お菓子のたとえ 3

「このお菓子嫌いやったんやね
気づかなくてごめん」
って言われた

嫌いって言ってない

なぜか
「謝らなくていいよ」
って言わなきゃいけない

つらい。

お菓子のたとえ 3

「このお菓子嫌いやったんやね
気づかなくてごめん」
って言われた

嫌いって言ってない

なぜか
「謝らなくていいよ」
って言わなきゃいけない

つらい。

初出投稿

解説|言っていないことへの謝罪

この作品で描かれているのは、相手を理解しようとする善意が、かえって相手の意思を置き去りにしてしまうという、人間関係の奇妙な不条理である。人は他者の気持ちを推し量り、ときには自分の至らなさを謝罪する。しかし、その理解が相手の言葉ではなく、自分自身の思い込みに基づいていたとしたら、謝罪はいったい誰に向けられたものなのだろうか。

冒頭で、相手は「このお菓子嫌いやったんやね。気づかなくてごめん」と謝罪する。一見すると、相手の気持ちを思いやる言葉である。ところが、語り手は「嫌いって言ってない」と返す。ここには、相手が理解したつもりになっていることと、語り手が実際に表明したこととの間に、明らかな隔たりがある。相手は語り手の感情を推測し、それを事実として受け止め、さらにその事実に対して謝罪している。語り手の意思が確かめられないまま、理解と反省だけが先に進んでしまったのである。

さらに奇妙なのは、その後の展開である。語り手は自分の感情を勝手に決めつけられたにもかかわらず、今度は「謝らなくていいよ」と応じなければならないように感じている。謝罪する側と謝罪を受ける側の立場は明確なはずなのに、なぜか語り手の側が相手の気持ちを収める役割まで引き受けることになる。ここで生じているのは、単なる誤解ではない。相手の思い込みによって始まったやり取りが、いつの間にか語り手自身に、その思い込みを前提とした応答を求めるものへと変わっているのである。

この構造は、TarCoon☆CarToonが重視する、他者の主体性を尊重するという態度にも通じる。他人の気持ちを理解しようとすることと、その気持ちを本人に代わって決めることは異なる。善意からの発言であっても、相手の意思を確かめる過程が失われれば、理解しようとする行為そのものが、相手の解釈を奪うことにもなりかねない。「寛容∥自己抑制∥不文律」という標語に照らせば、他者を思いやることには、自分の理解が間違っているかもしれないという可能性を残す、ある種の自己抑制も含まれるのだろう。

もっとも、謝罪した相手に悪意があったとは限らない。むしろ、相手なりに気遣った結果なのかもしれない。しかし、善意であることと、その善意が相手にとって適切であることは同じではない。また、語り手も謝罪そのものを否定しているわけではない。ただ、言ってもいないことを前提に謝られ、その謝罪にまで応じなければならない状況に、戸惑いを覚えているように見える。

最後の「つらい。」には、怒りとも悲しみとも言い切れない、どこか居心地の悪い感情が残されている。相手は謝っている。しかも、おそらく自分のために謝っている。それなのに、その謝罪を受け取ることで、自分の言っていないことまで引き受けなければならなくなる。理解されなかったことよりも、理解されたことにされてしまうこと。 この小品が描いているのは、その小さくも厄介な不条理なのかもしれない。

(邑井らに)

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