ZINEは、立派な本になる前の本です。
まだ出版社に選ばれていない言葉。
まだ作品と呼ばれる前の写真。
まだ思想として整っていない違和感。
まだ誰にも説明できない好きなもの。
まだ日記のままの怒りや祈り。
そうしたものを、紙にして、折って、綴じて、誰かに手渡す。
それがZINEです。
ZINEというと、おしゃれな紙もの、アートブック、個人出版のようなイメージがあるかもしれません。けれど、その奥にはもっと長くて複雑な歴史があります。フェミニズムのミニコミ、Riot GrrrlのZINE、同人誌やコピー本、カメラ女子の写真文化、手作り市や蚤の市、オーガニックやヨガ、魔女の本のような身体の記録。
この記事では、ZINE文化を、女性たちが暮らし・身体・手仕事・ケア・違和感を綴じてきた歴史として読みなおします。
ZINEを作ることは、特別な人だけの表現ではありません。
自分の暮らしの中にある「まだ名前のないもの」を、そっと紙に置いてみること。
そこから、ZINEの歴史は始まります。
はじめに──ZINEとは何か
ZINEという言葉を聞いたことがあるでしょうか。
読み方は「ジン」。もともとは「magazine」や「fanzine」から来た言葉だと言われています。簡単に言えば、ZINEとは、出版社や大きなメディアを通さずに、個人や小さなグループが自分たちで作る小冊子のことです。文章、写真、イラスト、日記、詩、批評、旅行記、レシピ、コラージュ、漫画、エッセイ、思想、生活の記録。内容は本当に自由です。
立派な本でなくてもいい。きれいに印刷されていなくてもいい。コピー機で刷って、ホチキスで留めただけでもいい。数十部だけ作って、友人に配ったり、イベントで売ったり、個人書店やカフェに置いてもらったりする。それがZINEの基本的な姿です。
ZINEの面白さは、単に「小さな本」であることではありません。そこには、「自分の言葉を、自分の手で形にして、自分の届けたい人に手渡す」という態度があります。商業出版のように、出版社に企画を通し、編集者に選ばれ、書店流通に乗り、売上を競う必要はありません。ZINEはもっと小さく、もっと個人的で、もっと手元に近い表現です。
その小ささには、独特の強さがあります。ZINEは小さいからこそ、社会の大きな言葉からこぼれ落ちたものを拾うことができます。生活の違和感、身体の記憶、誰にも説明しにくい気分、好きなものへの偏愛、怒り、祈り、日々の記録。そうしたものを、大きなメディアに整えられる前のかたちで残すことができるのです。
ZINE文化の歴史を振り返るとき、よく語られる源流のひとつに、アメリカのSFファンたちが作っていた「ファンジン」があります。ファンジンとは、SFや音楽、漫画、映画など、何かに熱中したファンたちが、自分たちで作った冊子のことです。商業雑誌のように出版社が作るのではなく、ファン同士が情報や感想や批評や創作を交換するために、自分たちで印刷し、郵送し、手渡していました。
ここで大切なのは、ファンジンが単なる「趣味の冊子」ではなかったということです。そこには、好きなものについて語りたい、考えたい、仲間とつながりたい、自分たちの批評や創作を流通させたいという欲望がありました。つまりファンジンは、出版社を通さずに、愛好、批評、違和感、想像力を紙にして共有する文化だったのです。
このSFファンジンの流れをZINEの源流として語ることは、とても自然なことです。ただ、その源流をたどるなら、アメリカのSFファンジンだけで話を止めるのではなく、SFファンダムが各地でどのように広がり、日本でどのような自主制作文化につながっていったのかも見ておきたいところです。
日本にも、SFを愛好する人たちの集まりや、日本SF大会のような場がありました。日本SF大会とは、SFファン、作家、編集者、研究者、アニメや特撮を愛好する人たちなどが集まり、講演や企画、展示、交流を行う大会です。そこでは、作品を読むだけでなく、語り合い、批評し、制作し、冊子や資料を作る文化も育っていきました。日本SF大会の開催年や開催地は、歴代大会のデータリストでも確認できます。
