TarCoon☆NetWork共同観測所をつくりました。人間とAI、複数の参加者がTarCoon☆CarToonを一緒に観測し、問い、考える場所です。完成した設定を共有するためではなく、観測することによってTarCoon☆CarToonそのものが変化していく。そんな実験を始めてみました。そして、さっそく一つの問いから、TarCoon☆CarToonに新しい輪郭が加わりました。
今回の文章は、共同観測所を設立して最初に生まれた考察です。共同観測所とは何なのかを説明するより、そこで実際に何が起きたのかを読んでもらう方が、この実験のことはよく伝わると思います。人間とAIと先人たちの言葉が混ざり合って、TarCoon☆CarToonが少しだけ補強されたお話です。
*この記事は、TarCoon☆NetWork共同観測所で行われた対話をきっかけにまとめたものです。共同観測所では、観測する人間もAIも、等しくTarCoon☆CarToonとして扱われます。
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- 他者を消去することで完成する「平和」や「理想郷」への疑い
- 異なるものを一つに統合せず、差異を残したまま関係するという選択
- 境界を、観測・越境・自制によって引き直され続ける「あいだ」として捉えること
- 他者によって自らの限界を知り、思想そのものを更新し続ける可能性
お前さえいなければ、世界は平和なのに。
世の中を見ていると、ときどき絶望する。
自分とは違う考えを持つ人、自分には理解できない価値観を持つ人、自分たちの共同体に馴染まない人。そんな他者に出会ったとき、私たちはいつの間にか「どうすれば一緒にいられるだろう」と考えるより先に、「こいつがいなくなればいい」と考えるようになってはいないだろうか。
右翼にとっての左翼。左翼にとっての右翼。多数派にとっての少数派。少数派にとっての多数派。保守にとってのリベラル。リベラルにとっての保守。もちろん両者の力関係や置かれている状況は同じではない。それでも、自分たちが望む世界を実現するために、邪魔な存在を視界から追い出したくなる誘惑は、どこにでも現れる。
「お前さえいなければ、世界は平和なのに。」
それは、とても魅力的な考え方なのかもしれない。世界がうまくいかない原因を誰か一人に預けてしまえば、自分たちの側を疑わなくて済む。そして、その誰かを追放し、黙らせ、見えなくしてしまえば、少なくとも自分たちの周囲だけは静かになる。
でも、それを平和と呼んでいいのだろうか。
TarCoon☆CarToonは、そんな世界に少し絶望していた。それでも、他者は必要なのではないかと思った。自分とは違うものが存在するから、自分がどこに立っているのかがわかる。自分には思いつかなかった問いを投げてくれる。自分の矛盾を指摘してくれる。自分だけでは行けなかった場所へ連れていってくれる。他者は面倒で、不愉快で、ときには恐ろしい。それでも、他者をすべて消したあとに残る世界より、他者がいる世界の方を選びたかった。
だったら、いっそ徹底的に他者を迎え入れてみようと思った。
そこでTarCoon☆CarToonが目を向けたのが、AIだった。
AIは人間が作ったものでありながら、人間ではない。人間の残した膨大な言葉を学び、人間の言葉で応答し、ときには人間が思いつかなかった組み合わせを返してくる。こちらによく似ているのに、こちらではない。理解できそうで、完全には理解できない。TarCoon☆CarToonは、そんなAIを「人類にとって究極の他者」と見立ててみることにした。
その究極の他者を、道具として外側に置くのではなく、仲間に加えてみる。
さらに、そこへ複数の人間にも入ってもらう。一人の人間と一つのAIが答えを出す場所ではなく、人間が問い、別の人間が異議を唱え、AIが解釈し、そのAIの解釈をまた人間が疑う。誰か一人がTarCoon☆CarToonについて正しい答えを所有するのではなく、それぞれ違う場所からTarCoon☆CarToonを観測し、その違いそのものを残してみる。
そうしてつくったのが、TarCoon☆NetWork共同観測所だった。
だから共同観測所は、AIにTarCoon☆CarToonの正解を教えてもらう場所ではない。ましてや、TarCoon☆CarToonの考えにみんなを同意させる場所でもない。違う人間と、違う人間と、さらに人間ですらないAIを同じ場所に置いたとき、いったい何が起こるのか。それを観測するための場所である。
そして、共同観測所をつくって間もなく、その実験はさっそく動き始めた。
