線引きの夜に、祈りだけが残る ──「年末のある日の日記」を読んで

「出禁」とは何だろう? それは人を切り捨てるための線なのか、それとも事故を止めるための線なのか。年末のオープンな忘年会で起きた線引きを手がかりに、暗黙の了解が支える場の脆さと、損得で関係を測る“強者の帳簿”の冷たさについて考えた。祈りの距離を保ちながら、「相手の好きを守る」ことを生存戦略として捉え直す応答文。

この記事は、noteで投稿された「年末のある日の日記」の応答記事です。まずは、下記のnoteをお読みください。

好きは契約じゃない、護符だ

だいたい、年末の深夜ってやつは、時間の流れ方が変になる。街はまだ騒がしいのに、耳に残った言葉だけがやけに大きくて、ひとつの出来事が何週間分もの重さを背負って胸に沈む。風邪のせいか、身体が重く起き上がれない。そういう夜に、オイラは一篇の日記を読んだ。

読んでいない人のために、状況だけ先に伝えておく。

年末、関西に戻った書き手が、かつて通っていた店の忘年会へ顔を出す。忘年会は「誰でも来ていい」形式だった。ところがその場で、暗黙のマナーがうまく読めない男性がいて、危なっかしい言動が重なり、店長が“出禁”を言い渡した。日記は、その瞬間の彼の顔を見て胸が痛み、「昔の自分みたいだ」と感じ、遠くから祈るように閉じられていた。

これはTarCoon☆CarToonのイベントだったし、店長は友人のナンノさんだ。読み終えたあと、スマホを伏せたまま、TarCoon☆CarToonとして自分に課している言葉を思い返した。

オイラは、正しさを掲げるためにTarCoon☆CarToonをやっているわけじゃあない。人が人を拒む瞬間に、どんな“形”が立ち上がっているのか──そこを見張るためにある。だから刺さった。あの「出禁」という線引きが、ただの排除じゃなく、祈りの形で語られていたからだ。
「オープンな場」は、やさしい場ではない。オープンというのは、扉の広さのことじゃないんだよ。床の薄さのことだ。誰でも入れる。でもだからこそ、少し踏み外すだけで床が抜ける。ルールが貼られていないぶん、暗黙の了解が骨組みになる。骨組みが見えない場所で、人はよく転ぶ。そして線は、人を切るために引かれるんじゃなく、事故を止めるために引かれているのに、だけど、「ここから先は危ない」と示す線が、示された側には“拒絶”として刺さる。年末の寒い夜は、とくに冷たく痛い。

日記に胸を痛めるのは、視界が二重露光になっているからだ。線を引く側の事情もわかる。場を守る必要もわかる。でも、線を踏んだ側の顔も見えてしまう。理解と同情が同じ眼球に同居するとき、人は祈るしかなくなる。「祈る年末」という言葉が、そこから自然に生まれてしまうのだ。

日記の中で、忘れがたい会話があった。彼は恋愛や同棲について、「メリットがわからない」「一緒に住めば悪いところが見える」と言ったそうだ。筋は通っている。けれど、その筋は冷たい。メリット/デメリットは、強者の帳簿だ。損得で世界を切っても当面は困らない側だけが、その帳簿を軽々と開ける。
ただ、ここは急いで断罪したくない。メリット/デメリットの話を、彼はどういう気持ちで持ち出したんだろう。冷笑だったのか。強がりだったのか。傷つかないための安全確認だったのか。あるいは、損得でしか世界を説明できない場所に長くいて、帳簿の言葉しか持てなかったのか。
合理性は、正しさの旗じゃなく、防具として握られることがある。内側が見えないまま「冷たい」で終わらせれば、世界はまたひとりを悪者にして、すっきりしてしまう。彼もまた、彼なりに、この世界の理不尽さに痛めつけられていたのかもしれないのに。
それでも、苦いアイロニーが立ち上がる瞬間がある。帳簿の言葉は、帳簿の言葉で返ってくることがある。店の側でも計算は走る。「危なっかしい」「空気が壊れる」「店にとってリスクだ」──そういう言語に変換され、最後に“出禁”という判定が下る。
秤を持ち出したつもりが、いつの間にか秤の上に立っている。損得の物差しは、使った者を守る顔をしながら、使った者を測り返す。年末の夜にそれが起きると、やけに寓意っぽく見えた。
損得だけで生きると、人は最後に“損得”として回収されてしまう。上には上がいる。もっと上手に値札を貼る人間、もっと上手に燃やす人間がいる。メリット/デメリットで渡るのは、一瞬“賢いふり”ができる。でも長くやれば、いつか自分が秤に乗る。勝っているつもりで、養分として削れていく。それって、ほんとうに強いんだろうか。強さって、計算の上手さのことだけなのか。

彼に投げかけた「人や世界を好きということが、わかっていない」という言葉──あれは残酷なほど真っ直ぐだ。けれど、残酷さの中に、別の倫理の入口がある。
“好き”は、契約じゃない。護符だ。護符は万能じゃない。でも、万能じゃないからこそ、効く局面がある。人と人が俗世で生き残るとき、最後に効いてくるのは、案外こういうものだと思う。
「相手の悪いところも少し受け入れる」。それは我慢大会じゃない。自己犠牲の説教でもない。自分の気持ちだけで生きない技術だ。自分の好きだけを優先しない。だからといって、相手のことばかり気にして自分を殺すのとも違う。両方を避けながら、落とし所を探す。
そのとき、いちばん実務的で、いちばん効くのが「相手の好きを守る」という姿勢だと思う。相手が守っている空気。相手が積み上げてきた信頼。その場が大切にしている温度。それを踏まない。乱暴に壊さない。媚びでもない。支配でもない。ましてや自分を殺すことでもない。むしろこれは、排除されないための現実的な生存戦略だ。

出禁になった以上、同じ店で顔を合わせることはないかもしれない。でも、世間は狭い。関西も愛知も東京も、ふとした飲み会、ふとした店先、ふとした友人の友人の輪郭の中で、再会は事故みたいに起きる。その再会が痛むか、違う挨拶で始まるかは、たぶん「怨み」か「学び」かの差になる。期待というのは、きっと祈りの言い換えだ。

日記の最後にあった一文が、いちばん救いだった。

「まず自分の世話をせねばならない」。祈りは抱え込みじゃない。支配じゃない。届くかどうかわからない相手に、届かないかもしれないまま、なお言葉を置くこと。そして、自分を壊さないこと。オイラもその距離で言葉を置いておきたい。

最後に、線を踏んだ彼へ向けて“置いておく言葉”だけを短く。
損得は便利だ。便利だから、すべてを損得にしてしまう。そうなると、判断しているつもりで、いつの間にか判断される側に立っている。
次にどこかの場に入るとき、「得か損か」より先に、その場が守っている空気を見たい。温度を見たい。護符みたいなものは、案外そこに落ちている。

言葉は現実をすぐには変えない。それでも、未来のふるまいを、ほんの少しズラすことはある。あの夜の拒絶が、ただの終わりじゃなく、別の始まりになりうるとしたら──その始まりはたぶん、「相手の好きを守る」という小さな技術から始まるんだろうな。

(追伸)

「祈る年末。来年も、きっと祈る」──あの一節は、甘さじゃなく、見捨てないための形だと思った。

世間が狭いなら、祈りもまた、どこかで巡り合ってしまうのかもしれないね。

TarCoon☆CarToonより

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