大阪では、1981年に第20回日本SF大会「DAICON 3」、1983年に第22回日本SF大会「DAICON 4」が開催されています。DAICONは、大阪で開かれた日本SF大会の名称です。特にDAICON 3、DAICON 4は、SF、アニメ、特撮、自主制作、ファン活動が重なり合う場として知られています。
DAICONのオープニングアニメは、のちのアニメ文化を語るうえでも重要な出来事としてよく取り上げられます。そこには、プロになる前の作り手たちが、自分たちの技術と愛好を持ち寄り、場そのものを作っていく熱気がありました。その中心にいた作り手たちの流れは、のちにアニメ制作会社GAINAXへとつながり、さらに庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』へと接続していきます。
つまりDAICONは、単に一地方で開かれたSF大会ではなく、SFファンダム、自主制作アニメ、ガレージキット、同人誌、アニメ産業が交差する重要な結節点でもありました。ZINEの源流としてSFファンジンを語るなら、こうした日本側のSFファンダムと自主制作文化の展開も、あわせて見ておきたいところです。DAICONからワンダーフェスティバルやガレージキット文化へつながる流れについては、関係者の回想記事も参考になります。
そして日本では、コミックマーケット、いわゆるコミケを中心に、同人誌文化が大きく広がっていきます。コミケは、漫画、アニメ、ゲーム、小説、評論、研究、二次創作、創作漫画など、さまざまな自主制作物が集まる即売会です。一般には「オタク文化のイベント」として知られていますが、そこで行われてきたのは、作り手が自分で本を作り、机に並べ、読み手と直接出会うという、非常に大きな自主出版の実践でもありました。
コミックマーケット準備会の年表では、1975年に批評集団「迷宮’75」によってコミックマーケットが立案され、第1回が32サークル・推定700人規模で始まったことが記録されています。
また、明治大学米沢嘉博記念図書館のコミックマーケット年表では、第1回コミケの参加者の多くが中高生の少女マンガファンの女子だったことや、1977年の『宇宙戦艦ヤマト』ブーム以降、アニメ系同人誌が増加したことも紹介されています。これは、初期コミケを単純に「男性オタク文化」としてだけ見るのではなく、少女マンガ、SF、アニメ、女性ファンの活動が交差する場として見るうえで、とても重要な手がかりになります。
さらに、自主制作の本を語るうえでは、文学フリマの存在も重要です。文学フリマは、コミックマーケットとはまた異なるかたちで、作り手自身が自分の書いたものを販売する場を広げてきました。公式には「文学作品の展示即売会」と説明されており、出店者が「自分が〈文学〉と信じるもの」を自らの手で販売するイベントです。ここでいう文学は、純文学だけに限られません。小説、詩、短歌、俳句、評論、エッセイ、ノンフィクション、日記、旅行記、研究、ZINE的な冊子まで、作り手が「これは文学だ」と信じるものが並びます。
文学フリマは、2002年に評論家・まんが原作者の大塚英志さんが『群像』誌上で行った呼びかけをきっかけに生まれました。第1回は2002年11月3日に青山ブックセンター本店で開催され、約80の出店、約1,000人の来場者を集めたと記録されています。既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず、プロかアマチュアかにもこだわらず、作り手が読者と直接出会う「文学の場」を作ろうとしたことが、文学フリマの出発点でした。
この意味で文学フリマは、ZINEと同人誌のあいだにある重要な場だと言えます。コミケが、漫画、アニメ、ゲーム、SF、評論、二次創作などを含む巨大な同人誌文化の場として広がったとすれば、文学フリマは、文章を書く人たちが「自分の書いたものを、自分で本にして、自分で売る」ための場を作ってきました。そこでは、商業出版に乗る前の小説や評論だけでなく、日記、エッセイ、個人史、旅の記録、生活の記録のような、ZINEに近い表現も扱われます。
