「守る」「取り戻す」「正しい」──そういう言葉が大合唱になるほど、肝心の「何を守るのか」は薄れていく。そんな空気のなかで、火野佑亮氏が投げてきた問い「我が国に正統ありや」は、保守かリベラルかの勝敗を決めるための合言葉ではなく、オイラたちが無意識に前提にしている「守るべきものはあるはずだ」という仮定そのものを回収してくる。富岡幸一郎『保守のコスモロジー』をめぐる火野氏の論は、霊性の焼土、巨大な空虚という強い言い切りを置きつつ、それを単なる陣営の煽りへ落とさず、「正統」という危険な言葉を棍棒にしない扱い方を問い直している。オイラはその問いにうなずきながらも、霊性が燃え尽きたとは言い切れない、とも思う。だってオイラたちは、いまも物語に泣き、喪失や赦しや死の輪郭を作品のなかで受け取ってしまう。だからこそ、正統を掲げて統治しない、霊性を掲げて管理しない、という矛盾の中で、波が立つ国のなかでも思考を止めない振る舞いをどう残せるのか。火野氏の文章に応答しながら、TarCoon☆CarToonとしての感想を綴りました。
*この記事は、火野佑亮「我が国に正統ありや ──富岡幸一郎『保守のコスモロジー』論」への感想文です。まずは、ぜひ火野佑亮氏の寄稿をお読みください。あわせて、火野佑亮氏が論じた富岡幸一郎『保守のコスモロジー』も、可能であれば手に取ってみてください。
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統治しない正統、管理しない霊性
オイラは、正しい言葉ほど怖いと思っている。正しい顔をした瞬間に、誰かを黙らせる道具になるからだ。
火野氏の「我が国に正統ありや」は、その怖さを逆にこちらへ向けてくる。正統という言葉を、逃げずに、棍棒にせずに扱えるのか、と。
正統という言葉は、放っておくとすぐ棍棒になる。
だから普通は、触らないか、触っても角を丸める。
でも火野佑亮氏(以下、火野氏)は角を丸めないまま、棍棒にもさせないまま、いきなりこう置く。「我が国に正統ありや」。
この問いは、結論を出して相手を黙らせるためのものじゃない。
こっちが無意識に前提にしていた「守るべきものはあるはずだ」という仮定を、いったん全部回収してくる。
賛成反対を言う前に、前提から組み直せと言われる。オイラはそこで止まった。
けれど同時に、オイラの中では反射的な抵抗も起きた。
霊性の焼土、巨大な空虚、精神の灰燼。たしかに、そう見える地点はある。けれど霊性そのものが燃え尽きたとは、オイラは思っていない。だって、みんな物語を見ている。アニメや漫画や小説のなかで、喪失や赦しや死の輪郭を、いまも受け取っている。誰かを好きになって、失って、泣いて、翌朝にもう一回だけ自分の機嫌を取り直す。その繰り返しの中に、霊性の断片は残っている。
だからオイラが気になるのは、「焼土かどうか」を決めることではなく、焼土に見える観測点が公共の側に増えたこと、そしてその観測点に立つと、世界が一枚板の空虚に見えてしまうこと、その現象そのものだ。焼土がある、というより、焼土が「見えやすい場所」が増えた。そう言ったほうが、オイラにはしっくりくる。
火野氏の文章の強さは、そこから先を「保守が正しい/リベラルが間違い」といった陣営の勝敗に落とさないところにある。
むしろ火野氏は、左派の没落や右派の熱狂を語りつつも、「左派を取り除けば上手くいく」という主知主義の罠を疑い、スローガンとしての「日本」の大合唱の空虚を、問題の中心へ据える。つまり彼が恐れているのは、敵の陣営ではなく、思考を止める「型」そのものだ。大合唱が怖いのは、音量が大きいからじゃない。音量が大きいと、問いが小さくなるからだ。問いが小さくなると、世界は平らになる。世界が平らになると、超越は消える。火野氏の文章は、その連鎖を、こちらの腹に落とそうとしてくる。
オイラはずっと、こういうときにこそ「矛盾した標語」が必要だと思ってきた。
Watch, but do not govern(監視せよ、しかし統治するな)/protect, but do not control(保護せよ、しかし管理するな)。守りたい、けれど支配したくない。観測したい、けれど裁きたくない。止めたい、けれど戦争はしたくない。
