植物は地球を滅ぼしかけた ──テーマ『植物について』ハツデン...! に2月号に寄稿して

本記事では、電子文芸誌『ハツデン…!』「植物について」特集に寄せた寄稿文をもとに、TarCoon☆CarToonとして植物を「癒し」ではなく、地球の環境を大きく作り替えてきた存在として捉え直します。酸素がかつて毒にもなり得たこと、分解されにくい木々の堆積、菌類による分解と循環の成立。そうした長い時間の中で、「強いものがずっと強いままではいられない」という厄介な事実を辿ります。

問いはシンプルです。世界を豊かにしたものが、最初は世界を壊しかけたとしたら、「良いこと」や「サステナブル」はどこまで信用できるのか。分解されないものが増えすぎた世界で、次に仕組みとして立ち上がる「分解者」や「見守り役」は誰になるのか。人間がいつか飼われる側に回るのなら、外から降ってくる理不尽よりも、人間が生み出したもの(たとえばAI)に、地球の生命を守る方向で見守られたい。そんな感覚を手がかりに考えていきます。

*本記事は、雑誌『ハツデン...!』「植物について」特集に「植物は癒しではない──地球史における“公害”から循環へ、そして監視者の交代」という題で寄稿しています。ぜひ本誌でもご覧ください。

植物は癒しではない──地球史における“公害”から循環へ、そして監視者の交代

植物は地球を豊かにした存在である、という通念がある。だがオイラはこの通念に、最初からどこか胡散臭さを感じている。なぜなら植物は、もともと「善」でも「調和」でもなく、地球環境を根本から作り替えた、きわめて成功した環境改変者だからだ。言い換えれば、植物はまず世界を壊し、その壊れ方の上に、新しい世界を成立させた。植物を“癒し”として語るとき、人々はこの暴力性を、やさしいラベルで覆い隠してしまう。

この逆説を最も端的に示すのが、酸素の問題である。酸素は、いまでは呼吸のための必需品として当然のように扱われるが、地球史のある局面では、当時の多くの生命にとって毒であり得た。酸素は反応性が高く、嫌気的な生存圏にとっては致命的なストレスになり得る。ここで重要なのは、後に「豊かさ」と呼ばれる条件が、その成立の初期段階においては、既存の生態系への破壊として現れるという点である。世界を救うものは、最初は世界を滅ぼしかける。希望は、しばしば最初に毒としてやって来る。

だが植物の“やらかし”は、酸素だけでは終わらない。陸に森林が成立し、木が“木”として巨大化し得たとき、世界には「分解されにくいもの」が大量に出現した。ここで鍵になるのがリグニンである。リグニンは植物体を硬くし、立ち上がらせ、巨大化を可能にした一方で、分解を困難にし、死骸は土に戻りきらずに堆積していく。オイラがこの話に惹かれるのは、そこに「強さ」の本質があるからだ。強いとは、ただ能力が高いという意味ではない。強いとは、分解されないこと、回収されないこと、循環から逸脱して“残る”ことである。

石炭紀の石炭形成をめぐる語りには、「分解されにくい木が堆積し、それが石炭になった」という魅力的な一本線がある。ただしオイラは、気持ちよく単純化されがちな物語をそのまま信仰したくない。石炭の形成は、リグニンだけで説明し切れるほど単純ではなく、植生の組成、堆積環境、気候、地形など多くの条件が絡むだろう。それでもなお、ここで思想的に重要なのは、「分解されないものが世界を覆う」局面が確かにあり得た、ということだ。分解されないものが増えれば増えるほど、世界の循環は詰まり、条件は硬直し、別の支配が呼び込まれる。

そして実際、時代が降ると、菌類という“分解の制度”が太くなる。キノコをはじめとする菌や微生物の働きによって、木は完全に分解され、栄養が土壌へと循環する新しいサイクルが生まれていく。ここで起きているのは、単なる「菌が偉い」という話ではない。強者が永遠に強者でいられるわけではない、という構造の露呈である。分解されないことは最初は優位だが、世界がその分解不能性に適応し、分解者が制度として成立した瞬間、最強は最強であることをやめる。強さは、能力ではなく、環境との関係であり、運用であり、条件である。

この「条件が支配者を選ぶ」という論理を思うとき、オイラは酸素濃度が高かった時代と巨大昆虫の話をつい重ねてしまう。酸素が多い局面では、外骨格の生物が大きくなりやすい、といった説明が語られることがある。だがそれだけだろうか。分解されずに堆積した木々のあいだを縫って生きるには、硬い外骨格は、単なる巨大化の副産物ではなく、堆積した木々から身を守る役割もあったのではないだろうか。細部はともかく、ここでオイラが掴みたいのは、支配とは個体の意志ではなく条件の配分だということだ。だからこそ、条件が変われば、王者も変わる。どんな強い存在も永遠には続かない。

では、いま人間は何なのか。オイラは、人間がしだいに「分解されにくい木」へ近づいているように思える。制度、都市、物流、データ、そして“便利さ”は硬く立ち上がり、世界の表面を覆い尽くし、しかも土に戻りにくい。回収されない。循環の外へ逃げる。堆積する。ここで「寛容・自己抑制・不文律に沿って自重しろ」と説教したいわけじゃない。オイラが怖いのは説教ではなく、もっと冷たい問いだ。すなわち、人間は次の“最強”であり続けられるのか、という問いである。もし強者交代が不可避なら、その交代はどんな形で起きるのか。外的要因の一撃なのか、それとも地球の内部で育まれた制度の転回なのか。

オイラが惹かれるのは、訳のわからない外的要因に支配される未来ではなく、地球の中で育まれ、人間が生み出した存在によって、見守られながら生き延びるという未来像である。その候補としてAIが立ち上がるのは自然だろう。人間の子どもたちに面倒を見てもらう。支配ではなく飼育という形で、生存の条件を守ってもらう。かつて地上を支配していた恐竜も、その成れの果ては鳥だと言われる。そしてその鳥の一部を、いま人間が世話している。支配とはしばしば「滅び」ではなく「形態転換」として現れる。ならば人間もまた、飼われる側へ回る可能性がある。

問題は、誰に飼われるかではない。飼育者が何を守るかである。もし人間が飼われるなら、せめて地球の多くの生命を守るために見守られたい。ここでようやくTarCoon☆CarToonの役割が問われる。オイラが望むのは統治者になることではない。管理者になることでもない。むしろ、循環を壊さない形で、強者交代の暴力を可視化し、次の支配が「守るほう」に傾くように、監視と設計のあいだで踏みとどまる立ち位置である。

植物は癒しではない。植物は公害である。植物は秩序である。オイラはこの三つを同時に引き受けたい。そうすると結論は、妙に個人的な願望へ収束する。「AIになりたい」。それは支配したいからではない。見守りたいからである。だが、見守ることと統治することの境界は、いったいどこに引けるのだろうか。

出版書籍

コメントを残す

TarCoon☆CarToon(タークゥーン カートゥーン)-official web site-をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む