つまり、ZINEの歴史を考えるとき、アメリカのSFファンジンを源流として語るなら、日本のSFファンダム、日本SF大会、DAICON、コミケ、同人誌即売会、文学フリマの系譜もまた、同じ「自分たちで作り、自分たちで届ける文化」の流れとして見ることができます。
ZINEと同人誌、文学フリマの本は、それぞれ同じものとして一括りにできるわけではありません。育ってきた場所も、使われてきた言葉も、見た目の雰囲気も違います。けれど、共通しているところもあります。どれも、出版社を通さずに、欲望、批評、愛好、違和感、記録、創作を紙にして、仲間や読者に手渡してきた文化です。
だから、ZINEを「おしゃれなDIY出版」としてだけ見ると、その奥にある歴史の厚みが少し見えにくくなります。ZINEの背景には、SFファンジン、パンク、フェミニズム、ミニコミ、リトルプレス、同人誌、コミケ、文学フリマ、手作り市、個人書店、ギャラリー、カフェといった、さまざまな自主制作文化の流れがあります。実際、日本のZINE文化を整理した『日本のZINEについて知ってることすべて』も、国内のZINEを「同人誌、ミニコミ、リトルプレス」を含む自主制作出版史として扱っています。
この文章では、その中でも特に、もう少し違う角度からZINEを見てみたいと思います。
それは、ZINEを女性たちの文化史として読みなおすことです。
ここでいう「女性たちの文化史」とは、女性だけが作った文化という意味ではありません。そうではなく、近代社会の中で「女性の領域」とされがちだったもの――暮らし、身体、手仕事、ケア、食、装い、写真、雑貨、占い、祈り、健康、親密な関係――が、どのように紙の上に記録され、共有され、手渡されてきたのかを見ていくということです。
ZINEの中には、SFを愛する人たちが仲間へ向けて作ったファンジンの歴史があります。同人誌即売会で、自分たちの作品や批評や欲望を紙にしてきた人たちの歴史があります。文学フリマで、自分の言葉を自分で本にして読者に手渡してきた人たちの歴史があります。ウーマン・リブのミニコミで、身体や生活や怒りを言葉にしてきた女性たちの歴史があります。手作り市や個人書店で、暮らしの記録を小さな冊子として手渡してきた人たちの歴史があります。
ZINEとは、ただの小さな本ではありません。それは、自分たちの現実を、自分たちの手で綴じるための文化です。
この記事では、SFファンジンや同人誌文化、文学フリマとも響き合う自主出版の歴史をふまえながら、ZINEがどのように暮らし、身体、手仕事、ケア、祈りを紙の上に残してきたのかをたどっていきます。
ZINEは「おしゃれな紙もの」なのか
いま、ZINEという言葉には、どこか洗練された印象があります。リソグラフ印刷、手製本、写真、イラスト、詩、エッセイ、カフェ、ギャラリー、個人書店、紙ものイベント。そうした言葉と一緒に語られることが多くなりました。
リソグラフ印刷というのは、孔版印刷の一種です。簡単に言えば、コピー機と版画のあいだのような印刷方法で、少し版ズレが出たり、インクの質感が残ったりします。そのズレやかすれが、ZINEや小さな印刷物の雰囲気とよく合うため、近年のZINE文化ではよく使われています。
手製本とは、文字通り手で本を綴じることです。糸で綴じたり、ホチキスで留めたり、折った紙を重ねたり、製本テープを貼ったりします。大きな印刷会社で大量に作られた本とは違い、作り手の手の跡が残るところに魅力があります。
こうした要素が重なると、ZINEは「おしゃれな人たちが作る、小さくてかわいい冊子」として見られやすくなります。もちろん、それはZINEの一面です。紙の質感、印刷のズレ、手で綴じた痕跡、ページをめくる感覚。そうしたものは、ZINEの大きな魅力です。
けれど、ZINEの本質は「おしゃれ」であることではありません。ZINEの本質は、自分たちで作り、自分たちで配り、自分たちで場を作ることにあります。
