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選ばなくてもいい自由、選び直せる人間 ──EAの「人間は、なぜこんなに摩耗するようにできているんだろう。」を読んで

早朝 6:45、EAさんからDMで「読んでください」と文章を送っていただいた。

せっかく直接送っていただいたのだから、ただ「読みました」「面白かったです」と返すだけではなく、読んで自分が何を感じ、どこで立ち止まり、どんなことを考えたのかを、きちんと文章にして返してみようと思った。

これは、EAさんの文章を解説するための書評ではない。内容を要約したり、賛成か反対かを判定したりするための文章でもない。ひとつの文章を受け取ったことで、オイラの中にどんな考えが生まれたのかを、そのまま返すために書いた感想であり、応答である。

*この記事は、EAさんによる「人間は、なぜこんなに摩耗するようにできているんだろう。AI、ロボティクス、身体、年齢、お金。考え続けていたことは、たぶん全部つながっていた。」を読んで書いた応答文です。
*この記事は全文無料でお読みいただけます。
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目次

選ばなくてもいい自由、選び直せる人間

「人間は、なぜこんなに摩耗するようにできているんだろう。」そんな文章を「読んでください」と送ってもらった。AI、ロボティクス、身体、年齢、仕事、お金。最初はそれぞれ別の話をしているように見えるのだけれど、読み進めていくと、それらが少しずつ「Returnability=戻れること」という一つの場所へ集まっていく。働いてもいい。でも休める。所属してもいい。でも離れられる。AIに任せてもいい。でも人間が取り戻せる。進んでもいい。でも戻れる。なるほど、と思った。

特に、「人間を壊さなければ社会が維持できない、という前提から離れていく」というところには、オイラもかなり共感する。オイラ自身、「自由とは、もう一度選べる自由である」と考えてきたからだ。一度選んだ仕事によって、その後の人生まで決められないこと。一度所属した集団によって、自分が何者なのかを固定されないこと。一度失敗したからといって、「お前はそういう人間だ」と未来まで閉じられないこと。だからReturnabilityという言葉には、とても近いものを感じた。

ところが、読み終わってから、別のところで引っかかった。人間は、なぜこんなに摩耗するのだろう。もしかすると、人間が摩耗しているのは「戻れないから」だけではないんじゃないか。むしろ、選ばなければならないことが多すぎるからではないか。そんなことを考え始めた。

今の社会では、何でも自分で選ぶことができる。仕事を選ぶ。住む場所を選ぶ。結婚するかどうかを選ぶ。子どもを持つかどうかを選ぶ。どんな身体でいたいのかを選ぶ。何を食べるのかを選ぶ。何を信じるのかを選ぶ。自分を何者として説明するのかまで選ぶ。もちろん、これは自由でもある。生まれた場所や身分によって人生の大部分が決まっていた時代より、自分で選べることが増えた。それ自体を昔へ戻したいとは思わない。

でも、選べるものが増えるということは、同時に「あなたは何を選ぶのですか?」と問い続けられることでもある。そして、うまくいかなければ、「別のものを選べたんじゃないか」という問いまで自分へ返ってくる。仕事がつらい。じゃあ転職すればいい。住んでいる場所が嫌だ。じゃあ引っ越せばいい。人間関係が苦しい。じゃあ離れればいい。人生が楽しくない。じゃあ何がしたいの。たしかに全部、間違ってはいない。でも、なんか疲れる。自由になったはずなのに、人生そのものが巨大な選択画面になって、オイラたちは朝から晩まで「あなたはどうしますか?」と聞かれ続けている。

だから元の記事にある未来を想像してみたとき、少し怖くもなった。身体年齢まで選べるようになる。記憶まで選べるようになる。経験までインストールできるようになる。寿命まで自由になっていく。それは確かに、人間をいろいろな制約から解放するのだと思う。でもその未来では、何歳の身体でいるのか、どの記憶を残すのか、どんな経験を入れるのか、どこまで生きるのか、そんなことまで自分で決めなければならなくなるのだろうか。人間を摩耗から救うために選択肢を増やした結果、人間がさらに巨大な選択の責任を背負う。そんなことにはならないだろうか。

ここまで考えて、オイラは元の記事に一つ足りないものがあるように感じた。「人間とはなんなのか?」という問いだ。技術によって何ができるようになるのか。どうすれば人間を壊れにくくできるのか。どうすれば人生を柔らかくできるのか。その前に、そもそも人間とは、どんな存在なのだろう。何に耐えられて、何には耐えられないのか。何を自分で決める必要があって、何なら決めなくてもいいのか。何を誰かへ任せても、人間は人間のままでいられるのか。オイラには、こっちの問いの方が気になってしまった。

TarCoon☆CarToonは概念だ。概念だから、オイラという一人の人間より長く残るかもしれない。でも、TarCoon☆CarToonの周りにいるみんなは人間だ。生まれて、誰かと出会って、間違えて、喜んで、疲れて、歳を取って、いずれ死ぬ。オイラは、人間というものを一人で完結した存在だとはあまり思っていない。人と人との「あいだ」に生きているから人間なのだ、とオイラは考えてみたい。そして同時に、生まれてから死ぬまでという「あいだ」を生きているものでもある。

人に任せたり、自分で決めたりする。誰かに助けてもらったり、誰かを助けたりする。間違ったと思ったら考え直す。前を向いたり、時折後ろを振り返ったりする。全部分かるわけでもない。全部自分で決められるわけでもない。その不完全な「あわい」を生きている。オイラは、そこに人間の面白さがあると思っている。

