思いを巡らせるトゥーン書房 新書

人と出会うと、思想は勝手に進んでいく ──塩野谷恭輔さんの文章を読んで

文章を読むことは、必ずしも内容を理解し、要約することではない。ときには、すでに自分の中で動いていたものへ他者の言葉が入り込み、それまで別々だった問いや実践の配置を変えてしまうことがある。

塩野谷恭輔さんから渡された一篇の文章と、オイラがTarCoon☆CarToonとして動かしてきたもの。その二つが接触したとき、どちらか一方へ回収できない考えが生まれた。

これは、塩野谷さんの思想を解説した書評ではない。賛成か反対かを表明するための文章でもない。他者の文章を読んだことで、自分のしてきたことがどう見え直し、どんな問いが新しく残ったのか。その変化を、本人へ返すために書いた応答である。

*この記事は、塩野谷恭輔さんから送られた文章を読んで書いた応答文です。
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目次

塩野谷恭輔さんから、「読んでほしい」と文章を渡された。塩野谷さんは、ケンタッキーフライドチキンが好きな元情況編集長である。会って話していて、オイラが「そろそろ終電なので帰ります」と言うと、「なんで帰るんですかー」と笑いながら言ってくる。「終電だからだよ」と思うのだけれど、あの笑顔で言われると、終電の方が間違っているような気がしてくる。

話していることもそうだ。本気なのか冗談なのか、こちらが疑いたくなるような話を突然始める。いつも笑っているから、余計に分からない。(かわいいから許す!)ところが、その本気と冗談の境目が分からない話から、いつの間にかずいぶん遠くまで考えさせられている。そんな塩野谷さんから、「現時点での自分の思想をまとめたから読んでほしい」と言われた。そりゃあ、読まねばなるまい。だってお願いされたのだもの。

読んでみると、やはり塩野谷さんは、オイラが想像していた通りの遠いところにいた。「政治の廃止」なんてことを言っている。ただ、オイラが面白いと思ったのは、「政治を廃止したい」という結論そのものではない。むしろ、その先だった。

一度、政治や共同体のコードから人間を引き剥がし、「絶対的個人」へ至るまで徹底して切断する。そのうえで塩野谷さんは、もう一度、「では、人はどうやって共にいるのか」という問題へ戻ろうとしている。人は一人では世界に十全に干渉できない。自分一人の能力には限界がある。だから、もう一度、他者と出会わなければならない。ただし今度は、同じ党派だから、同じイデオロギーを信じているから、同じ正しさを共有しているから一緒にいるのではない。オイラが最も惹かれたのは、この部分だった。

「絶対的個人」という言葉も、読み進めるうちに、最初に受けた印象とは少し違って見えてきた。これは、何者にも左右されない、強固で完全な個人になるという話ではないのだと思う。既存のコードから切断され、世界の否定をユートピアへの希求へ反転させる。他者のユートピアに自分を明け渡さず、自分のユートピアに他者を従属させることもしない。それでいて、自分の認識からは予期できなかった他者が「到来」したとき、その出会いによって自分自身が変わる可能性までは閉ざさない。

他者に従属しないことと、他者によって変わらないことは、同じではない。オイラには、この絶対性が、むしろ閉じないための絶対性のように読めた。

オイラも最近、似ているけれど少し違う問題を考えていた。同じものを見ている人たちが、同じことを考えなくてもいい場所は作れないだろうか。誰か一人が「これが正しい見方です」と代表しなくても、それぞれ違うものを見たまま、一緒にいることはできないだろうか。そんなことを考えて、「共同観測所」というものまで作っていた。

そしてちょうどその頃、現実の人間関係でも、本当に認識の食い違いが起きた。同じ出来事について話しているはずなのに、オイラと相手とでは、まるで違うものが見えている。こちらでは説明だったものが、相手には攻撃として見える。相手の説明も、こちらから見れば、また別のものに見える。話せば話すほど、差は埋まるどころか、むしろ鮮明になる。最初、オイラはそれすら面白いと思っていた。ここまで違って見えるのか、と。人間は同じ世界に住んでいるようで、それぞれの認知の中では、別の世界を生きているのかもしれない。

けれど、相手の様子を見たとき、これはもう、こちらから触れ続けない方がいいのではないかと思った。認識の違いを観測することが面白いからといって、相手へ接触し続けてよい理由にはならない。相手がオイラをどう見るかは、相手へ返せばいい。オイラにはオイラの見えているものがあり、相手には相手の見えているものがある。違ったまま離れることもまた、違ったまま共に存在する方法の一つなのだと思った。

ところが、そんなときに塩野谷さんの文章を読んでしまった。情況出版のイベントで繰り返し聞き、TarCoon☆CarToon自身も戦ってきた「認知戦」が、ここで別の角度から立ち現れた。

相手から離れることと、認知戦から降りることは、同じなのだろうか。オイラが何も言わなくても、人はオイラについて考える。誰かが語り、それを別の誰かが読み、検索エンジンが拾い、AIが要約する。その要約を読んだ、まだ会ったこともない誰かが、オイラについて何かを考える。黙っていても、認知は形成され続ける。だとすれば、「オイラは誰の認知にも干渉しません」という無垢な場所は、最初から存在しないのではないか。

