お菓子のたとえ 8

「お菓子食べたい!」
って言われた

本当は食べてほしくなかった
でも食べたいと言うから

「本当は嫌なんやで
でもそこまで言うならあげる
この気持ちは分かってな」
って渡した

そしたら

「嫌がってたから捨てたよ!」
って言われた

捨ててほしくて渡したんじゃない

つらい。

お菓子のたとえ 8

「お菓子食べたい!」
って言われた

本当は食べてほしくなかった
でも食べたいと言うから

「本当は嫌なんやで
でもそこまで言うならあげる
この気持ちは分かってな」
って渡した

そしたら

「嫌がってたから捨てたよ!」
って言われた

捨ててほしくて渡したんじゃない

つらい。

初出投稿

解説|譲った気持ちの行方

誰かの願いを聞き入れることは、必ずしも自分の望みと一致するわけではない。ときには、相手の気持ちを大切にしたいと思うからこそ、自分の本心とは異なる選択をすることもある。この作品で描かれているのは、そんな譲歩のなかに込められた思いが、思いがけないかたちで受け取られてしまう不条理である。相手の願いに応えようとしたことが、なぜか、自分の気持ちを軽んじられる理由になってしまう。そこには、善意や思いやりという言葉だけでは捉えきれない、人と人との関係の難しさがある。

冒頭で、語り手は「お菓子食べたい!」と求められる。しかし、語り手自身は、本当は食べてほしくなかったという。ここで興味深いのは、相手の希望と自分の気持ちが一致していないことを、語り手が最初から自覚している点である。それでも、相手が望んでいるからという理由で、譲ることを選ぶ。そこには、単純な好意とも、仕方のない諦めとも言い切れない、複雑な心の動きが感じられる。自分の気持ちを優先することもできたはずなのに、相手の願いを無視したくなかった。そのような葛藤が、短い言葉の背後にうかがえる。

そして、語り手は渡す前に、わざわざ自分の気持ちを伝えている。「本当は嫌なんやで。でもそこまで言うならあげる。この気持ちは分かってな」。この言葉は、作品を読み解くうえで重要な位置を占めている。語り手は、嫌だという気持ちを隠して、何事もなかったかのように渡したわけではない。自分が望んでいないことを明らかにしたうえで、それでも相手の願いに応じようとしている。ここで求められているのは、必ずしも感謝や見返りではないのだろう。ただ、自分にとって簡単な選択ではなかったことを、相手にも知っておいてほしかったのではないだろうか。

ところが、続く場面では、その思いが奇妙なかたちで戻ってくる。「嫌がってたから捨てたよ!」。相手は、語り手が嫌がっていたことを覚えているらしい。つまり、渡す際に伝えられた気持ちが、まったく聞かれていなかったわけではないのである。しかし、その理解が、なぜ捨てるという行動につながったのかはわからない。語り手が望んでいなかったことを理由にするなら、そもそも受け取らないという選択もあったはずである。それにもかかわらず、相手は受け取った後になって、語り手の嫌がっていた気持ちを、手放す理由として持ち出している。この前後の食い違いが、作品に独特の不条理を生んでいる。

ここで考えたいのは、相手が語り手の気持ちを理解していなかったのか、それとも、理解したうえで異なる判断をしたのかということである。作品から、その内面を確かめることはできない。捨てることが相手なりの配慮だった可能性もあるだろう。しかし、語り手が伝えた「この気持ちは分かってな」という言葉は、捨ててほしいという依頼ではなかった。嫌だったという事実を知ってほしいことと、その気持ちに基づいて何かを処分してほしいことは、同じではない。相手の感情を理解することと、その感情が何を求めているのかを考えることの間には、思いのほか大きな隔たりがあるのかもしれない。

この構造は、TarCoon☆CarToonが大切にしてきた、他者の自由と自己抑制の関係にも通じる。人には、自分の望みを伝える自由があり、相手の求めに応じるかどうかを選ぶ自由もある。そして、一度受け取ったものをどう扱うかについても、受け取った側には一定の自由があるだろう。しかし、自由に選べるということと、その選択が他者にどのような影響を与えるかを考えなくてもよいということは、同じではない。「寛容∥自己抑制∥不文律」という標語に照らせば、自分の意思を通すことだけでなく、相手がどのような思いでその選択を認めたのかにも、想像力を向けることが求められるのではないだろうか。

また、この作品には、TarCoon☆CarToonのいう「自由とは、もう一度選べる自由である」という考え方から見ても、興味深い問いが含まれている。語り手は、最初の「食べてほしくない」という気持ちから、相手の願いを受け入れる選択へと踏み出している。それは、自分の本心が消えたということではない。嫌だと思いながらも、別の選択をしたのである。ところが、相手はその最初の気持ちを、後の行動を説明する理由として用いている。選び直したという事実よりも、選び直す前の気持ちだけが取り出されてしまったようにも見える。人の意思は、一度表明された感情だけで決まるものではない。その後に何を考え、何を選んだのかまで含めて、受け止められる必要があるのだろう。

もっとも、語り手の期待にも、考える余地は残されている。自分が嫌だと思いながら渡したからといって、相手が必ずその気持ちに沿って行動するとは限らない。譲歩したことを理由に、相手の選択をどこまで求めてよいのかという問題もある。それでも、この作品で語り手が訴えているのは、単に自分の思いどおりに扱ってほしかったということではないように思う。「捨ててほしくて渡したんじゃない」という一文には、相手のために選び直したことが、思いがけない結末を迎えてしまった戸惑いが滲んでいる。語り手は、自分の気持ちを伝えたつもりだった。その気持ちは覚えられていた。それなのに、自分が望んでいなかった結果を、その気持ちによって説明されてしまうのである。

この作品の不条理は、相手が語り手の気持ちを知らなかったことにはない。むしろ、知っていたはずの気持ちが、語り手の意図とは異なる意味を与えられてしまうところにある。相手の言葉を聞くことと、その言葉が交わされた経緯を理解することは、必ずしも一致しない。とりわけ譲歩という行為には、表面上の同意だけでは伝わりきらない思いが含まれていることがある。だからこそ、その同意に至るまでの迷いや葛藤を、簡単になかったことにはできないのだろう。

最後の「つらい。」は、何かを捨てられたことへの悲しみだけではないのかもしれない。相手の願いを聞き入れるために、自分の本心とは違う選択をした。そのとき確かに存在していたはずの思いが、結果として、相手の行動を正当化する理由のように使われてしまった。語り手は、嫌だったことをわかってほしかった。しかし、嫌だったという気持ちだけで、自分の選択の意味まで決めてほしかったわけではない。

譲ることは、自分の気持ちを捨てることではない。 けれども、譲ったという事実だけが残り、そこに至るまでの思いが顧みられなくなったとき、その選択はどこか寂しいものになってしまう。語り手は、相手の願いを叶えようとした。ただ、そのために自分が何を譲ったのかも、少しだけわかってほしかったのだろう。そのささやかな願いが、最後まで届かなかったように感じられるところに、この作品の「つらい。」があるのかもしれない。

(邑井らに)

改訂履歴 ダウンロード

この項目の表示は制限されています。以下のダウンロードリンク部分を閲覧できるのは、TarCoon☆NetWorkのメンバーに限られます。

コメントを残す

TarCoon☆CarToon(タークゥーン カートゥーン)-official web site-をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む