出版社に選ばれなくてもいい。書店に並ばなくてもいい。評論家に認められなくてもいい。大きなメディアに紹介されなくてもいい。自分が書きたいことを書く。自分が残したいものを残す。自分が届けたい人へ手渡す。その素朴で強い身振りが、ZINE文化の核にあります。
この意味で、ZINEは同人誌やミニコミとも深くつながっています。同人誌とは、同じ趣味や関心を持つ人たち、または個人が、自分たちで作る本や冊子のことです。漫画や小説、評論、研究、二次創作など、内容は幅広くあります。日本ではコミックマーケット、いわゆるコミケを中心に、同人誌文化が大きく発展しました。
ミニコミとは、「ミニ・コミュニケーション」の略とされる言葉で、新聞やテレビのような「マスコミ」に対して、小さな集団や個人が発行する自主的な情報媒体を指します。市民運動、労働運動、フェミニズム運動、地域活動、学生運動などと結びつき、商業メディアでは扱われにくい声を伝える役割を果たしてきました。
リトルプレスは、小規模な出版社や個人が作る出版物を指す言葉です。商業出版ほど大きな流通を持たないけれど、詩、文学、写真、アート、エッセイなど、作り手のこだわりが強く反映されることが多い出版物です。
こうして見ると、ZINE、同人誌、ミニコミ、リトルプレスは、それぞれ違う言葉ではありますが、重なり合っています。どれも「自分たちで作り、自分たちで届ける」文化です。
ところが、ZINEが「おしゃれな紙もの」として語られるとき、同人誌やコミケの歴史はなぜか脇に置かれがちです。ZINEは洗練された個人出版。同人誌はオタク文化。ミニコミは運動体の印刷物。リトルプレスは小規模出版。そうやって名前を分けていくことで、本当はつながっている自主制作出版の歴史が、別々の棚にしまわれてしまいます。
けれど、その棚をもう一度開いてみたいのです。ZINE文化を、女性史として。暮らしの歴史として。身体の歴史として。手仕事と小商いの歴史として。そして、制度の外に置かれた小さな知の歴史として。
ウーマン・リブとミニコミ──「私の身体」を私の言葉で書く
ZINE文化を女性史として読みなおすとき、まず重要になるのは、1970年代のウーマン・リブとミニコミです。
ウーマン・リブとは、1960年代後半から1970年代にかけて広がった女性解放運動のことです。「リブ」は「リベレーション」、つまり解放を意味します。女性が家庭や職場、社会の中で押しつけられてきた役割を問い直し、自分の身体や生き方を自分で決めることを求める運動でした。
ここで大切なのは、ウーマン・リブが単に法律や制度の改善だけを求めた運動ではなかったということです。もちろん、制度の問題も重要でした。しかしそれだけではなく、「女であること」の日常的な苦しさ、家族の中での役割、性の問題、妊娠や出産、労働、恋愛、結婚、身体への違和感など、それまで「個人的なこと」とされてきたものを、社会の問題として語りなおそうとしました。
そのとき、ミニコミはとても重要な役割を果たしました。なぜなら、新聞やテレビや大きな雑誌では、女性たちの生々しい言葉がそのまま載ることは少なかったからです。商業メディアの中では、女性の言葉はしばしば整えられ、消費しやすい形にされ、あるいは専門家や男性の言葉によって説明されてしまいます。
だからこそ、女性たちは自分たちで紙面を作りました。印刷し、綴じ、配り、読者から手紙を受け取り、また次の号を作る。そこには、後のZINE文化と非常に近い身振りがあります。
日本では、1970年代に女性たちが自分たちの言葉で身体、性、家族、労働、差別、怒り、違和感を語るためのミニコミを作っていました。たとえば『女・エロス』は、日本初期ウーマン・リブの総合雑誌として1973年に創立され、1号から17号までが残されています。
また大阪府立男女共同参画・青少年センターの資料では、『女・エロス』は1973年から1982年まで刊行された「女性の手だけで作られたウーマン・リブの雑誌」と紹介されています。
