本稿は、コントルアタック設立文が告発する「安全・安心・快適さ」を媒介に中道へ沈殿する全体主義と、自己検閲による均質化に応答するために書く。問題意識には賛同しつつ、同時に「敵は思想ではなく運用に宿る」という一点を確認し、運動が忠誠要求・同調圧力・排除へ傾く条件を整理する。攻撃手段の拒否と安全の確保を優先し、署名は白紙委任ではなく、注釈付きで撤回可能性を含む限定賛同として差し出す。
この記事は、吉野うごく君から、DMで送られてきた「コントルアタックの設立にあたって」の応答記事です。
運動は理念を裏切りうる
DMで「賛同頂けるなら署名を」と届き、設立文を読んだ。冒頭に置かれたバタイユの言葉、そしてブルトン/トロツキーの呼びかけは、単なる権威付けというより、思想が「利用=有用化」の原理へ回収されていく歴史そのものへの警戒として機能しているように見えた。狼を犬にするような裏切り。羽根をもぎとられる可能性。そういう比喩が、いま再び現実味を帯びているという感覚──その点で、オイラも同じ風景を見ている。
設立文が告発する全体主義の像は、極端な暴力の顔をしていない。「安全」「安心」「快適さ」という否定しがたい価値を媒介として、中道へ沈殿し、欲望と言語と表現を整流し、異論を「危険」「不適切」「空気を乱すもの」として周縁化していく。ここで働くのは狂信ではなく、「みんながそう思っている」「それが無難だから」という欲望である──この指摘は鋭い。法律や暴力よりも先に、沈黙が生まれ、自己検閲が先回りする。社会が滑らかな表面を獲得する代わりに、思考と創造の深度を失っていく。そういう“静かな管理”への危惧は、オイラの側の問題意識とも一致している。
しかし同時に、オイラは「運動」という形式それ自体の危うさも、同じ強度で考えざるを得ない。運動は、理念に反して純化しうる。忠誠、同調、動員、排除。異論が「敵」へ変換され、沈黙が「加担」へ読み替えられる瞬間が生まれる。その瞬間、設立文が守ろうとする「不安定である権利/不快である自由/誤りうる思考」は、理念に反して削られてしまう。つまり、敵は外部にだけいるのではなく、運用の内部にも生まれうる。ここを見落とすと、反撃は反転し、反撃の名で“別の管理”が成立する。
だからオイラは、賛同しても「兵士」にはならない。署名は賛意の表明であると同時に、立場の固定であり、切り抜き耐性の低下であり、将来の動員回路の開通である。白紙委任はしない。するなら、限定賛同/注釈付き/撤回可能という形式でしか関われない。これは不信ではなく、理念を理念のまま運用へ降ろすための安全装置である。
TarCoon☆NetWorkの立場も明確にしておく。NetWorkは常に上位構造であり、内部に「TarCoon☆CarToonに対等な関係」はない。これは序列というより、距離と責任の配置である。NetWork内で対立が起きても、オイラは誰かの「思想の味方」には立たない。だが「人間の味方」ではあり続ける。晒し、脅迫、嫌がらせ、集団リンチ──人を黙らせるための攻撃手段には、立場の違いとは別問題として介入して止める。外部から攻撃されている人がいるなら、思想に肩入れせずとも「攻撃手段の否定」「安全の確保」「人が壊れないこと」を優先して支える。
Watch, but do not govern
stop war, but do not wage it
protect, but do not control
and first, survive!監視せよ、しかし統治するな。
戦争を止めよ、しかし戦争をするな。
保護せよ、しかし管理するな。
そしてなによりも、 生き残れ!(TarCoon☆CarToonのスローガンより)
では、コントルアタックはTarCoon☆CarToonの敵になりうるのか。思想の近さ/遠さでは決まらない。運用が、忠誠要求と異論排除へ傾き、攻撃が正当化され、署名が所属証明へ変質し、NetWorkの上位性が侵食されるなら、そのとき敵になりうる。逆に、設立文の言う通り、目的固定を拒み、内部の分裂を排除せず、同意よりも不一致を耐え抜く場を本当に維持し、攻撃手段を拒否し続けるなら、敵ではない。オイラはその条件つきで、注釈を添えて名前を置ける。
最後に吉野うごく君へ。設立文の中で、とりわけ「この運動は、完成された正しさを持たない。目的を固定せず、内部の異論や分裂を排除しない」と書いた部分に、オイラは今回の企ての核を見た。ここで宣言されているのは、理念の提示というより、理念が理念のまま壊れていかないための“運用の態度”だと思う。
「安心」を保証しないこと、「不一致を耐え抜く場」を最低限の原則として立てること、「常識」という語を思考停止の道具にしないこと。これらは、美しい未来の設計図ではなく、醜い現在に対する暫定的で不完全な反撃だ。その反撃は、旗を掲げるだけでは成立しない。旗が人を殴らないようにする手続き、異論が消されないための仕組み、自己検閲が“礼儀”として定着しないための回路──そういうものが、最初から組み込まれていなければ、理念は運動の慣性に負ける。
だから、今回の企ては吉野くんに向いている、とオイラは思う。ここで求められているのは、正しさの完成ではなく、正しさが暴走しないための更新可能な枠組みだからだ。設立文が宣言している「危険にさらすものとして思想を引き受ける」という姿勢は、運動を“純化”ではなく“検証”へ向ける。その方向が維持される限り、コントルアタックは敵ではない。むしろ、同意よりも不一致を耐え抜く場として、こちらからも見守り、必要なら支えられる。
署名についても同じだ。白紙委任ではなく、注釈と撤回可能性を含む形で、対話の窓として差し出したい。ここから先は、理念の強さではなく、運用の倫理の強さが問われる。その問いを、設立文が掲げた原則のまま継続してほしい。
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