今の時代の「横町の蕎麦屋」を守っていきたい。
オイラが思う「文化を守る」とは、昔の形をそのまま残すことではなく、「今を生きる人々の幸せを守り、それを次の世代へ繋げていくこと」だ。時代が変われば文化の形も変わる。しかし、「人の営み」と「思い出」が大切にされる限り、日本文化は決して失われることはない。
筆者の危機感には共感しつつも、オイラは「文化を守る」ということを、もっと寛容で、もっと楽しいものとして捉えたい。押し付けるのではなく、自然と根付くことが大切であり、文化とは時代と共に息づくものだ。今を生きる人々の幸せを大切にすることが、次の世代へと日本文化を繋いでいく鍵になると、オイラは信じている。
(追記)文化は生まれ変わりながら生き続ける
筆者の危機感には深く共感する。伝統や歴史が失われつつある現状に、強い憂いを抱くのは当然のことだ。文化とは、時間をかけて人々が築き上げ、受け継いできたものだからこそ、その継承の在り方を真剣に考える必要がある。
しかし、文化は「過去のものをそのまま保存すること」だけが目的ではない。それは、生まれ変わりながら受け継がれるものでもある。例えば「身近な祭礼や年中行事」にも、「世界と出会い直すもの」としての祭礼と、「気晴らしとしての祭礼」があるように、文化の継承には「変わらないこと」と「変わっていくこと」の両方が含まれるべきなのかもしれない。
「横町の蕎麦屋」と「イオンのフードコート」の違いについても、単純に対比するのではなく、それぞれが文化としてどのように機能しているのかを考えるべきだろう。横町の蕎麦屋は、地域の人々の営みの中で築かれた歴史と関係性を持つ。一方で、イオンのフードコートは、より開かれた空間であり、異なる背景を持つ人々が集い、思い出を紡ぐ場でもある。どちらも「人々の記憶の中に生きる場所」であることは共通しているが、その継承のされ方や文化的な意味合いは異なる。
「文化を守る」とは、過去をただ懐かしみ、固定化することではない。むしろ、今を生きる人々の営みの中で、新たに意味を持たせながら受け継いでいくことが、本質的な継承なのではないだろうか。
文化は、人々の営みの中で自然と形を変えながら続いていく。それを「変わってしまった」と嘆くのではなく、「どう受け継いでいくか」を考えることが、これからの時代の文化の守り方なのかもしれない。筆者の問いかけを胸に、オイラも引き続き、このテーマを考えていきたい。