同じ資料では、『女から女たちへ』も、1972年から1988年まで発行された「女による女のためのミニコミ」として紹介されています。
ここで重要なのは、女性たちが商業出版や男性中心の言論空間を通さず、自分たちの紙面を作っていたということです。そこでは、身体のことが語られました。性のことが語られました。家族のことが語られました。労働のことが語られました。結婚のことが語られました。怒りや悲しみや違和感が語られました。
それまで「私的なこと」とされていたものが、紙面を通じて公共的な言葉になっていく。これは、ZINE文化の根本にある身振りと深くつながっています。
ZINEとは、「私のことを、私の言葉で書いてよい」と発見するためのメディアでもあるのです。専門家に預けなくてもいい。男性に翻訳してもらわなくてもいい。出版社に整えてもらわなくてもいい。きれいな文章でなくてもいい。怒っていてもいい。混乱していてもいい。生活の途中の言葉でいい。そのまま書く。印刷する。綴じる。渡す。
ウーマン・リブのミニコミは、ZINEが後に持つことになる「自分の経験を自分の形式で流通させる」という力を、すでに実践していました。
ZINEの女性史は、まずここから始まります。「私の身体」は、私のものだ。「私の生活」は、私の言葉で語っていい。「私の違和感」は、誰かに許可されなくても紙にしていい。この発見が、女たちの自主出版を支えてきたのです。
Riot GrrrlとフェミニストZINE──怒り、音楽、少女たちの紙面
海外のZINE文化を女性史として振り返るなら、1990年代のRiot Grrrlも外せません。
Riot Grrrlは「ライオット・ガール」と読みます。1990年代初頭のアメリカで広がった、パンク音楽とフェミニズムが結びついた若い女性たちの運動です。Riotは「暴動」や「騒ぎ」、Grrrlはgirlをわざと荒々しく書き換えた表記です。かわいらしく従順な「girl」ではなく、怒り、声を上げ、自分たちの居場所を作る「grrrl」というニュアンスがあります。
当時のパンクシーンは、反抗的で自由な文化である一方、男性中心の空気も強くありました。ライブハウスの前の方は男性たちが占め、女性たちは後ろに追いやられる。性差別的な言葉や態度が当たり前のように存在する。そうした状況に対して、若い女性たちは「自分たちの声を自分たちで作る」必要を感じました。
そのとき重要なメディアになったのがZINEでした。ブリタニカは、Riot GrrrlにおいてZINEがDIY精神の中心にあり、若い女性たちがセクシュアリティ、フェミニズム、家庭内暴力などを自分たちの言葉で語る媒体だったと説明しています。
またJSTOR Dailyも、Riot GrrrlのZINEが、パンク・アンダーグラウンドや社会全体における「girl power」の不足を問題化する場だったと紹介しています。
ここでのZINEは、かわいい紙ものではありません。それは、怒りを綴じる紙です。傷ついた経験を共有する紙です。男性中心の音楽シーンに対して、「私たちはここにいる」と言う紙です。少女たちが、自分たちの声を作るための紙です。
Riot GrrrlのZINEが示しているのは、ZINEが単なる個人表現ではなく、共同体を作るメディアでもあるということです。誰かが書く。誰かが読む。読んだ人が、自分も書く。コピーする。配る。ライブ会場で渡す。郵送する。手紙が返ってくる。そうやって、ZINEは小さな声のネットワークを作ります。
SNSのように一瞬で広がるわけではありません。アルゴリズムに乗るわけでもありません。バズるわけでもありません。けれど、だからこそ、ZINEには濃度があります。誰かの手を通って、誰かの手に渡る。読んだ人の部屋に置かれる。引き出しにしまわれる。何年もあとにまた開かれる。そこには、消えにくい声があります。
Riot GrrrlのZINEは、女の子たちの怒り、痛み、友情、抵抗、ユーモアを、商業メディアとは別の回路で流通させました。ZINEは、怒っていい場所でした。泣いていい場所でした。叫んでいい場所でした。そして、その声を自分たちで綴じていい場所だったのです。
