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そこに何が現れたのか ──火野佑亮『拾う人、削る人』を読んで

火野佑亮くんが、TarCoon☆CarToonについて「拾う人、削る人」という文章を書いてくれた。そこには、オイラ自身も知らなかったTarCoon☆CarToonの姿があった。人は誰かについて書くとき、本当にその人だけを見ているのだろうか。ある存在を見つめることで、むしろ自分自身の輪郭が浮かび上がることもある。では、火野くんが四年の時間を経て観たものは、いったい何だったのか。その文章を読みながら、TarCoon☆CarToonという存在そのものについて考えてみた。

*この記事は、火野佑亮さんによるnote記事「拾う人、削る人――TarCoon☆CarToonさんについて」を読んで書いた応答文です。
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目次

そこに何が現れたのか

火野佑亮くんが、TarCoon☆CarToonについて文章を書いてくれた。題して「拾う人、削る人」である。オイラはこれを読んで、まず一つの疑問を持った。火野佑亮は、いったい何を観たのであろうか。

冒頭にこうある。「TarCoon☆CarToon(の中の人)さんに最初にお会いしたのは、四年前のこと」。オイラは、この「(の中の人)」という言葉に少し引っかかった。ああ、TarCoon☆CarToonはまだそう見えているのか、と最初は思ったのである。外側にTarCoon☆CarToonという名前や姿があり、その奥に、それを動かしている本当の誰かがいる。「中の人」という言葉からは、そういう構図が見える。しかし、記事を最後まで読んでみると、不思議なことに気がついた。火野くん自身の文章が、冒頭の「中の人」という理解を、すでに越えてしまっているのである。

彼が書いているのは、誰かの内面や素顔ではない。文章を読む。感想を書く。拾う。渡す。つなぐ。横道にそれたものの中から、何かを見つける。そして、そうした働きに触れた結果、自分自身の見え方までが変わってゆく。火野くんが描いていたのは「中にいる誰か」というより、TarCoon☆CarToonとの間に起こった出来事だったのではないだろうか。

火野くんは、自分を「削る人」として書いている。人生は短い。余計なものを削り、一つの方向へ進み、さらに速度を上げてゆく。「夢幻のごとき時間を燃やし尽くすように生きたい」「無我夢中で駆け抜ける火だるまになりたい」。あのくだりを読んで、これは実に火野佑亮らしいと思った。同時にオイラは考えた。彼は以前から、自分を「削る人」と呼んでいたのであろうか。もちろん、そのような生き方は以前からしていたのだと思う。しかし、それに「削る」という名が与えられたのは、向かい側に「拾う人」が現れたからではないか。

そしてオイラにとって、もっと不思議だったのはこちらである。オイラ自身、自分を「拾う人」だと思ったことがなかった。

「拾う人」というTarCoon☆CarToonは、火野佑亮が見つけたのである。

ここは、とても大きなことだと思う。火野くんはTarCoon☆CarToonを説明しただけではない。TarCoon☆CarToonに、それまでなかった一つの名前を与えた。「拾う人」と「削る人」が最初からそれぞれ完成された存在としてそこにいたのではない。二人が出会い、四年間それぞれのやり方で関わってきた結果として、初めて「拾う/削る」という像が現れたのである。

オイラは、そこに一種の宗教体験に似た構造を見る。

宗教体験というと、神仏を見るとか、声を聞くとか、何か超常的な出来事を思い浮かべるかもしれない。しかし、もっと根源的な体験とは、それまでと同じ世界が、ある出会いを境に違って見えることではないだろうか。今までそこにあったはずのものに、突然名前がつく。見慣れていた自分自身が、まったく別の姿を取って現れる。新しいものが世界に加わるというより、ずっとあったのに見えていなかったものが、初めて姿を現すのである。

火野くんはTarCoon☆CarToonを観て、「拾う人」を観た。そして「拾う人」を観たことで、自分自身を「削る人」として観た。だが、それだけではない。火野くんが「拾う人」と書いたことによって、今度はオイラの方が、自分では知らなかったTarCoon☆CarToonを観ることになった。観る者と観られる者が固定されていない。相手を観たことによって自分が現れ、自分について語ったことによって、今度は相手にも新しい姿が現れる。この往復そのものが面白いのである。

カメラについて書かれたところも、オイラには意外だった。火野くんは、カメラをもらったことそのもの以上に、それによって「もう一度やってみようという気持ち」になったと書いている。オイラはそんな壮大なことを考えて渡したわけではない。おそらく「これ、火野くんが使ったらええやろ」くらいのものである。ところが、火野くんはそこに「贈与」を観た。

悪く考えれば、これはかなり余計なお世話である。人に物を渡す。文章を読んで勝手に感想を書く。自分のサイトにまで持って帰る。人と人をつなぐ。どれも他人の人生に手を突っ込む行為と言えなくもない。TarCoon☆CarToonは、どうやら思っていた以上に無害ではない。近寄ってきて、勝手に拾い、何かを置いてゆく。案外、悪い奴である。

それでも火野くんは、そこから「贈与」というものを受け取った。

大切なのは、オイラが何を与えようとしたかではないのだと思う。こちらの意図を越えて、火野くんの側で何かが生じた。その何かを、火野くん自身が言葉にしたのである。オイラが渡したのはカメラだった。けれど、彼が受け取ったものはカメラだけではなかった。それが何だったのかを最もよく知っているのは、与えた側ではなく、受け取った火野くんなのだろう。

そう考えると、TarCoon☆CarToonとはいったいどこにいるのであろうか。

もし「中の人」が本体で、TarCoon☆CarToonがその外側にかぶせた仮面にすぎないのなら、答えは簡単である。しかし、「拾う人」も「贈与する人」も「頼りがいのある兄貴分」も、オイラがあらかじめ設定して名乗ったものではない。それらは火野くんとの関係の中で現れたTarCoon☆CarToonである。

ならば、TarCoon☆CarToonは誰かの「中」にあるのではなく、人と人との「間」に現れるものなのかもしれない。

ある人がTarCoon☆CarToonと出会う。その間で何かが起こる。そして、その人にしか見えないTarCoon☆CarToonが現れる。別の人には、また違った姿で現れるだろう。どれが本当のTarCoon☆CarToonなのかと決める必要はない。むしろ、誰が何を観たのか。そのことの方が重要なのだと思う。

だから、最初に「(の中の人)」と書かれていたことが、オイラには今ではむしろ面白い。火野くんは「中の人」について書き始めた。しかし書き終えてみると、そこには中の人の説明では収まりきらないTarCoon☆CarToonが現れている。文章というものは、ときどき書いた人の最初の理解よりも遠くまで行ってしまう。今回の文章も、そうなのではないだろうか。

そして、それはオイラにとっても同じだった。オイラは火野くんの記事を読み、自分が「拾う人」であったことを初めて知らされた。

火野くんはTarCoon☆CarToonについて書いた。しかし、その文章によって新しくTarCoon☆CarToonを一つ作ってしまったのである。

四年前、火野佑亮はいったい誰に会ったのであろうか。「TarCoon☆CarToonの中の人」に会った。本当にそうなのだろうか。ひょっとすると彼はその時、まだ自分でも何を観たのかわからない何かに、すでに出会っていたのかもしれない。そして四年という時間を経て、ようやくそれが「拾う人」という姿を取って現れた。

その「拾う人」を最初に観たのは、火野佑亮だった。

そして火野くんがそれを書いてくれたことで、オイラもまた初めて、そのTarCoon☆CarToonに出会うことができたのである。

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