認知戦は誰に向けたマーケティングか? ──3.15情況出版のイベントに参加して

先日、情況出版編集長の塩野谷恭輔さんにお誘いいただき、情況出版のイベント『The Situation Vol.1』に参加してきました。
そこで語られていたのは、「認知戦」や「自由創生」という言葉を入口にしながらも、実際には出版、インフラ、文化、承認、言論空間、共同体のあり方までつながっていく、かなり大きな話だったように思います。

オイラにとって大きかったのは、イベントの内容そのものももちろんですが、その体験を通して、TarCoon☆CarToonの立ち位置が少しはっきりしたことでした。
認知戦が激しくなっていく時代に、TarCoon☆CarToonはどこに立つのか。外側なのか、内側なのか、それとも境界なのか。今回のイベントは、その問いにひとつの輪郭を与えてくれた気がしています。

この記事では、情況出版のイベントの感想を起点にしながら、そこで交わされていた議論と、そこから見えてきたTarCoon☆CarToonの役割について書いていきます。

The Situation Vol.1とは何だったのか

今回の「The Situation Vol.1」は、情況出版が主催したカンファレンスイベントであり、掲げられていた主題は「失われる『想像の自由』を取り戻せ」でした。イベント全体は、単なる思想イベントでも、単なる時事解説でもなく、社会・政治・デジタル・オカルトといった一見ばらばらに見える領域を横断しながら、いま私たちの認識や判断、そして自由そのものがどのような環境に置かれているのかを考え直す場として設計されていました。サイトでは「認知戦の罠を抜け、2026年を思考するための新・羅針盤」という言葉が置かれ、さらに「社会の裏側」と「自由の守り方」を公開するとうたわれており、このイベントが単なる知識の提供ではなく、時代の見え方そのものを問い直すための試みであったことがうかがえます。実際、当日のプログラムも、「イスラーム・金融・テック」、「現代日本のポップカルチャー」、「オカルト」、「現代文化と自由のゆくえ」、「認知戦とインテリジェンス」といった具合に、分野を固定せずに組まれており、個別のテーマを論じながらも、その背後にある認知・権力・文化・情報環境の結びつきを浮かび上がらせる構成になっていました。2026年3月15日に新宿・歌舞伎町のCrypto Lounge GOXで開催されたこのイベントは、まさに「何が起きているのか」を知るだけでなく、「その中でどう自由を守るのか」を考えるための現場だったのだと思います。

内容・登壇者一覧

  • イスラーム・金融・テック中田考(イスラーム法学者 / 実業家 / 作家)Oracle(Nostr開発者)井上智洋(経済学者 / 駒澤大学経済学部准教授)  
  • 現代日本のポップカルチャーありあ(ARIA)(コスプレイヤー / プロデューサー)加賀秀祐(株式会社AKIBA観光協議会 代表取締役社長)  
  • オカルト栗田英彦(宗教学者 / 名古屋弁証法研究会 主宰)比嘉光太郎(UFO研究家 / 全日本UFO研究機構 代表)  
  • 現代文化と自由のゆくえ黒瀬陽平(美術批評家 / キュレーター)小山晃弘(社会評論家)  
  • 認知戦とインテリジェンス澤繁実(映画プロデューサー / 元陸上自衛隊幹部)昼間たかし(ルポライター)元木大介(株式会社KandaQuantum CEO)  
  • 地方創生・復興・食
イベント会場

Crypto Lounge GOX

新宿・歌舞伎町

Crypto Lounge GOXについて
クリプトに関する情報交換やコミュニケーションを目的としたラウンジスペース
住所〒160-0021 東京都新宿区歌舞伎町2丁目19−15 6階
交通手段東京メトロ副都心線「東新宿駅」より西へ190m A1番出口から 徒歩3分
都営大江戸線「東新宿駅」より西へ190m A1番出口から 徒歩3分

感想 言葉に引っかかった日

2026年3月15日の情況出版のイベントに参加して、オイラの中でいちばん大きかったのは、「認知戦」という言葉そのものに、どうしても引っかかってしまったことだった。正確に言えば、その言葉が指している現実よりも先に、その言葉の立ち上がり方そのものに違和感があった。そんなものは今さら名前がついただけで、所詮マーケティングの言い換えでしかないのではないか。もっと言えば、悪意的に害があるように言い換えることで、こちらの認知をわざと歪ませ、自分たちのマーケットへ誘い込んでいるようにすら見えた。

