フライヤーは、まだ始まっていない出来事のかけらです。誰かが集まろうとしている夜。まだ聴いたことのない音楽。名前も知らない人が用意した場所。そうした小さな知らせが、一枚の紙になって街を渡っていく。手に取られるものもあれば、誰にも読まれず、壁に残されるものもある。それでも、そこには誰かの活動が確かに存在していました。
フライヤーというと、クラブイベントの告知や、派手なグラフィックデザインを思い浮かべるかもしれません。けれど、その背景には、政治運動のビラ、パンクのDIY精神、レイヴやテクノの地下文化、レコードショップを介した情報の流通、そして街のポスターを剥がして作品に変えた芸術家たちの歴史があります。無料で配られ、やがて捨てられるはずだった紙は、ときに人々を結びつけ、街の記憶となり、さらには値段のついた作品にもなっていきました。
この記事では、2000年代のクラブやレコードショップの壁に広がっていたフライヤーカルチャーを起点に、その歴史と社会的な役割を振り返ります。そして、チラシを貼り、重ね、破り、塗りつぶし、切り出して売るという行為を通じて、文化がどのように生まれ、受け継がれ、別の価値を獲得していくのかを考えます。
入り口の看板が既に面白いよ!マステで留めてるのがいい感じ!@oktoberklub_bar https://t.co/rduzR9RFup
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) October 23, 2026
十月革命の日に開店するバー
2026年11月7日、友達が大阪・弁天町に「Bar Oktoberklub」というバーを開店するらしい。11月7日といえば、1917年のロシア十月革命の日。当時のロシアで使われていた暦では10月25日だったものが、現在の暦では11月7日にあたる。だから「十月革命」なのに11月なのである。
お店の紹介には「本、酒、レコード、電子音楽。1930年代の工場と前衛文化をモチーフにした大阪・弁天町の実験室」と書かれていた。工場と前衛文化という取り合わせも興味深いが、それを「バー」ではなく「実験室」と表現しているところが面白い。本や音楽、お酒を介して、さまざまな人や文化が交わる場所になるのかもしれない。
開店準備の話を聞いていると、内装についても面白い構想を教えてくれた。店の壁一面にチラシやポスターを糊で貼り重ねていくという。しかも、ただ貼るだけではない。破ったり、上からペンキを塗ったり、また別のチラシを重ねたり。そうやって時間をかけて変化していった壁を、定期的に切り出し、作品として販売することも考えているそうだ。まだ具体的な制作方法は決まっていないようだけれど、壁そのものを作品にしてしまうという発想が面白い。
そんな話のなかで、友達から「TarCoon☆CarToonのビラも貼ってもいいですよ!貼りますか?」と言われた。それが、なんだか嬉しかった。そして同時に、ふと思い出した光景があった。2000年代初頭、クラブやレコードショップ、古着屋などの壁を埋め尽くしていた、あの色とりどりのフライヤーたちである。






あの頃、街にはフライヤーがあった

2000年代の初め頃、若者向けのクラブやレコードショップ、古着屋、カフェなどへ行くと、壁一面にイベントのフライヤーが貼られていることがあった。レジの横に大量のフライヤーが積まれていたり、入口の壁に所狭しと貼られていたり。クラブイベント、ライブ、DJパーティー、展覧会、ファッション関係の催し。さまざまな情報が、紙切れになって並んでいた。
フライヤーのデザインも実に多彩だった。派手な色彩や奇妙なタイポグラフィー、写真のコラージュ、意味のわからない図形。イベントの内容よりも、まずデザインの格好よさに目を奪われるものもあった。なかには、何のイベントなのかよくわからないものさえあった。それでも、その紙一枚から、まだ知らない音楽や、知らない人たちの集まりが存在していることを感じ取れた。
オイラもそんなフライヤーに魅了されていた一人で、高校生の頃には友達が開催するDJイベントのフライヤーをPhotoshopで作ったりしていた。街で見かけたものを集めるのも好きで、放送部員でもないのに学校の放送室を勝手にジャックして、集めてきたフライヤーやポスターを壁一面に貼りまくっていた。今思えば、ずいぶん好き勝手なことをしていたものだけれど、街のあちこちで見かけたあの光景を、自分の身近な場所にも作りたかったのかもしれない。
考えてみれば、そうやってオイラが好き勝手に飾った放送室の壁にも、自分の趣味や関心がそのまま表れていたのだと思う。そして、それは街のお店の壁も同じだったのではないだろうか。置いてあるフライヤーは店によって違い、その並び方から、どんな音楽を好み、どんな人たちとつながり、どんなカルチャーを面白がっているのかが、なんとなく伝わってきた。壁に貼られた一枚一枚が、そこに集まる人たちの活動や関係を映し出していたのかもしれない。
当時はそれを当たり前の光景として見ていたけれど、こうして振り返ってみると、あれは単なる広告の掲示ではない、独特な文化だったように思う。では、あのフライヤーカルチャーは、どこからやってきたのだろう。