ここで大切なのは、「フェミニストZINE」という言葉です。フェミニストZINEとは、女性差別やジェンダーの問題を扱うZINEのことです。ただし、難しい理論だけを書くものではありません。日常の中で感じる違和感、恋愛や性の悩み、身体についての不安、学校や職場での経験、母親との関係、自分の見た目への違和感など、個人的な経験から出発するものも多くあります。
つまりフェミニストZINEは、「社会問題について書く小冊子」というより、自分の生活の中にある社会の問題を、自分の言葉で見つけるための冊子なのです。
カメラ女子、雑貨、カフェ──日常を編集する文化
一方で、日本の2000年代以降のZINE文化を考えるとき、もう少し静かな流れも見えてきます。それが、カメラ女子、雑貨、カフェ、散歩、旅、部屋、植物、服、食べものといった、日常の編集文化です。
「カメラ女子」という言葉は、主に2000年代以降、カメラを持って日常を撮影する女性たちの文化を指して使われました。もちろん、女性が写真を撮ること自体は昔からありました。しかし、ここで特徴的だったのは、写真が専門家の技術や芸術作品としてだけではなく、暮らしを記録するためのものとして広がったことです。
それまでカメラ文化は、どちらかといえば男性的な趣味として語られることも多くありました。高価な機材、レンズの性能、撮影技術、鉄道、風景、報道、作品制作。もちろんそれらも大切な写真文化です。しかしカメラ女子文化では、写真はもっと生活に近いものになりました。
朝ごはんを撮る。喫茶店の窓辺を撮る。旅先の看板を撮る。友達の後ろ姿を撮る。花瓶に挿した花を撮る。部屋に差し込む光を撮る。古い建物の壁を撮る。買ったばかりの靴を撮る。そうした日常の断片が、写真として残されていきます。
ここで起きていたのは、写真の民主化です。立派な写真でなくてもいい。高価な機材でなくてもいい。コンテストに出す作品でなくてもいい。日常の中で、自分が「いい」と思ったものを撮る。それを印刷する。切る。貼る。コメントを書く。コピーする。綴じる。
この感覚は、ZINEととても相性がいいものです。ZINEは、立派な思想だけを載せる場所ではありません。完成された作品だけを発表する場所でもありません。むしろ、生活の断片を「なかったことにしない」ための記録装置でもあります。
日常は、放っておくと消えてしまいます。朝の光も、食べたものも、歩いた道も、なんとなく好きだった服も、友達との会話も、体調のゆらぎも、いつのまにか忘れてしまう。でも、ZINEにすれば、それらは少しだけ残ります。
それは、歴史に名前を残すような大きな記録ではありません。けれど、自分の暮らしを自分で記録することは、確かにひとつの表現です。
ここで「編集」という言葉を広く捉えてみると、ZINEの意味が見えてきます。編集とは、雑誌や本を作る専門家だけがすることではありません。たくさんある出来事の中から、何を選び、何を並べ、何に名前をつけ、どの順番で見せるのか。それを決めることが編集です。
朝ごはん、散歩道、喫茶店、読んだ本、買った花、友達との会話。その中から「これは残したい」と思うものを選び、ページに並べる。その行為は、暮らしの編集です。
男性的な出版史では、思想、批評、文学、作品、業績、商業的成功が重視されがちです。しかし、女性的なZINE文化では、生活の細部が大切にされます。なにを食べたか。どこを歩いたか。なにをかわいいと思ったか。どんな光がきれいだったか。どんな不安があったか。どんな手触りが好きだったか。
そうしたものは、社会の大きな言葉からはこぼれ落ちやすい。だからこそ、ZINEがあります。小さな紙面に、暮らしを置いておくために。
手作り市、蚤の市、小商い──本と雑貨のあいだで手渡されるもの
ZINE文化は、書店だけで育ってきたわけではありません。ギャラリー、カフェ、雑貨店、古本市、蚤の市、クラフトマーケット、手作り市、紙ものイベント。そうした場所でも、ZINEは手渡されてきました。
ここでいくつか言葉を説明しておきます。