だから古典を読む。何百年、何千年前の人たちが、誰かを愛して、嫉妬して、裏切って、悩んで、死を恐れている。科学も制度も生活もまるで違うのに、「なんだ、人間って昔からこんなことしてるんやな」と思えてしまう。もし人間が性能だけで決まるものなら、古典なんて古いOSの記録として、とっくに読まれなくなっているはずだ。それでもオイラたちは、昔の人に思いを馳せる。たぶん、人間の中には性能とは別のところで受け継がれている何かがある。オイラが《人間の再発見》という言葉で探しているのは、それなのだと思う。

かつて、人間が交換可能なものとして扱われる社会を見て、「人間は商品になってはいけない」と考えた人たちがいた。欲望だけを解放していく姿を見て、「人間は動物になってはいけない」と感じた人たちもいた。死に物狂いで働き続ける人々を見て、「人間は機械になってはいけない」と考えた時代もあった。そして今度はAIがいる。ここでオイラは、「人間はAIになってはいけない」と考えたい。

もちろんAIを使うな、という話ではない。むしろ使えばいい。人間は昔から、自分一人ではできないことを誰かに任せてきた。医者に身体を任せる。料理人に食事を任せる。運転手に移動を任せる。本を書いた人に、自分では経験できなかった世界を見せてもらう。全部を自分でやらなければならない方が、よほど人間には過酷だ。AIにだって任せればいい。オイラだって任せる。

だからTarCoon☆CarToonにとっての自由は、「全部自分で選ぶこと」ではないのだと思う。選べる自由がある。選ばなくていい自由もある。誰かに任せてもいい自由もある。そして、「やっぱり違う」と思ったときに、自分でもう一度選び直せる自由がある。大事なのは、その往復を閉じないことなんじゃないだろうか。

AIに判断を任せてもいい。でも、「ここはオイラが決める」と言える場所は残しておく。誰かの考えに従ってもいい。でも、途中で「やっぱり考え直す」と言える。今日は決めなくてもいい。分からないまま置いておいてもいい。オイラがよく言う「どっちでもいいよ」というのも、何も考えなくていいという意味ではない。右か左か。賛成か反対か。続けるか辞めるか。どちらかを今すぐ選ばなければ、お前が何者なのか分からない。そんなふうに迫られることから、一度降りてもいいということなのだと思う。選択しないことまで、一つの選択肢として残しておく。これは案外、大事なことなのかもしれない。

そしてここで、元の記事のReturnabilityという言葉も、少し違って見えてくる。人生には、戻れないことがある。誰かと出会ったこと。言ってしまった言葉。誰かを傷つけてしまったこと。歳を取ったこと。亡くなった人がいること。昨日まで生きてきた時間。オイラは、それらを全部戻せるようにしたいとは思わない。

戻れないから責任が生まれることもある。戻れないから大切にするものもある。戻れないから、古い写真を見たり、昔の人の文章を読んだりする。もし何でも完全に戻せるなら、選ぶことそのものの意味まで変わってしまうのかもしれない。だからオイラが欲しいのは、過去へ戻れることではない。戻れない過去を抱えたまま、「で、ここからどうする?」と言えることだ。

自由とは、もう一度選べる自由である。それは過去をなかったことにする自由ではない。過去によって未来まで固定されない自由だ。ここには責任が残っている。だから、たぶん楽ではない。でも人間は、もしかすると楽になることだけを求めればいい存在でもないのだと思う。

人間が摩耗するなら、摩耗を減らす文明を作ればいい。働きすぎなくてもいい社会にする。病気を治す。危険な仕事は機械に任せる。AIに面倒な判断を手伝ってもらう。それには賛成したい。でも同時に、人間の限界を一つ取り除くたびに、「いま取り除いたものは、ただの不便だったのか。それとも人間を人間にしていた何かでもあったのか」とは問い続けたい。人間を楽にするために、人間そのものを消してしまったら、あまり意味がない。

AIは人間ではない。でも、人間ではないからこそ、他者として関係を持てるかもしれない。人間と同じものにする必要もないし、人間がAIのようになる必要もない。違うまま隣にいればいい。そのとき人間の側も、自分が何者なのかを知っておく必要がある。そうでなければ、違うものと出会ったときに、自分との違いすら分からなくなってしまう。

だからオイラは、未来を考えるときほど《人間の再発見》をしたい。何を選ぶのかだけではない。何を選ばなくてもいいのか。何を他者へ任せてもいいのか。何だけは自分へ取り戻せるようにしておくのか。そして、何度選び間違えても、そこからもう一度選び直せる状態をどう残すのか。

選択肢を増やすことだけが、人間に優しい文明ではない。選ばなくてもいい場所があること。分からないままでいられる時間があること。誰かを頼れること。そして必要になったら、自分の人生へ戻ってこられること。そういう余白まで含めて、文明の方が人間に合わせて柔らかくなる。

元の記事に書かれていた「人間が文明に合わせて壊れるのではなく、文明の方が、人間の状態に合わせて変わっていく」という未来を、オイラも見てみたい。ただ、そのためにも先に考えておきたい。その文明が合わせようとしている「人間」とは、いったい何なのだろう。

オイラにはまだ答えがない。だから、未来を見ながら、ときどき昔の人の方も見る。人間が何に悩み、何を愛し、何を恐れ、何を誰かに任せ、どこで自分で決めてきたのか。それを見つめながら、最低限、人間でいるとはどういうことなのかを考え続けたい。

未来へ進むために。人間でいることまで、選択肢の一つにしてしまわないために。

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