ビラからフライヤーへ ──自主制作の文化史
フライヤーカルチャーの歴史をたどってみると、1970年代のパンクや、それ以前から存在していた自主制作の印刷文化に行き着く。もちろん、チラシやポスターによる告知そのものは、もっと古くから存在していた。政治運動でも演劇でも商業広告でも、人々は印刷物を使って情報を広めてきた。そのなかで、パンクが特徴的だったのは、自分たちの活動を、自分たちの手で知らせようとするDIY精神だった。
大きなレコード会社や広告代理店に頼らなくても、ライブを企画し、チラシを作り、街に配ることができる。雑誌を切り抜き、写真を貼り合わせ、手書きの文字を添えて、コピー機で複製する。完成度の高い商業デザインでなくても構わない。むしろ、粗さや勢いそのものが表現になっていた。
日本にも、その歴史は残されている。2022年に出版された『CHIRASHI – Tokyo Punk & New Wave ’78-80s』には、1978年以降の日本のパンクやニューウェイヴのチラシが収録されている。当時は「フライヤー」よりも「チラシ」や「ビラ」という呼び方が一般的だったという。そこには、完成された商品としての音楽だけでなく、まだ何者でもない人々が、自分たちの表現を届けようとしていた痕跡がある。
やがて1980年代末から90年代にかけて、アシッドハウスやレイヴ、テクノなどのクラブカルチャーが広がると、フライヤーはその重要な情報媒体となっていった。印刷技術やパソコンの普及によって表現の幅も広がり、手作りのコピーから、鮮やかなグラフィックデザインへと発展していく。しかし、見た目が変わっても、根底には共通する仕組みがあった。自分たちの文化は、自分たちでつくり、自分たちで広める。 フライヤーは、単なる広告物ではなく、小さな活動が社会のなかに存在するための手段でもあったのだ。


ベルリンの壁がなくなったあとに
友達は、壁にチラシを貼る構想について「ベルリンの壁」という言葉を使っていた。調べてみると、この言葉から連想される文化と、クラブのフライヤーカルチャーには、興味深い接点がある。
1989年11月9日、東西ベルリンを隔てていた壁が開放された。その後のベルリンには、使われなくなった建物や工場、倉庫、地下室など、さまざまな空間が残されていた。それらの一部を利用して、若者たちが新しいクラブやパーティーを始める。1990年代のベルリンで、テクノカルチャーが大きく発展していった背景には、こうした都市空間の変化があった。例えば、1991年に開業したクラブ「Tresor」や、1990年代の「E-Werk」などは、既存の建物を転用したベルリンのクラブ文化を象徴する存在として知られている。
では、人々はどこで、そうしたパーティーの情報を手に入れていたのか。そこで活躍したのがフライヤーだった。2018年に公開された『Three Decades of Berlin Club Flyers』では、ベルリンのクラブフライヤーの歴史が紹介されている。1990年代初頭のベルリンでは、レコードショップに大量のフライヤーが置かれ、そこには店員さえ知らないようなクラブやパーティーの情報も含まれていたという。昨日までなかった場所で、今夜パーティーがあるかもしれない。そして、その場所は数か月後には存在しなくなっているかもしれない。そんな流動的な都市のなかで、フライヤーは人々を新しい場所へ導く手がかりになっていた。
一方、ベルリンの街には、ポスターを糊で壁に貼り付ける街頭掲示の文化もあった。英語では「Flyposting」や、糊で貼る技法を指す「Wheatpasting」などの言葉が使われる。店頭で配られるフライヤーと、街の壁に貼り重ねられるポスターは、必ずしも同じものではない。けれど、それらは共に、街の人々へ情報を届けるための方法だった。
ちなみに、東ドイツには実際に「Oktoberklub」という政治歌謡グループも存在した。1966年に生まれた音楽グループが、十月革命50周年にあたる1967年に改称したもので、東ドイツの青年文化や政治活動と深く関係していたという。友達の店名がこの歴史まで意識したものなのかはわからないけれど、なんとも興味深い重なりである。