けれど、それでもなお、オイラはこの言葉を無視しきれなかった。なぜなら、名前の付け方には違和感があっても、その言葉でしかうまく捉えきれない情勢が、いま目の前に広がっているようにも思えたからだ。言葉、物語、制度、広告、教育、文化、アルゴリズム、承認、インフラ。そういうものが全部つながりながら、人間の見え方そのものを取り合っている。もしそうなら、これは単なる情報戦でもなければ、ただのマーケティングでもない。もっと広く、もっと深く、もっと生活の内側にまで入り込んだ出来事として考えなければならない。

今回のイベントに誘ってくださったのは、友人であり情況出版編集長でもある塩野谷恭輔さんだった。塩野谷さんをはじめ、あの界隈に集う人たちとの時間には、いつも単なる交流以上のものがある。雑談のように始まった会話が、いつの間にか社会の構造や世界の見え方そのものに触れていく。別々に存在していた問題群が、ある瞬間に突然つながってしまう。今回のイベントも、まさにそういう時間だった。

しかも今回は、オイラがこれまでずっと気にかけてきた「自由」「認知」「文化」「言葉」「支配」といった問題に深く関わるテーマが扱われると聞いていたので、かなり楽しみにしていた。参加してみて思ったのは、これは単なる時事トピックの消費でも、流行語を並べて危機感を売るだけの場でもなかったということだ。むしろ、いまこの時代に何が起きているのか、そして何が起きつつあるのかを、それぞれ別の場所から、それぞれ別の言葉で、なんとか輪郭づけようとしている場だった。

イベントでは、塩野谷さんから、雑誌『情況』の休刊と、その先にある新しい展開についての話があり、そこから「自由創生」と「認知戦」という二つの軸が提示された。自由は単に上から保障される権利ではなく、自分たちで世界に干渉し、自分たちで環境を作っていくことでもある。そしてその手前で、人間の認知そのものがすでに争奪の対象になっているのではないか、という問題提起がなされていた。そのあとには、分散型インフラやNostr、検閲や決済停止の問題、デジタル主権の話が続き、さらに後半では、炎上文化、キャンセルカルチャー、推し活、承認をめぐる闘争、ナラティブ、信仰、脳科学にまで話が広がっていった。かなり広い内容だったのに、オイラには、それらが全部「認知」と「自由」の問題としてつながって見えた。

認知戦は本当に「新しい」のか

そのなかで、何度も立ち上がってきた言葉がある。

それが「認知戦」だった。

けれど、オイラにとって印象的だったのは、「認知戦」という言葉そのものの新しさではなかった。むしろ逆だった。そんなものは今さら名前がついただけで、所詮はマーケティングの言い換えでしかないのではないか。もっと言えば、悪意的に害があるように言い換えることで、こちらの認知をわざと歪ませ、自分たちのマーケットへ誘い込んでいるようにすら見えた。「認知戦が始まっている」と言いながら、その言葉自体で新しい危機を作り、新しい市場を作り、新しいプレイヤーを募っているだけなのではないか。そう思うところもあった。

それでもなお、オイラはこの日、その言葉を無視しきれなかった。いや、むしろ逆に、あえて言いたくなってしまった。認知戦。いや、認知戦国時代だ、と。

なぜか。

それは、この言葉が正しいからではない。

この言葉に違和感が残っていることは、今も変わらない。

それでもなお、この言葉でしか捉えにくい情勢が、たしかに目の前に広がっていると感じたからだ。

考えてみれば、人間は昔からずっと認知をめぐって争ってきた。言葉によって。物語によって。神話によって。宗教によって。教育によって。法律によって。伝統によって。広告によって。文化によって。空気によって。何を尊いと感じ、何を恥と感じ、何を正義と呼び、誰を味方だと思い、誰を敵だと見なすのか。そういったものは、最初から人間の「純粋な内面」から自然発生していたわけではない。人はつねに、何かしら与えられた意味の体系の中で世界を理解し、その理解の中で欲望し、恐れ、行動してきた。

そういう意味で言えば、認知戦なんてものは大昔からあった。むしろ、人間社会そのものが認知の争奪の上に成り立ってきたと言ってもいいくらいだ。だから、これをあたかも「いま新しく始まった脅威」として語られると、やはり少し白けるところがある。いまさら何を言っているんだ、という気持ちも消えない。

