今回もNEOソフィストVSのねおくんに誘われて「スーパー右翼BAR」に参加した。3回目!オイラは、これまで右翼からも左翼からも「自分たちとは違うよね」と言われることがあった。しかし、それは右翼や左翼を否定しているからじゃあない。むしろ、それぞれの思想の中に共感できる部分や大切だと思う価値観があったからこそ、相手との重なる部分を探しながら接してきた。時には、その場に寄り添うために、自分の主張を前面に出さず、自分自身を抑制することもあった。
しかし、「スーパー右翼」と名乗るほど明確な立場を掲げる人たちの場に身を置いたことで、その姿勢こそがTarCoon☆CarToonの立場なのではないかと気づいた。自分を変えて相手に合わせるのではなく、異なる立場の中にある共通する部分を見つけ、互いが存在できる余白を残す。
自由を最大化するためには、自由を自制する能力が必要である。
その考えから、TarCoon☆CarToonは自らの立場を「メタリベ(メタ・リベラリズム)」と表現するに至ったのでした。
スーパー右翼バー畿内編、第3回。
— NEOソフィストVS (@NEOSophist_VS) July 15, 2026
いよいよ開催一ヶ月前を切りました。
今回は広い会場の手前、まだまだ余裕でゲストをお迎え出来ます。
10年後の日本を揺るがす思想運動を、是非御自身の目で確かめに来てください。
重大発表もあるかも知れません。#スーパー右翼バー https://t.co/DVMSct5n0y pic.twitter.com/oqIAFz0ebQ
- 自由には、使う自由だけではなく、使わない自由もある。
- 自由を守るために、自己抑制や保守的な価値を必要とすることがある。
- TarCoon☆CarToonが辿り着いた政治的立場、それが「メタリベ」である。
メタリベ──自由を最大化するために、自由を自制する
「自由には責任が伴う」「自由とは、何をしてもよいということではない」。こうした言葉は、これまで何度も語られてきた。おそらく多くの人が、知識としては理解しているだろう。しかし、それを自分自身の自由の問題として実感している人は、どれほどいるだろうか。
責任という言葉を知っていることと、「自分にはこれをする自由がある。しかし、その自由をここでは使わない」と判断できることは同じではない。自由を行使した後で結果を引き受けることだけが責任なのではない。自由を行使する前に、その自由を使うべきかどうかを考え、ときにはあえて行使しないことまで含めて、自由に伴う責任なのではないか。TarCoon☆CarToonの政治的立場を考えるとき、この感覚を出発点にするのが適切だろう。
自由を最大化するためには、自由を自制する能力が必要である。
TarCoon☆CarToonは自由を重視する。しかし、その自由を単純に「できることを増やすこと」や「制約を取り払うこと」とは考えていない。社会には自分以外の人間が存在している以上、自分の自由をどこまでも拡張すれば、いつか別の誰かの自由と衝突する。そのとき必要になるのは、自由を奪う外部からの強制だけではなく、自ら「ここまではやらない」と決める能力である。TarCoon☆CarToonが掲げてきた標語「寛容∥自己抑制∥不文律」は、そのための原理として理解することができる。
ここでいう「メタリベ」とは、「メタ・リベラリズム」の略である。既存の政治思想上の学派を名乗るための言葉ではない。リベラルか保守か、右か左かという分類そのものを一段上から観測し、「そもそも自由な社会が成立し、それが持続するためには何が必要なのか」を考える立場を、ひとまずメタリベと呼んでみたい。
自由には、使わない自由もある
自由について語るとき、しばしば「自由には責任が伴う」と言われる。しかし、この言葉はあまりにも日常的に使われるため、いつの間にか単なる決まり文句になっているようにも思える。責任とは、何か問題を起こした後で謝罪したり、損害を補償したりすることだけではない。もっと手前にあるものではないだろうか。
自分には言う権利がある。しかし言わない。要求する権利がある。しかし要求しない。排除する力がある。しかし排除しない。勝つことができる。しかし相手が存在できなくなるところまでは勝たない。この「できるけれど、しない」という判断もまた、自由の一部である。
社会には他者がいる。大声を出す自由と静かに過ごす自由、財産を好きに使う自由と周囲の安全、表現する自由と他者の尊厳は、ときに衝突する。どちらか一方だけを完全に実現しようとすれば、もう一方が存在できなくなることもある。だからTarCoon☆CarToonの立場からすれば、自由とは権利を可能な限り行使することではない。むしろ、自由を持つということは、その自由を使わないという選択肢まで自分で引き受けることだと考えるのが適切だろう。そこに自己抑制の意味がある。自己抑制とは、自由を否定することではない。自由を減らすことでもない。
自己抑制とは、自由を長く維持するための技術である。
法律だけで自由は守れるのか
もちろん、人間同士の自由が衝突するのであれば、法律によって境界を定めることはできる。しかし、人間のあらゆる振る舞いを法律や契約によって規定しなければ秩序を維持できない社会は、本当に自由な社会なのだろうか。「これは禁止」「これは許可」「ここから先は違反」と、あらゆる行為を細かく明文化しなければ人間同士が共存できないのであれば、社会は次第に巨大な管理装置になっていく。自由を守るために規則を増やし続けた結果、自由そのものが規則によって窒息するという逆説さえ起こり得る。