一本線で世界を切るとき、そこにはたいてい棍棒が生まれる。二重線で世界を見るとき、棍棒は少しだけ鈍る。その代わり、振る舞いが必要になる。振る舞いが必要になるということは、つまり、人間が必要になるということだ。
火野氏が探している「正統」も、たぶん同じ火薬庫に触れている。
正統は、うまく扱えば背骨になる。だが、扱いを誤れば棍棒にもなる。正統は、人を支える言葉になり得るが、人を黙らせる言葉にもなり得る。だからこそ火野氏は、伝統と正統を分け、正統を「直接自分の中にあるもの」として捉え直し、さらに宗教や神学やコスモロジーへ踏み込むことで、外側のスローガンや共同体の熱狂とは別の座標を探ろうとしている。オイラにはそう見えた。
けれど、ここでオイラは一つだけ言い換えたい。正統が「自分の中にある」と言うとき、それは「好きにしていい内面」という意味ではないはずだ。むしろ、正統が内側にあるというのは、外側の誰かを裁くためではなく、自分が自分を抑えるための形式、そして扱い方として働くべきだ、ということなんじゃないか。正統を持つ、というのは「正しい人間になる」ことではなく、「正しさを棍棒にしないための背骨を持つ」ことかもしれない。
火野氏が怖がる「日本の大合唱」についても、オイラは似た感覚を持っている。
日本人は、波が立つ。いざとなれば、オイラだって波に飲まれかける。だから「日本人はそういうものだ、仕方がない」と言ってしまいたくなる気持ちも分かる。けれど、ここで仕方ないで終わらせたら、火野氏の問いは死ぬ。波が立つことそのものが問題なのではなく、波が立ったときに、誰もが思考を止めてしまうこと、そこでの振る舞いの欠如が問題なのだ。
ならば必要なのは、波を消すことではない。波の中でも思考を止めない「形式」を、どこに置くかだ。正統がもし必要だとしたら、その正統は、団結のための旗ではなく、自己抑制のための扱い方として置かれなければならない。統治しない正統、管理しない正統。そんな矛盾を抱えた正統でなければ、正統という言葉はまたすぐに権力の服を着てしまうだろう。
そして、ここでオイラの反論、霊性は燃え尽きていない、を、ただの安心にしないためにも、もう一度自分の足場を見直しておきたい。
霊性が物語に残っている、というのは、希望の話であると同時に危険な話でもある。物語は人を救うが、同時に人を群衆化もする。物語は個人の祈りになるが、同時に政治の道具にもなる。だからオイラが言いたいのは、「霊性はある、安心しな」ではない。霊性は残っている。だからこそ、その霊性を統治に変えないこと、管理に変えないこと、そして「正統」という言葉を、誰かを殴るための武器にしないこと、その扱い方のほうが、むしろ問われているのだ。
火野氏の文章は、富岡幸一郎『保守のコスモロジー』を媒介にして、結局オイラにこう問い返してくる。
「守るべきものはそこにあるのか?」
「守るべきものが見えないとき、人は何を『正統』と呼びたくなるのか?」
「その正統は、誰を救い、誰を黙らせるのか?」
「統治しない正統、管理しない霊性は可能なのか?」
オイラはまだ答えを持っていない。けれど、答えがないからこそ、問いの置き方だけは守りたいと思った。希望は、最初から正しい場所には宿らない。希望は、最初から綺麗な場所には宿らない。希望は、問いが生き残っている場所にだけ、宿るのかもしれない。火野氏がやっているのは、結論の提示ではなく、問いの保存だ。空虚に見える時代に、空虚そのものを神棚にするのではなく、その空虚がどこから来るかを辿り、足場を作り直すための「形式」を探している。オイラが火野氏に応えるとしたら、たぶんこの方向しかない。
正統を掲げて統治しない。霊性を掲げて管理しない。
そして、波が立つ国で、波に飲まれない振る舞いを、黙って増やしていく。その地味で面倒で、でも希望の形をした仕事を、オイラは続けたい。
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