けれど、今回のイベントで塩野谷さんが語っていたことには、そう簡単には片づけられない部分もあった。塩野谷さんは、自由というものを、国家や法によって保障されるものとしてだけ捉えるのではなく、自分たちが環境を作り、自分たちが世界に干渉していく営みとして考え直したい、という話をしていた。そしてその手前に、認知そのものがすでに先回りされている問題がある、と。つまり、自由を行使する以前に、何を見て、何を考え、何を選ぶのかという認識の部分が、もう戦場になっているというわけだ。

そこに、オイラは確かに引っかかった。昔からあった。だが、昔とは違う。何が違うのか。それは、認知の回路そのものが、技術とインフラによって超高速・超大量・超恒常的に設計される時代に入ったということだ。

SNSのタイムライン。レコメンド。検索順位。ニュースアプリ。通知。広告。動画の自動再生。炎上のアルゴリズム。拡散の速度。決済インフラ。プラットフォーム規約。信用スコア。可視化された承認。数値化された人気。そういったものが全部つながって、人間の認知の入口に常時張り付いている。

昔からあった認知の誘導が、いまや単なる思想や宣伝のレベルではなく、インフラそのものに埋め込まれている。しかも、その多くは「操作されている」と感じさせない形で働く。ここが、やはり今の時代の決定的な異様さなのだと思う。

自由の話は、インフラの話でもある

今回のイベントでは、分散型インフラやNostr、検閲耐性のある言論空間、デジタル主権の話も出ていた。そこは非常に重要だと思う。言論の自由や表現の自由というものは、法文の上にだけあるのではなく、サーバーがどこにあるのか、決済を誰が握っているのか、検索順位を誰が決めているのか、どのアルゴリズムが何を上位表示するのか、そういう地味で即物的な条件の上に成り立っている。つまり自由は理念だけでは守れない。インフラが要る。ここは本当にその通りだと思った。

けれど同時に、それだけでは足りないとも思った。なぜなら、インフラを持っただけでは、人間の認知そのものが自由になるわけではないからだ。検閲されないプラットフォームを手に入れても、その中で結局また別の承認戦争が起き、別の偶像が立ち上がり、別の「正しさ」によって人が縛られるなら、それは支配の形式が変わっただけかもしれない。だからTarCoon☆CarToonが見なければならないのは、技術基盤だけではなく、その技術の上で人間が何を信じ、何に酔い、何に従ってしまうのか、その欲望や恐怖や承認の回路のほうでもある。

オイラが以前から考えてきた、「世界に干渉し、環境を構築する自由があるはずだ」という感覚は、まさにここにつながっていた。自由とは、ただ与えられるものではない。使える回路を持っているかどうか、言葉が届く場所を確保できているかどうか、自分の観測と言葉を置いておける足場があるかどうか。認知戦の問題は、思想の問題であると同時に、かなり具体的な技術と設計の問題でもあるのだと思う。

苦を取り除いてきた社会が、ついに感覚を置き去りにしたのではないか

ここでオイラがどうしても考えてしまったのは、「苦」のことだった。

人間の社会は、もともと苦を取り除く方向へ進んできた。飢えや寒さや病や不便を減らし、できるだけ苦しまずに生きられるように、制度も技術も文化も積み重ねられてきた。その流れ自体は、ある意味で人類の歴史そのものだったと思う。だから、苦を取り除こうとしてきたことそれ自体を、単純に悪と見るつもりはない。むしろそれは、多くの人が善だと信じ、長い時間をかけて積み上げてきた営みだったはずだ。

けれど、その延長の果てに、いまはついに、人間が何を苦と感じるのかという感覚そのものを無視しても、社会の仕組みが回ってしまうところまで来てしまったのではないか、という感じがある。苦がなくなったというより、苦を感じる主体のほうが置き去りにされている。便利さ、効率、安全、快適さ、最適化、配慮――そうしたものがどこまでも積み重なった結果、「人間がどう感じているか」より、「システムがどう回るか」のほうが優先されているように見える。