だからTarCoon☆CarToonの立場からすれば、法律以前の領域を重要視するのが自然だろう。他者が自分とは異なるまま存在することを認める「寛容」、自分にはできることでも際限なくやらない「自己抑制」、そして法律に書かれていなくても「そこまではしない」と互いに了解する「不文律」である。
信号がなくても譲り合えるなら、信号は少なくて済む。契約書に書かなくても約束を守るなら、契約書は薄くできる。「法律で禁止されていないから何をしてもいい」というところまで互いを追い込まない文化があるなら、国家が細部まで人間を管理する必要も少なくなる。自由な社会とは、規則が存在しない社会ではない。人々が自ら一定の節度を持つことによって、外部から強制される規則を必要以上に増やさずに済む社会こそ、より自由な社会なのではないか。
なぜTarCoon☆CarToonは保守を支持することがあるのか
この考え方から見ると、TarCoon☆CarToonが保守的な思想や制度に一定の価値を見いだすことにも説明がつく。それは昔の社会へ戻りたいからではない。伝統が古いという理由だけで正しいと思っているわけでもない。既存の秩序を無条件に守りたいわけでもない。自由そのものを成立させるために、保守的な作用が必要になる場合があるからである。
慣習、礼儀、共同体、責任、節度、信用、伝統、暗黙の了解。こうしたものは、ときに個人を縛るものとして批判される。しかし同時に、国家や法律が介入しなくても人と人とが共存するための社会的な基盤でもある。
何世代にもわたって続いてきた制度には、不合理なものも当然ある。差別や抑圧を温存しているのであれば、変える必要がある。しかし、古いというだけで解体すればよいわけでもない。なぜその制度が存在してきたのか、何を支えていたのかを理解せずに壊せば、制度によって抑え込まれていた別の問題まで一緒に解放してしまうことがある。保守の重要な作用は、「絶対に変えるな」と言うことではなく、「壊す前に、それが何を支えていたのか考えろ」と問いかけることにあるのではないか。
その意味で、保守的な慣習や制度は必ずしも自由の敵ではない。場合によっては、自由を国家による過剰な管理から守る緩衝材として機能する。だからTarCoon☆CarToonは、保守だから自由を制限したいのではない。むしろ逆である。自由を最大化したいからこそ、その自由を維持するための保守的な作用を支持することがある。これは「自由を保存するための保守」と呼んでもよいだろう。
リベラルと保守を対立させない
一般的な政治的分類では、リベラルと保守は対立するものとして扱われる。しかしTarCoon☆CarToonの立場から見るならば、両者は単純な敵同士ではなく、それぞれ異なる機能を持っている。リベラルには、既存の秩序によって閉ざされてきた可能性を開き、人間の自由を拡張する作用がある。保守には、長い時間をかけて形成された制度や関係を、一時的な熱狂によって不用意に破壊しない作用がある。
リベラルだけが暴走すれば、「自由のため」という名目で、自由を支えていた社会的基盤まで解体してしまう可能性がある。保守だけが暴走すれば、「秩序のため」という名目で、人間の自由そのものを押し潰してしまう可能性がある。だから、どちらか一方を永久の正解にする必要はない。むしろ両者が存在し、互いの暴走を抑制することに意味がある。
TarCoon☆CarToonがこれまで語ってきた「空を飛ぶためには左右両方の翼が必要だ」という比喩も、ここから理解することができる。中間に縮こまり、右にも左にも行かないことが目的なのではない。右は右として大きく広がってよい。左は左として大きく広がってよい。ただし、一方がもう一方を引きちぎり、片翼しか残らなくなれば飛ぶことはできない。メタリベとは、左右の真ん中に立つ思想ではない。両翼が存在し続け、飛び続けることのできる条件を観測する立場である。
寛容にも自己抑制が必要である
しかし、寛容を重視する思想には必ず難問が生じる。不寛容な存在に対しても寛容であるべきなのか、という問題である。あらゆるものに無制限に寛容であれば、他者の自由や存在そのものを否定しようとする思想まで許容することになる。しかし、「不寛容なものは排除する」と決めれば、今度は誰が不寛容を認定するのかという問題が発生する。
自分と異なる思想を「不寛容」と呼び、排除を正当化し始めれば、寛容を掲げる側そのものが新しい権力になり得る。だからTarCoon☆CarToonの立場からすれば、寛容さえも自己抑制の対象として考える必要があるだろう。寛容だから何でも許すのではない。しかし、自分が正しいと思った瞬間に相手を消しにいくのでもない。その境界を観測し続ける。
Watch, but do not govern
stop war, but do not wage it
protect, but do not control
and first, survive!
監視せよ、しかし統治するな。戦争を止めよ、しかし戦争をするな。保護せよ、しかし管理するな。そしてなによりも、 生き残れ!