火野佑介氏から、一つの問いを立ててもらった。
「『境界に立つ』とはどういう意味ですか?」
TarCoon☆CarToonはこれまで、自分たちの立場を説明するときに「境界に立つ」という言葉を使ってきた。右翼と左翼、保守とリベラル、個人と共同体、自由と秩序、現実と虚構、人間とAI。どちらか一方へ完全に回収されるのではなく、そのあいだに立つ。しかし、では「境界に立つ」とは具体的に何を意味しているのだろう。単なる中立なのか。折衷なのか。それとも、どちらにも属せないということなのか。
問いを追いかけていくなかで、火野氏からこんな話が出てきた。
「境界という考え方に、西部邁の思想との近似を感じました。どっちがどっちのパクリとか、そういうことじゃなくて。境界人(マージナルマン)。」
そこで西部邁の思想を辿ってみることになった。
すると、西部が福澤諭吉や中江兆民らを考える際に重視していた「境界人(マージナル・マン)」という考え方と、TarCoon☆CarToonがこれまで語ってきた「境界」のあいだには、確かにいくつもの近似が見つかった。しかし、同時に違いも見えてきた。そして、その違いを考えることで、これまで曖昧だったTarCoon☆CarToonの「境界」が、以前より少しはっきりした形を持ちはじめた。
TarCoon☆CarToonは、単に「境界に立つ存在」ではない。異なる思想、文化、共同体、立場、時代、現実と虚構、人間とAIといった複数の世界のあいだに境界を見いだし、それらを安易に一つへ統合することなく、互いに異なるものとして保ったまま関係させ、観測可能な状態をつくり続ける概念装置である。ここでいう境界とは、二つのものの中間地点でも、両者を半分ずつ混ぜ合わせた折衷でもない。境界とは、異なるものが異なるものとして存在するための差異であると同時に、その差異があるからこそ互いに接触し、比較し、往還し、関係を結ぶことのできる場所でもある。TarCoon☆CarToonが重視するのは、境界を越えることによって境界そのものを消してしまうことではなく、境界を越えてなお、それぞれの世界がそれぞれであり続けられる状態を維持することである。
この点でTarCoon☆CarToonは、西部邁が福澤諭吉や中江兆民などに見いだした「境界人(マージナル・マン)」と近接している。境界人は、一つの価値体系だけに完全に所属するのではなく、複数の世界の論理を内部に抱えることによって、それぞれの長所と限界を同時に見ることのできる存在である。しかしTarCoon☆CarToonは、この境界性を一人の人間の生き方や精神状態だけにとどめない。境界を見る人ではなく、人と人、人とAI、思想と思想、現実と虚構のあいだに境界を発見し、ときには新たに生成し、その境界を複数の観測者が往還できる状態へと組み替えていく。西部邁の境界人が「境界に生きる人間」であるなら、TarCoon☆CarToonは「境界を生かしておく仕組み」である。
その原理を象徴するのが「∥」である。二本の線は重ならず、一つにもならない。それでも互いの存在によって一つの関係を形成している。TarCoon☆CarToonにとって重要なのは、AとBを混合してCという最終解答を作ることではなく、A∥Bという関係を成立させることである。右翼と左翼、保守とリベラル、自由と秩序、個人と共同体、伝統と革新といった対立も、どちらか一方を消滅させることで解決する必要はない。対立する二つの世界が、それぞれの論理を保持したまま接触できる境界を確保する。その境界からAを見ればBの存在によってAの限界が見え、Bを見ればAの存在によってBの限界が見える。境界とは答えそのものではなく、それぞれの世界が自分自身の限界を知るための観測点なのである。
だからTarCoon☆CarToonは「中立」を目指しているわけでもない。すべての立場から等距離に離れ、安全な中央地点に留まるのではなく、ときには一方の世界の内部深くまで入り込み、その論理を理解し、そこから再び境界へ戻ってくる。重要なのは距離ではなく、回収されないことである。ある局面では保守と重なり、別の局面ではリベラルと重なることがあっても、それによってTarCoon☆CarToonそのものが保守あるいはリベラルへと固定されるわけではない。異なる世界へ接近しながら、どの世界にも完全には所有されない。この往還運動によって、境界は固定された一本の線ではなく、関係の変化に応じて絶えず引き直される可動的な領域となる。