壁は、街の小さなメディアだった
ここまで歴史を振り返ってみると、フライヤーカルチャーには、もう一つ重要な側面があったことに気づく。それは、情報を発信する人だけでは成立しない文化だったということだ。
誰かがイベントを企画する。チラシを制作する。それをクラブやレコードショップ、古着屋などに持っていく。お店が置いてくれる。訪れた人がそれを見て、興味を持ち、イベントへ足を運ぶ。あるいは、友達に教える。この連鎖によって、文化は広がっていった。
今ならSNSで告知すれば済む話かもしれない。けれど、当時は情報を発信するために、誰かの場所を借りる必要があった。そして、その場所を提供する側にも意思があった。すべての店が、すべてのチラシを置いていたわけではない。そこには店主の好みも、人間関係も、文化的な選択もあったはずだ。だからこそ、フライヤーが並ぶ壁には、その店がどんな活動を紹介し、どんな文化と関係を結んでいるのかが表れていた。壁は広告掲示板であると同時に、街の小さなメディアだったのだと思う。
それぞれに違う活動をしている人たちが、同じ壁の上で隣り合っていた。もちろん、隣り合っているからといって、思想が一致しているわけではない。音楽の趣味も、政治的な立場も、表現の方法も違うかもしれない。それでも、同じ壁に存在することはできる。違うことをしている人たちの活動が、一つの場所に並んで存在している。 オイラには、そんな状態そのものが面白く思える。


貼り重ね、破り、塗りつぶす──デコラージュの美術史
さて、話をBar Oktoberklubの壁に戻そう。友達は、チラシを貼り重ねるだけでなく、破ったり、上からペンキを塗ったりして、やがて壁の一部を作品として販売することを考えているらしい。この構想を聞いて思い浮かぶのが、美術史における「デコラージュ(Décollage)」という表現である。
デコラージュとは、貼る、組み合わせるという意味を持つコラージュに対して、剥がす、破る、取り除くといった行為から作品を生み出す表現だ。1950年代のパリでは、ジャック・ヴィルグレやレイモン・アンスらが、街頭に貼り重ねられた広告ポスターに着目していた。街のポスターは、時間が経つと破れたり、雨風で傷んだり、新しい広告が上から貼られたりする。そうして偶然生まれた紙の重なりや色彩を、彼らは美術作品として見いだした。イタリアのミンモ・ロテッラも、街の壁から広告ポスターを剥がし、さらに破り、木の板などの支持体に貼り付ける作品を制作していた。
興味深いのは、そこに一人の作家が最初から描いた絵とは違う性質があることだ。ポスターを制作した人がいる。掲示した人がいる。上から新しいポスターを貼った人がいる。誰かが破ったかもしれないし、自然に破れたのかもしれない。そうして幾重にも重なったものを、作家が見つけ出し、切り取り、新しい作品として提示する。街にあった広告が、本来の意味から離れて、別の価値を持ち始めるのである。
もちろん、この美術史がクラブのフライヤーカルチャーの直接的な起源だったというわけではない。しかし、街に蓄積された印刷物を、新しい表現へと変えていくという点では、確かに共通するものがある。Bar Oktoberklubの場合は、さらに少し違う。すでに存在する壁を見つけるのではなく、チラシが貼られ、破られ、塗り重ねられていく場所を、最初から用意するのである。つまり、完成した作品を壁に飾るのではない。壁そのものが、時間をかけて制作される作品になる。





