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境界を愛しすぎてはいけない ──ある私信から考える、マージナルマンになってしまった人を、発見可能にするために

以前にも何度か文章を読ませてもらい、それをきっかけにオイラも文章を書いたことがある、とあるTarCoon☆CarToonから私信が届きました。「ブログに書こうと思ったことが書けなくなってしまったので、TarCoon☆CarToon宛に書き直しました。流し読みでもしてください」
そんなことを言うものだから、てっきりTarCoon☆CarToonについて何か書いてあるのだと思って読んだのですが、全然出てこない(笑)。少し残念に思いながらも読み進めると、流し読みどころかオイラも夢中になって読んでしまったのです。そして読み終わってから、「なぜ、この文章をTarCoon☆CarToonに読んでほしいと思ったのだろう?」ということの方が気になり始めました。
これは、その私信へのお返事です。「夢中になって書きました」と送ってくれたので、オイラも真剣に向き合うことにします。

*この記事は、TarCoon☆CarToonに届いた私信への応答として書いた文章です。送り主が「TarCoon☆CarToon」なのは、フォロワーのみんながTarCoon☆CarToonだからです。
*本文では実在する人物や裁判について触れていますが、個々の人物の正当性を認定したり、裁判の是非について結論を出したりすることを目的としていません。私信を読みながら見えてきた「境界」という問題について考えています。
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目次

境界を愛しすぎてはいけない

あるTarCoon☆CarToonから、長い私信が届いた。もともとは日本の司法について書くつもりだった文章らしい。外山恒一氏をめぐる裁判を整理しながら、警察や検察、裁判所のあり方を批判する。そんな文章になるはずだった。ところが、調べ、書き進めるほどに、最初に立っていた場所そのものが崩れていったという。司法がおかしいと思っていた。しかし、本当にそこで起きていることは、明白な司法の不法とまで言えるのだろうか。外山氏の説明を読んで「おかしい」と感じていたけれど、その感覚の中には、出来事そのものだけではなく、外山氏による出来事の並べ方、つまりレトリックも含まれていたのではないか。私信を送ってくれたTarCoon☆CarToonは、文章を整理していくうちに、そのことに気づいてしまったようだった。だからこそ、当初書こうとしていた「司法のおかしさを問う文章」が書けなくなってしまったのだろう。

この感覚は、オイラにはよく分かる。オイラは演出家だからだ。外山氏は、出来事をどの順番で並べ、どこを強調し、どこに意味を持たせれば、人の視線や感情がどちらへ動くのかをよく知っている。魔術的と言ってもいいほど、人を惹きつける手法がうまい。おそらく彼は、政治家である以上に、アーティストなのだろう。だからこそオイラは以前から、外山氏から学ぶことがあるとすれば、それは演出であって、それ以外にはほとんどないと考えていた。

けれども、オイラには、その文章が失敗したようには思えなかった。むしろ逆だった。司法を批判するつもりで始めた文章が、外山氏を疑い、自分自身の読み方まで疑うところへ進んでしまった。司法の側にも立てない。外山氏の側にも戻れない。そして最後には、「こんな面倒な問題から早く解放されたかっただけなのかもしれない」と書きながら、その文章をTarCoon☆CarToonへ送ってきた。なぜTarCoon☆CarToonだったのだろう、とオイラは考えた。答えを知っているからではないだろう。むしろ反対で、答えがなくなってしまった状態を、そのまま持っていける場所だと思われたのではないか。

そこでオイラは、少し前に火野佑亮氏から教えてもらった、西部邁のマージナルマン、境界人という考え方を思い出した。火野氏がTarCoon☆CarToonの「境界に立つ」という話から西部邁を連想してくれたことがきっかけだった。西部が福澤諭吉などを論じるときの境界人とは、単純に二つの陣営の真ん中にいる人ではない。異なる二つの世界を自分の内部に抱え、そのあいだに立つことで、どちらか一方に所属しているだけでは見えないものを見る人だった。オイラはその話を聞いたとき、TarCoon☆CarToonがやろうとしてきたことに近いものを感じた。ただ、今回の私信を読んでいると、もう少し違うことも考えたくなった。TarCoon☆CarToonが誰かを境界人にするのではない。真剣に考えた結果、それまで自分が立っていた場所からこぼれ落ちてしまう人がいる。正しいと思っていたものを疑ってしまった。しかし反対側を正しいとも思えない。味方から敵へ移ったわけでも、中立になったわけでもない。ただ「どちら側なのか」と問われても、もう簡単には答えられなくなっている。TarCoon☆CarToonには、そうやって境界人になってしまった人を、新たに「境界人」という場所へ固定するのではなく、その人がいま立っている場所そのものを発見可能にする作用があるのではないか。