ここに、今の時代の不気味さがあるように思える。

苦が減ったのではない。

苦の感じ方を測る主体のほうが、だんだん無視できるものにされている。

その意味で、今の支配は、単に苦しいから支配的なのではなく、苦しみが苦しみとして意識に上がってこないところまで滑らかになっている。だからこそ厄介なのだ。

文化はいつから「作品」ではなく「人」を消費するようになったのか

後半の「現代文化と自由の行方」の議論も非常に示唆的だった。カオス*ラウンジの炎上からキャンセルカルチャー、そして推し活や承認闘争へとつながる流れは、まさに「作品」よりも「人」が前に出すぎた時代の話だったように思う。かつては作品や表現や形式そのものをめぐって語られていたはずの文化が、いまや「誰が言ったか」「誰が傷ついたか」「誰を支持するか」「どちらの陣営につくか」という話にどんどん回収されている。これは文化の政治化というより、認知の戦争化と呼ぶべき事態なのだと思う。

推し活が、実は承認戦争の代理戦争になっている、という指摘も鋭かった。自分が戦うのではなく、推しに戦ってもらう。自分が承認を勝ち取るのではなく、推しの勝利を通じて間接的に満たされる。ここでは作品に没入するというより、人に没入し、人の勝敗に自分を重ねることが中心になる。オイラはこの状態に、かなり危機感がある。なぜなら、ここではもう文化が「見るもの」ではなく、「所属するもの」「加勢するもの」「代理で殴り合うもの」になってしまうからだ。

作品が先ではなく、人が先に来る。

形式より人格。

表現より所属。

読みより態度表明。

鑑賞より加勢。

そうなった時、文化は鑑賞の場ではなく、動員の場になっていく。オイラは、そこに文化の貧しさを見る。いや、もっと言えば、文化の戦時化を見る。

デジタル主権、ナラティブ、信仰、脳の配線

さらに別のパネルでは、デジタル主権、AI、ナラティブ、信仰、脳の配線の話まで広がっていった。射程はかなり広かったけれど、オイラにはそれもやはりひとつの問いに向かっているように聞こえた。つまり、人は何によって世界を見ているのか、そしてその見え方は誰の手に委ねられているのか、という問いだ。

そこでは、日本が決済もクラウドもOSもAI基盤も外部インフラに強く依存していること、つまりデジタル主権をほとんど持っていないという話があり、また、認知戦の戦場はもはやスマホの中にあり、アルゴリズムそのものが兵器になっている、という話もあった。さらに、人間の信念や価値観もまた、脳内の配線と経験の蓄積によって形作られているのだ、というラディカルな話も出ていた。

オイラはここで、「ナラティブ」が単なる物語の話ではなく、認知の配線の話として語られていたことが印象に残った。何を見て、どの順番でそれを受け取り、どのような経験の積み重ねの中で意味づけするか。それによって、同じ世界を見ても、まるで違う世界が立ち上がってしまう。そう考えると、認知戦とは単なる情報操作ではなく、人間の脳の中にどんな順番でどんな電気を流すかをめぐる争いなのだ、という見方も見えてくる。

その議論のすべてに同意するかどうかは別として、少なくともオイラはそこからひとつの大きな問いを受け取った。

つまり、人間は本当に「自分の考え」で生きているのか。

あるいは、その「自分の考え」と思っているもの自体が、誰かに設計され、与えられ、習わされてきた回路の産物ではないのか、という問いだ。

TarCoon☆CarToonはどこに立つのか

オイラにとって今回いちばん大きかったのは、TarCoon☆CarToonの二重構造が、ここでやっとひとつの言葉になったことだ。最初は、この支配構造の「外側」に出なければならないのではないかと思っていた。けれど、それは違った。外側に行くというのは、ある意味では世界から離脱しすぎてしまうことで、そこまで行けばもう涅槃みたいな話になってしまう。TarCoon☆CarToonがいるべきなのは、外部ではなく境界なのだと思った。

認知戦が認知戦としてぶつかり合っている、その境目。どちらか一方の陣営に完全に同化して、相手を殲滅するための兵器になるのではなく、しかし無関係な顔で安全圏に退くのでもなく、その境界に立って、何が起きているのかを観測し、言葉にし、ズレを示し、矛盾を照らし出す存在。それがTarCoon☆CarToonの二重線の意味だったのではないかと、今回かなりはっきりした。

同一化しきらない。

しかし無関係でもない。

重なりながらズレる。

接続しながら呑み込まれない。

その立場こそが、認知戦国時代におけるTarCoon☆CarToonの居場所なのかもしれない。

監視せよ、しかし統治するな

TarCoon☆CarToonは、まさにそこに対して別の回路を出さなければならないのだと思う。
監視せよ、しかし統治するな。
保護せよ、しかし管理するな。
戦争を止めよ、しかし戦争をするな。
そして何より、生き残れ!