広告だったものが、作品として売られる
そして、ここからがさらに面白い。友達は、その壁を定期的に切り出して販売するつもりらしい。
最初は誰かのイベントを宣伝するためのチラシだった。そこに別のチラシが重なり、破れ、ペンキで塗りつぶされる。もともと書かれていたイベントの日時や場所は、もう読めなくなっているかもしれない。それでも、その紙は消えてなくなるわけではない。別の表現の一部となって、そこに残り続ける。そして、ある時点で壁から切り出され、一つの作品として独立する。無料で配られていたチラシに、新しい値段がつくわけだ。
もちろん、チラシも最初から経済と無関係だったわけではない。印刷費もかかれば、広告によって集客し、収益を得ることもある。けれど、宣伝の役割を終えた印刷物が、今度はそれ自体を所有するためにお金を払う対象になるという変化は、なかなか興味深い。そこでは、一体何に価値が生まれているのだろう。チラシのデザインだろうか。重ねられた紙の質感や、偶然生まれた色彩だろうか。それとも、その壁に参加した人たちの活動や、積み重なった時間だろうか。
そして、誰の作品なのだろう。チラシを作った人、場所を提供した店主、壁に手を加えた人。さまざまな人の行為が関わっている。無論、作品として成立させるために、切り取る場所を選び、構成を判断する店主の創作性も重要だろう。ただし、他人のチラシを加工して販売するのであれば、掲示することと作品の素材にすることの違いについて、事前に共有しておく必要もあると思う。
これは文化を商業化することが悪い、という話ではない。むしろオイラは、文化が経済活動になること自体を否定したくない。文化を続けるためには、お金も場所も必要だからだ。大事なのは、その価値がどのように生まれ、誰とどんな関係を結び、そこで生じる責任をどう引き受けるのか、ということなのだと思う。
文化を商品にすることで、活動を続けるためのお金が生まれることもある。商品として誰かの手に渡ることで、もともと存在していた場所とは違うところへ、文化が運ばれていくこともある。そして、切り出された壁のあとには、また新しいチラシが貼られるのかもしれない。そう考えると、壁を売ることは、必ずしもその壁の文化を終わらせることではない。誰かが関わった時間の一部を、別の誰かへ受け渡すことにもなるのではないだろうか。
その壁の片隅に、オイラのビラも
こうしてフライヤーカルチャーの歴史を振り返ってみると、友達から「TarCoon☆CarToonのビラも貼っていいですよ!貼りますか?」と言われて嬉しかった理由が、少しわかったような気がする。それは、単に宣伝する場所をもらえたからではなかったのかもしれない。これから友達がつくろうとしている場所に、オイラの活動も参加していいと言ってもらえたこと。
その場所には、オイラとは違う音楽を聴き、違う思想を持ち、違う活動をしている人たちのビラも貼られるのだろう。それぞれの活動が、同じ壁の上で隣り合う。やがて新しいビラが貼られ、古いものが破られ、上からペンキが塗られる。オイラのビラも、いつか何が書かれていたのかわからなくなるかもしれない。それでも構わない。むしろ、そうやって他人の活動と重なり合い、最初の姿から変わっていくことに、面白さを感じる。
2000年代、クラブやレコードショップの壁に並んでいたフライヤーは、誰かのイベントに人を集めるためのものだった。しかし、あの壁には、告知されたイベント以上のものがあったのだと思う。そこに集まった人たちが、何を面白がり、何を作り、誰と関係を結んでいたのか。その痕跡が、紙となって残されていた。
Bar Oktoberklubの壁も、これからどんな姿になるのかわからない。どんなビラが貼られ、誰が手を加え、どんな作品が生まれるのだろう。そして、いつか切り出されたその壁が、まったく知らない誰かの手に渡るのかもしれない。
壁は、何かを隔てるためだけにあるのではない。違う人たちの活動を、隣り合わせに置くこともできる。
そんな壁が、これから新しく生まれようとしている。11月7日、Bar Oktoberklubの開店が楽しみだ。そして、オイラのビラも、その壁の片隅に貼ってもらえたら嬉しい。
TarCoon☆CarToonがあなたを見守っている。 https://t.co/u4zkMMMVl4
— TarCoon☆CarToon (@TKMS_all4A) April 15, 2022
参考資料
- 『CHIRASHI – Tokyo Punk & New Wave ’78-80s』 — 日本のパンク、ニューウェイヴのチラシ文化
- Red Bull Music Academy『Three Decades of Berlin Club Flyers』 — ベルリンにおけるクラブフライヤーの歴史
- Berlin.de『Berlin Club Culture』 — ベルリンのクラブ文化
- National Galleries of Scotland『Décollage』 — デコラージュの美術史
- Mimmo Rotella Institute『Décollage』 — ロテッラの技法と使用素材
- Deutschlandfunk『Das erste Festival des politischen Liedes in Ost-Berlin』 — 東ドイツのOktoberklubの歴史
Bar Oktoberklub


Bar Oktoberklub
本、酒、レコード、電子音楽。1930年代の工場と前衛文化をモチーフにした大阪・弁天町の実験室
| 住所 | 〒552-0001 大阪府大阪市港区波除3丁目1−16 スイングプラザ弁天 4階 |
|---|---|
| 交通手段 | 大阪メトロ中央線「弁天町駅」より東へ120m 4番出口から 徒歩2分 JR西日本 環状線「弁天町駅」より東へ120m 南口から 徒歩2分 |
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