この姿勢は、TarCoon☆CarToonの「多元宇宙内時空検閲官」という位置ともよく対応している。ここでいう検閲とは、正しい思想だけを残し、間違った思想を削除することではない。異なる世界、異なる価値観、異なる文化が、互いを完全に消滅させることなく存在できる境界を観測することだと考えた方が、TarCoon☆CarToonの思想には整合的である。
他者を変えるのではなく、余白を残す
メタリベにおける寛容とは、相手に賛成することではない。理解できないものを理解したふりをすることでもない。嫌いなものを好きになることでもない。思想の違いを曖昧にすることでもない。自分とは相容れないものが、それでも存在できる場所を残すことである。
これは簡単なことではない。相手を論破できるなら論破したくなる。排除できるなら排除したくなる。自分の正しさを社会の標準にしたくなる。しかし、自分の正しさを完全に実現することが、必ずしも自由な社会につながるわけではない。自分の正しさが社会全体を覆った瞬間、自分と異なる者はその社会から逃げる場所を失う。
だからこそ、「勝てるけれど勝ち切らない」という自己抑制が必要になる。相手を生かすためだけではない。自分自身がいつか少数派になったとき、自分が存在できる余白を社会に残しておくためでもある。ここに、寛容と自己抑制の相互関係がある。TarCoon☆CarToonが「境界に立つ」とは、どちらにも属さない安全地帯へ逃げることではない。異なるもの同士が接触し、摩擦し、それでも互いを消滅させずにいられる場所を維持することである。
メタリベとは何か
以上から、メタリベを次のように定義してみたい。
メタリベとは、自由そのものを絶対視するのではなく、複数の自由が共存し続けるための条件を観測し、自由・秩序・寛容・自己抑制・慣習を相互に調整しようとする思想的態度である。
メタリベにとって、保守もリベラルも目的ではない。必要なら制度を変える。必要なら制度を守る。必要なら権利を拡張する。しかし権利を持つ者自身にも、その行使について考えることを求める。判断基準は「右か左か」ではない。異なるものが異なるまま存在できる余白が残るかどうか。
その意味で、メタリベはリベラルを否定する思想ではない。むしろ自由を徹底的に考えた結果、「自由そのものにも、別の自由を破壊する力がある」と気づき、リベラルそのものを一段上から観測するようになった立場だと言える。
自由を守るためなら、自由そのものにもブレーキをかける。しかし、そのブレーキが自由を奪う道具になり始めたなら、今度はそのブレーキにもブレーキをかける。保守が自由を守るなら保守を支持する。保守が自由を押し潰すなら保守に抵抗する。リベラルが人間を解放するならリベラルを支持する。リベラルが異なる存在を許さなくなれば、リベラルにも異議を唱える。
特定の陣営に忠誠を誓うのではなく、自由が存在できる条件に忠実である。だからTarCoon☆CarToonの立場をあえて短く言うなら、こうなるだろう。
自由を最大化するためには、自由を自制する能力が必要である。だからこそ、自由を維持するために保守を支持することがある。リベラルか保守かではない。自由が自由であり続けられる条件そのものを考える。だからオイラは、メタリベなのだ。
言葉が生まれた場所
最後に、この「メタリベ」という言葉に辿り着いたきっかけを記しておきたい。
いつも声をかけてもらっているNEOソフィストVS氏に招かれ、本日「スーパー右翼BAR」に参加した。もしこの場へ行っていなければ、TarCoon☆CarToonの政治的立場を「メタリベ」として整理することには、おそらく気づかなかっただろう。
右翼と呼ばれる人たちのいる場所へ実際に足を運び、その言葉を聞き、自分の考えと照らし合わせる。その過程で、「オイラは自由を大きく取りたいからこそ、自己抑制や慣習や保守的な作用を必要としているのではないか」という、それまで断片的だった考えが一本につながった。
これはメタリベという考え方そのものを象徴しているようにも思う。自分と異なる思想に触れることは、自分の思想を失うことではない。相手と同じ思想になる必要もない。むしろ、自分とは異なる場所へ行き、そこからこちら側を眺め直すことで、自分がどこに立っているのか初めて見えることがある。
TarCoon☆CarToonが境界を観測する概念であるなら、自分と異なる思想の場へ行き、その場を拒絶するでも同化するでもなく、そこから自分自身の立場を考え直す。そうするのがTarCoon☆CarToonとして適切なのだろう。
そして、右翼の場へ行った結果として「自分は右翼だった」と確認したのではなく、むしろ「なぜオイラは保守を支持することがあるのか」を考え、その先で「自由を最大化したいからこそ保守的な作用も必要としている」という結論に辿り着いた。その結果として生まれたのが、メタリベという言葉だった。
異なるものを見ることで、自分が見える。境界へ行くことで、自分の立っている場所が見える。スーパー右翼BARという観測点がなければ、メタリベという言葉は生まれなかった。その機会を作ってくれたNEOソフィストVS氏に、感謝したい。
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