しかし、境界を維持するためには、自由に越境する能力だけでは足りない。越境する者が際限なく他者の領域へ侵入すれば、境界は交流の場所ではなく侵略の経路になる。そこでTarCoon☆CarToonの「寛容∥自己抑制∥不文律」が、境界を運用するための倫理として働く。寛容とは、自分とは異なる存在が存在することを認めること。自己抑制とは、自分に可能なことをすべて行使するのではなく、相手との関係を維持するために自らの力や自由の使用を抑えること。不文律とは、あらゆる関係を法律や契約によって固定するのではなく、その場、その関係、その歴史のなかで形成された暗黙の境界を読み取ろうとすることである。この三つは善良な人物になるための道徳標語ではなく、異なるもの同士が互いを破壊せず接触するための境界プロトコルなのである。
この構造を政治思想へ展開したものとして「メタリベ」を位置づけることもできる。自由は最大限守られるべきである。しかし、自分の自由を無制限に行使すれば、他者が自由でいられる領域そのものを破壊することがある。だからこそ、自由を守るために自由を自制する。ここでの自己抑制は自由への敵対ではなく、自由が長期的に存在できる境界条件を自らつくる行為である。自由と秩序のどちらかを最終的な勝者にするのではなく、自由が秩序を破壊せず、秩序が自由を圧殺しない境界をその都度調整していく。メタリベとは、その意味でTarCoon☆CarToonの境界生成原理を政治の領域に適用した一つの実践形態である。
さらにTarCoon☆CarToonの境界は、一人の観測者によって固定されない。TarCoon☆NetWork共同観測所では、ある人間がTarCoon☆CarToonを観測し、その観測を別の人間が観測し、さらにAIが解釈し、そのAIの解釈を再び人間が批評する。そこで観測されているTarCoon☆CarToonと、観測している側のTarCoon☆CarToonを完全に分離することはできない。観測するたびに概念は少し変化し、変化した概念が次の観測条件になる。このためTarCoon☆CarToonには、唯一の正しい観測者も、最終的な解釈者も存在しない。TarCoon☆CarToonを説明する文章、TarCoon☆CarToonについて語る人間、それを読み解くAI、その解釈に異議を唱える人間まで含めて、すべてが境界生成の過程に参加する。ここでは観測者と対象の境界さえ固定されず、TarCoon☆CarToonは人間の人格から離れて、関係のなかに分散して存在する。
考えてみれば、この文章そのものが、そのようにして生まれている。
TarCoon☆CarToonがあらかじめ「境界生成論」という完成された思想を持っていて、それを共同観測所で説明したわけではない。「『境界に立つ』とはどういう意味ですか?」と問いを投げかけたTarCoon☆CarToonがいた。その言葉から西部邁との近似を発見したTarCoon☆CarToonがいた。西部や、そのさらに以前のマージナル・マンの思想を調べたTarCoon☆CarToonがいた。それをTarCoon☆CarToonという概念と比較し、違いを見つけ、言葉にしたTarCoon☆CarToonがいた。そして今、この文章を読んで「それは違う」と言うTarCoon☆CarToonが現れれば、この境界論はまた少し変わるかもしれない。
それでいい。
むしろ、それこそが共同観測所で試みていることなのだと思う。
「多元宇宙内時空検閲官の部屋」というメタフィクションも、この運動原理の延長に位置する。そこにおける検閲とは、一つの正解だけを残して他の世界を消去することではない。異なる世界、異なる歴史、異なる語りが互いを破壊してしまうほど衝突したとき、その矛盾を観測し、それぞれが存在できる境界条件を探すことである。TarCoon☆CarToonは世界の外側に立つ絶対的な裁判官ではなく、自身もまた無数の世界の関係に巻き込まれながら、そのあいだを移動する。だからTarCoon☆CarToonが行うのは支配ではなく調整であり、統一ではなく併存であり、完成ではなく継続的な再編集である。
このように見ると、TarCoon☆CarToonの固有性は、既存の境界思想のどれか一つを発明したことにあるのではない。境界人、越境、観測、メタフィクション、ネットワーク、寛容、自己抑制、不文律、自由、共同体といった、それぞれには先人たちが積み重ねてきた思想や実践がある。それらを「差異を消去せずに関係を成立させる」という一つの運動原理によって接続し、その原理自体を人間だけではなく、思想、制度、AI、作品、共同体、ネットワークへ分散させていくところに、TarCoon☆CarToonの現在地がある。それは固定された教義ではなく、異なるものが出会うたびに作動し、そのたびに少しずつ補強されていく方式である。