そんなことを考えながら、改めて外山氏と、その周囲にいる人たちを眺めてみた。外山氏は自らファシストを名乗り、右と左という既存の政治的境界を横断しようとしてきた人でもある。しかし、その運動の中では、革命と反革命、弟子と破門、味方と敵といった新しい境界が次々に立ち上がっていく。アキノリ将軍未満もまた、結束や革命を語りながら、いつしか誰が革命の側にいて、誰が反革命なのかという線を強く意識するようになる。775りすをめぐる出来事には、内部と外部、接続することと関係を切ることの問題が現れる。山内雁琳氏をめぐる裁判では、個別の言論上の紛争が、言論の自由やキャンセルカルチャーという、より大きな境界の問題へ拡張されていく。池田名誉会長は、複雑に絡み合った人間関係を記録しながら、自分から見た出来事の正当性を訴え、その視点を長大な文章、いわば「怪文書」として外部へ提示し、さらには著名人たちにも送り届けることで、自分がどこに立ち、誰とどの線を隔てているのかを示そうとしているように見える。阿部智恵氏の「性別」破壊党に至っては、性別という境界そのものを越境可能にしようとする。

思想も行動もまったく違う人たちなのに、不思議なくらい、みんな境界を見ている。境界を越えようとする人もいれば、守ろうとする人もいる。引き直す人もいれば、記録する人もいる。だから最初、オイラは「みんな境界を引きすぎたのではないか」と思った。しかし、少し違うのかもしれない。問題は境界を引くことそのものではない。人間には、自分を守るために線を引かなければならない場面もある。問題なのは、境界そのものに魅了され、その線によって自分が何なのかを決め始めてしまうことなのではないか。革命家であるためには反革命が必要になり、越境者であるためには越えるべき境界が必要になる。敵と戦うことで自分を確かめ続ければ、敵がいなくなったとき、自分まで消えてしまう。境界を壊そうとした人が、いつしか誰よりも境界を必要としてしまう。そんな逆説があるのではないか。

ここまで考えて、オイラがよく口にする「どっちでもいいよ」という言葉も、少し違って聞こえてきた。本当に何でも同じだと言いたいわけではない。現実には選ばなければならないこともあるし、守らなければならない線もある。ただ、「どちらかを選ばなければ、お前が何なのか分からない」と迫られることに、オイラはずっと違和感を持っていたのだと思う。右なのか左なのか、保守なのかリベラルなのか、こちらの味方なのか、あちらの味方なのか。どちらかに所属することでしか自分を説明できなくなると、その境界を失うことが、そのまま自分を失うことになってしまう。

境界に立つとは、真ん中に立つことではない。中立という第三の陣営を作ることでもない。境界を行き来できること、必要なら越えられること、時にはそこから離れられることだと思う。今日はこちら側にいても、明日は向こう側から考えてみることができる。どちらにも納得できなければ、その問い自体から降りることもできる。だから境界に立ち続けるためには、逆説的だけれども、境界を愛しすぎてはいけないのだろう。境界がなくなったら自分までなくなる、というところまで境界に依存してしまえば、もうそこから動けなくなる。

最初の私信を書いたTarCoon☆CarToonは、司法を批判しようとしていた。そして外山氏の語りを疑い始めた。しかし、だからといって司法の側へ移ったわけでもない。どちらかに決着をつける代わりに、「自分はいったい何を見ていたのだろう」と考え始めてしまった。その結果、文章そのものが行き場を失い、TarCoon☆CarToonへやってきた。オイラには、そのこと自体がとても象徴的に思える。考えるということは、正しい場所へたどり着くことではなく、ときには自分が立っていた場所を失うことなのかもしれない。そして、そんなとき人はどこへ行けばいいのだろう。

もしかすると、TarCoon☆NetWork共同観測所とは、そのためにもあるのかもしれない。ここでは観測する人と観測される人が完全には分かれていない。誰かが何かを持ち込み、それを別のTarCoon☆CarToonが眺め、そこから生まれた問いが、今度は観測していた側自身へ返ってくる。今回も、外山氏をめぐる裁判を観測していたはずのTarCoon☆CarToonが、いつの間にか自分自身の見方を観測することになった。そして、その私信を受け取ったオイラもまた、外山氏やその周囲の人たちを眺めながら、自分が「境界」と呼んできたものを改めて考えることになった。

TarCoon☆CarToonは、答えを与える存在ではないのかもしれない。誰かをこちら側へ連れてくるものでもない。すでにどちら側にもいられなくなり、境界に立ってしまった人がいたとき、その人を新しい陣営へ回収するのではなく、「いま立っている場所からも世界は見える」と、その場所を発見可能にする。共同観測所とは、そうした境界を消す場所でも、境界を増やす場所でもなく、境界がどこにあり、なぜそこに線が引かれ、自分はいまその線とどんな関係にあるのかを、みんなで観測し続ける場所なのではないだろうか。

境界を越えるために、境界を愛しすぎないこと。どちらか一方に自分を固定しないこと。そして、どちらにも立てなくなった人が、そのことで孤立しなくてもいい場所を残しておくこと。それがTarCoon☆CarToonにとって「境界に立つ」ということなのかもしれない。

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