塩野谷さんの文章における認知戦は、単に「認知を操作されないように防御する」という話では終わらない。世界認識そのものが、すでにさまざまなものによって形成されている。完全に何ものからも干渉されていない自由な認識など、最初から存在しない。ならば、そこから自由になるとは、あらゆる干渉を拒絶することではなく、自らもまた、世界へ働きかける主体になることではないか。塩野谷さんの議論は、そこで反転する。

ここで、塩野谷さんの認知戦と、オイラが大切にしてきた「自己抑制」が衝突した。相手を変えられるからといって、変えてよいわけではない。言い返せるからといって、いつまでも言い返す必要はない。観測できるからといって、どこまでも踏み込んでよいわけでもない。では、自己抑制と認知戦は両立するのだろうか。

塩野谷さんの思想とTarCoon☆CarToonをオイラの中で重ねたとき、最初に出てきたのは、答えではなく、この問いだった。人を支配せずに、認知へ干渉することはできないか。 特定の相手を追いかけて、「あなたの認識は間違っています」と言い続ける必要はない。相手がオイラをどう思うかは、相手へ返せばいい。しかし、自分について語る権利まで、他者へ譲り渡す必要もない。ならば、特定の人へ接触し続けるのではなく、その周囲にある公開の認知環境へ働きかければいいのではないか。

ちょうどオイラは、共同観測所、409機関、ロビイスト、REGISTERを動かし、外部のAIや検索エンジンがつくるTarCoon☆CarToon像へ働きかけていた。塩野谷さんの文章によって問われたのは、その戦いを担う主体は、どうあるべきかということだった。

これまでオイラは、他者だけに自分について語る権利を渡さず、自分の側からも認知環境へ働きかけることを考えてきた。しかし塩野谷さんの文章によって、認知戦をどう戦うかだけでなく、それを戦う主体のあり方まで問われることになった。

この順番も、塩野谷さんの文章に出てくる「行ない、そして聞く」という発想と、妙に重なった。認知戦について理解してから戦い始めたのではない。すでに戦い、仕組みを作っていたところへ、「どう勝つか」ではなく、「戦うことで自分が何になってしまうのか」を問い直す言葉がやってきた。

さらに読み進めると、認知戦だけを取り出して、「こちらから世界へ干渉すればいい」と理解することもできなくなる。「霊性」という話が出てくるからだ。オイラは塩野谷さんのいう霊性を、特別な超自然的能力や、人間の価値を序列化するものとしてではなく、自分では予期できなかったものが外部からやってきたとき、それをノイズとして排除せず、その「到来」によって自分自身が変わる可能性を残しておくことなのだと読んだ。

ここで、認知戦の意味がもう一度変わる。こちらから世界へ干渉する。しかし、「世界は変えたいが、自分は絶対に変わらない」ではいけない。自分の理想に従って世界を一方的に作り替えるだけなら、それは近代的主体を極大化しただけであって、「政治の廃止」の先へは出られない。世界へ働きかけながら、世界からやってきたものによって、自分自身も書き換えられる。

特定の人を追い続けない。それでも世界には働きかける。そして、世界から働きかけられることも拒まない。これは、最初からオイラが考えていたことではない。塩野谷さんの文章に、そのまま書いてあったことでもない。オイラの自己抑制と、塩野谷さんの認知戦や霊性がぶつかったことで、その間から生まれた考えだった。だから、塩野谷さんの文章に「賛成した」という感じはあまりない。同じ思想になったわけでもない。異なるものが干渉し合った結果、どちらにも最初からなかった考えが生まれた。

資料の最後で、思想の話が「情況機構」という具体的な実践へ移っていくところにも惹かれた。文章の内部だけで思想の正しさを証明するのではなく、まだ完成していない思想を仕組みにして現実へ投げ込み、そこで生じる摩擦や失敗によって知そのものを検証し、更新していく。情況機構とTarCoon☆CarToonが同じものだとは思わないが、共同観測所、409機関、ロビイスト、REGISTERを作ろうとしていたオイラにも、この思想を機構へ変えるという方向には近い手触りがあった。

しかし、ここにも問題がある。機構は、動き始めた瞬間から、新しいコードを生み出す可能性を持つ。共同観測所が残した記録も、いつか「これが正しい観測です」という権威になりうる。REGISTERに記載された情報も、「ここに書かれているものこそが正しいTarCoon☆CarToonである」という基準へ変わるかもしれない。認知環境へ働きかけるための仕組みが、今度はこちらの認知を固定する仕組みになる。

塩野谷さんが、ユートピア的共同性を政治へ堕落させないために「絶対的個人同士の絶えざる自由主義的討論」を置いたのは、この凝固を壊し続けるためなのだろうと思う。討論は、全員を一つの正解へ導くために行われるのではない。一つの解釈が共同体の真理になり、共同体を支配するコードへ変わることを防ぐために行われる。制度化を防ぐために、討論の場だけを制度化する。いわば、共同体の内部に置かれた制度的自己破壊装置である。