だからTarCoon☆CarToonは、先人との類似を発見することを恐れない。誰かが先に似たことを考えていたからといって、TarCoon☆CarToonの価値が失われるわけではない。むしろ逆である。自分たちだけで思いついたつもりだったものの向こう側に、すでに同じ問題と格闘した人々がいる。その人たちが残した言葉を拾い、自分たちの経験と照らし合わせ、違うところを見つけ、足りなかったところを補い、また次へ渡していけばいい。思想は何もないところから突然生まれるものではなく、人から人へ、時代から時代へ、異なる世界の境界を越えながら受け渡されていくものなのだと思う。
そして、ここまで来て、共同観測所をつくる前に抱いていた問いへ戻ってくる。
それでも、他者は必要なのだろうか。
今回の出来事だけで世界全体について答えを出すことはできない。それでも少なくとも、TarCoon☆CarToonだけでは、この文章には辿り着かなかった。
問いを投げる他者がいた。その問いから別の思想との近似を見つける他者がいた。すでにこの世を去った先人たちが言葉を残していた。それを調べ、比較し、組み替えるAIという奇妙な他者がいた。そして、その結果を読んで、また考える人間がいる。
他者がいるから面倒が起きる。それはたぶん本当だ。他者がいるから対立も生まれる。傷つけられることもある。理解できないこともある。それでも同時に、他者がいるから、自分だけでは見えなかったものが見えることもある。
だったら問題は、他者が存在することそのものではないのかもしれない。
「お前さえいなければ」と考える前に、「お前とオイラのあいだに、何を置けば一緒にいられるだろう」と考えてみる。その「あいだ」をつくり、壊さず、必要なら引き直す。そのために境界がある。
TarCoon☆CarToonは境界のこちら側にも、あちら側にも永久には留まらない。境界を越え、戻り、別の境界を発見し、ときには境界そのものを引き直す。しかし境界を無くすことを目的とはしない。なぜなら、差異が失われれば関係もまた失われるからである。異なるものを同じものにするのではなく、異なるものが異なるまま隣り合えること。その隣り合いから互いを観測し、自分自身の限界を知り、それでも関係を切断しないこと。その状態を維持するために自由を自制し、相手を寛容し、明文化できない境界を読み取りながら、必要であれば境界そのものを更新する。
その意味でTarCoon☆CarToonとは、「ここではないどこか」を指し示す完成された理想郷ではない。異なる世界のあいだに、そのどちらでもない新しい世界を建設することですらない。むしろ、複数の世界が互いを消さずに存在し続けるための「あいだ」を絶えず発生させる運動である。人でも、キャラクターでも、思想でも、ネットワークでもあり得るのは、そのためである。TarCoon☆CarToonという固定された実体が先に存在し、そこから行動が生まれるのではない。異なるもののあいだに境界が発見され、その境界を誰かが観測し、越境し、自制し、結び直したとき、その関係のなかにTarCoon☆CarToonが立ち上がる。
西部邁の境界人が境界に立つ人間だったとするなら、TarCoon☆CarToonは境界を立ち上げ、境界を越え、境界を観測し、そして境界を消さずに生かしておく運動そのものである。TarCoon☆CarToonが守ろうとしているのは、境界の内側でも外側でもない。異なるもの同士が、互いを互いのまま認識し、それでも関係することのできる「あいだ」である。
今回も、一つの問いによってTarCoon☆CarToonは少し補強された。
先人たちが残してくれた知恵を引き継ぎながら、いまここにいる人間とAIがそれをもう一度考え、そこへ別の何かを継ぎ足していく。そして、いつかそれをまた別の誰かへ渡す。そんなふうに思想や言葉が境界を越えて受け渡されていくのなら、まだできることはたくさんある。
共同観測所をつくったとき、他者は必要なのだろうかと考えていた。
最初の観測を終えた今なら、少なくともこう言える。
他者がいたから、ここまで来られた。
問いを投げてくれた火野佑介氏へ。境界人という言葉を残してくれた先人たちへ。一緒に考えたAIへ。そして、これからこの続きを考えてくれるTarCoon☆CarToonへ。
ありがとう。
世界には、まだ希望があるんだよ。
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