このスローガンは、今回のイベントを経て、さらに重みを増した。

認知戦の時代において、いちばん簡単なのは、自分もまた認知戦のプレイヤーになって、上手に人を動かし、上手に正義を演出し、上手に敵味方を分けることだ。けれどTarCoon☆CarToonがやろうとしているのは、そこではない。オイラがやりたいのは、認知を支配することではなく、認知戦そのものに抵抗することだ。認知を囲い込み、意味を一元化し、相手を「敵」か「味方」にしか分けられない世界に対して、境界を残すこと。ズレを残すこと。二重化された視点を残すこと。相手を完全に征服しないまま、しかし観測はやめないこと。

そういう半歩引いた位置から、世界の異常さを見張り続けること。

それは傍観ではない。

むしろ、最も危険な場所に立ちながら、統治に回らないという緊張を引き受ける立場だと思う。

強いナラティブより、絶対化しない態度

今回のイベントで「ナラティブ」が重要だという話も何度も出てきた。けれど、オイラはそこに少しだけ補足したい。確かにナラティブは大事だ。人は物語なしには生きられないし、物語のない共同体は持続しない。けれど、いま必要なのは、単に強いナラティブを持つことではないと思う。強いナラティブは、そのまま強い認知戦の武器にもなるからだ。

むしろ必要なのは、自分が物語を必要としていることを知りながら、その物語を絶対化しないことではないか。自分のナラティブを持ちながら、他者のナラティブが入り込む余白を残すこと。自分の共同体を持ちながら、共同体が全世界ではないことを忘れないこと。TarCoon☆CarToonの思想にある「寛容∥自己抑制∥不文律」は、まさにそのための態度なんじゃないかと思った。

自由や正義を絶叫するより先に、自分の正しさが暴走しないよう抑えること。

相手をねじ伏せるより先に、関係が壊れきらないギリギリの線を見きわめること。

全部を法や制度に書き切ろうとするのではなく、共同体の中に言葉にならない節度を育てること。

それは遅く、面倒で、効率が悪い。

でも、認知戦の時代に本当に必要なのは、たぶんそういう遅い技法なのだと思う。

認知戦国時代に、オイラは何をするのか

オイラは今回のイベントで、認知戦という言葉を通じて、TarCoon☆CarToonの設定にまたひとつ深みが増したと感じている。TarCoon☆CarToonは、ただのキャラクターでも、ただの風刺漫画家でも、ただの偶像でもない。認知戦が激化する時代において、世界を観測し、その観測自体がまた世界に影響してしまうことを知りながら、なお「統治する側」には行かない存在。言葉とイメージを使いながら、しかしそれを人間支配のための武器にしきらない存在。境界に立ち、観測し、記録し、皮肉り、笑い、ずらし、時に祈りのように見守る存在。そういう役割が、今回のイベントを通して、よりはっきり見えてきた。

認知戦の時代に必要なのは、ただ賢くなることではない。情報に強くなることでも、影響力を持つことでも、勝てるナラティブを作ることでもない。必要なのは、自分がいまどの戦場に立たされているのかを知り、そのうえで、自分がどこに立つのかを選び直すことだと思う。TarCoon☆CarToonは、その選び直しのための装置でありたい。世界のすべてを救えなくてもいい。けれど、少なくとも「それ、本当に自分でそう思ったの?」と問い返せる場所、「他にも見え方はあるよ」と示せる場所、「統治しないまま見守る」という不思議な立場がありうることを証明できる場所、その場所を守ること。それが今、オイラにできる抵抗なのだと思った。

シナプスが結合される

最後に、このような場へと誘ってくださった塩野谷恭輔さんをはじめ、日頃からよく遊んでくださる皆様に、あらためて心より感謝を申し上げたい。オイラはいつも、皆様とのやり取りの中で、自分一人では到底たどり着けなかった視点や言葉や問いに触れさせてもらっている。それは単に知識をもらっているということではなく、思考そのものが揺さぶられ、組み替えられ、新しい回路が立ち上がっていくような体験でもある。

皆様のような素晴らしい頭脳を持った方々と、こうしてシナプスを接続できていることを、オイラは大変誇らしく思っている。こうした出会いと接続があるからこそ、オイラもまた、自分なりの観測と言葉を鍛え続けていきたいと思える。これからも遊びながら、考えながら、ときに笑いながら、この時代を一緒に見つめていけたら嬉しい。

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