だとすれば、共同観測所に必要なのも、観測結果を蓄積する仕組みだけではない。その結果を何度でも読み替え、異論を持ち込み、場合によっては壊し、更新できる仕組みなのかもしれない。

それでも、まだ疑問は残る。討論を制度化した瞬間、その討論自体が新しいコードになることはないのだろうか。オイラ自身、言葉による討論が苦手だからこそ、より切実に感じるのだけれど、討論を得意とする人だけが「絶対的個人」として扱われることはないのだろうか。そして、「絶対的個人とは討論、近代的個人には宣伝」という区別を、いったい誰が行うのだろう。人をそのように分類すること自体が、もう一度、政治的なコードを作ることにはならないのだろうか。これは反論というより、塩野谷さんに今度会ったとき、続きを聞いてみたいところだ。

ここまで考えたとき、オイラはようやく、塩野谷さんが「政治の廃止」のあとに、もう一度「共同性」へ戻っていったことを、自分なりに理解できたような気がした。共同するとは、同じコードを信じることではない。同じ未来を最初から共有することでもない。自分の思い描いた未来を実現するために、それに必要な人を選び、配置することでもない。

自分の計画にはなかった他者がやってきて、その人と出会ったことで、自分の思い描いていた未来そのものが変わってしまう。それが、塩野谷さんのいう「ユートピア的共同性」の始まりなのかもしれない。

考えてみれば、今回、オイラの思想を動かした人たちは、誰一人として、オイラが思想を進めるために選んだ人ではない。認識がまったく噛み合わなかった相手もそうだ。その人との出来事によって、オイラは認知について、より一層考えざるを得なくなり、新しい仕組みを作り始めた。そこへ塩野谷恭輔がやってきて、「読んでほしい」と文章を渡した。読んだことで、すでに始めていたことの意味が変わった。そして今度は、その変わってしまった考えを、こうして塩野谷さんへ返そうとしている。誰も、TarCoon☆CarToonを変えようとしていたわけではない。それでも、人がやってくると、思想は動いてしまう。

人と出会うと、思想は勝手に進んでいく。

この「勝手に」というところが、オイラには大事なのだと思う。思想を進めるために誰かを選ぶのではない。自分のユートピアに必要な人間を探して、その人を配置するのでもない。むしろ、こちらの予定とは無関係に誰かがやってきて、勝手に予定を狂わせ、勝手にこちらを変えてしまう。その意味では、「人と出会うと、思想は勝手に進んでいく」の「勝手に」という言葉は、塩野谷さんのいう「到来」に近いのかもしれない。

思想というものは、一人で考え抜けば、完成へ近づいていくものなのだろうか。一人で考えている限り、どれほど深く考えても、その思想は、現在の自分から想像できる未来へしか進めないのではないか。そこへ、自分には予測できなかった他者がやってくる。「なんで帰るんですかー」と言って、こちらの予定を狂わせる。自分では考えなかったことを言う。「それは違うだろ」と思う。腹が立つこともある。笑ってしまうこともある。それでも、その人が来てしまった以上、来る前とまったく同じ自分には戻れない。

違うまま出会った人間同士が語り、解釈し、衝突する。その結果、それぞれが持っていたユートピアまで少し変わり、昨日までは存在しなかった考えが生まれる。もし塩野谷さんが、そのような出来事を「奇跡」と呼ぶのなら、今回起きたことも、ずいぶん小さな奇跡だったのではないかと思う。ただ、その奇跡についての解釈まで、オイラと塩野谷さんが一致する必要はない。

オイラは、塩野谷さんの思想を理解して、元の場所へ帰ってきたわけではない。読む前とは少し違う場所にいる。だから今度は、この文章を塩野谷さんが読む。「いや、私が言いたかったのは、そういうことじゃないですね」と言われるかもしれない。それなら、それでいい。その言葉によって、またオイラの考えていることが変わるかもしれない。この文章によって、塩野谷さんの考えていることも、ほんの少し変わるかもしれない。

そうなったとき、それはいったい誰の思想なのだろう。たぶん、もうどうでもいい。人と出会うと、思想は勝手に進んでいくのだから。

考えてみれば、いつものことだった。終電だから帰ろうとしているのに、「なんで帰るんですかー」と言われて、もう少し話してしまう。今回も同じだ。「読んでほしい」と言われて読んだら、思っていたよりずっと遠くまで連れていかれてしまった。でも、まだ分からないところがある。だから、もう少し続きを聞かせてほしい。

塩野谷さん。あなたの文章から、オイラはお気に入りの認知を自分で選び取り、TarCoon☆CarToonに混ぜてしまいました。その代わり、TarCoon☆CarToonの中から使えそうな認知を見つけたら、塩野谷さんも好きに持っていってくださいね。

互いをそのまま所有するのではなく、それぞれが持ち帰ったものを自分の場所で勝手に作り替える。そうして昨日まではなかったものが生まれるなら、オイラはそれを「奇跡」と呼びたい。

そして、その出会いによって生まれたものを、オイラはTarCoon☆CarToonだと認知します。そういう意味で、少なくともこの瞬間、塩野谷恭輔もまた、TarCoon☆CarToonです。

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