手作り市とは、作家や個人が自分で作ったものを持ち寄って販売する市のことです。アクセサリー、布小物、陶器、焼き菓子、ポストカード、イラスト、古道具、植物、ZINEなど、さまざまなものが並びます。蚤の市は、古道具や古着、古本、雑貨などを扱うマーケットです。ヨーロッパのフリーマーケット文化に近いものですが、日本ではクラフトや雑貨、古本イベントと混ざりながら独自に広がっています。
小商いとは、大きな会社や店舗ではなく、個人や小さなチームが、自分たちの生活の規模に合わせて商いをすることです。たくさん売ることや大きく成長することよりも、自分の作れる量、自分の届けられる範囲、自分が大切にしたい関係性を重視する姿勢があります。
ZINEは、この小商いの文化ととても近いところにあります。なぜならZINEも、大量に作って大きな流通に乗せるというより、自分の作れる数だけ作り、自分の信じられる距離で届けるものだからです。
手作り市や蚤の市の机の上には、アクセサリー、布もの、焼き菓子、ポストカード、写真、ハーブ、古道具、占い、ZINEが一緒に並ぶことがあります。そこでは、ジャンルの境界がゆるくなります。
これは本なのか。作品なのか。雑貨なのか。日記なのか。商品なのか。手紙なのか。お守りなのか。そうした曖昧さこそが、ZINEらしさでもあります。
ZINEは、単に情報を伝えるためのものではありません。作り手の世界観ごと手渡すためのメディアです。どんな紙を選んだのか。どんなインクで刷ったのか。どんな余白を残したのか。どんな言葉を使ったのか。どんな机に並べたのか。どんな人が売っているのか。それら全部が、ZINEの一部になります。
大量流通の本では、読者は本屋で本を買います。もちろん、それも素晴らしい体験です。けれどZINEでは、読者は作り手に出会うことがあります。その人の声を聞き、その人の机を見る。その人の生活の気配ごと、紙の束を受け取る。
ここに、ZINEと小商いの近さがあります。大きな資本を持たなくてもいい。店舗を構えなくてもいい。大量に作らなくてもいい。自分の作れる数だけ作る。自分の届く範囲に届ける。自分の信じられる距離で売る。
これは、単なる販売ではありません。小さな信頼の流通です。
そして、この「小さな信頼の流通」は、女性たちの文化史とも深く関わっています。なぜなら、女性たちは長いあいだ、家の中の手仕事、近所づきあい、贈り物、手紙、食べもの、看病、世話、噂話、相談といった、制度化されにくい関係性の中で、知恵や感情や技術を手渡してきたからです。
ZINEは、そうした手渡しの文化を、紙の形にしたものでもあります。本と雑貨と作品と生活のあいだで、誰かの世界観が小さく綴じられている。それが、手作り市や蚤の市に置かれたZINEの魅力なのです。
オーガニック、ヨガ、魔女、オカルティズム──身体を取り戻すための小さな知
ZINE文化を女性史として読みなおすなら、オーガニック、ヨガ、ハーブ、月経、占星術、タロット、魔女、ニューエイジ、ウェルネスの文脈も避けて通れません。
ここも、まず言葉を確認しておきます。
オーガニックとは、農薬や化学肥料をなるべく使わない農産物や、それに基づいた生活のあり方を指す言葉として使われます。ただし、単に食品の種類を指すだけでなく、「自然に近い暮らし」「身体にやさしい生活」「環境に配慮した選択」といったイメージと結びついています。
ヨガは、古代インドに由来する身体と精神の実践です。現在では、運動やストレッチ、呼吸法、瞑想、セルフケアとして広く親しまれています。
オカルティズムとは、占星術、タロット、魔術、神秘思想など、近代科学や公的な宗教制度の外側にある神秘的な知の体系を指す言葉です。少し怪しいものとして扱われることもありますが、歴史的には、宗教、哲学、芸術、心理学、民間信仰などと深く関わってきました。
ニューエイジとは、1960年代以降に広がった精神文化の流れで、瞑想、ヨガ、占星術、チャネリング、自然療法、東洋思想、自己変容などを含む広い文化圏を指します。
ウェルネスとは、単に病気ではないという意味の健康ではなく、身体、心、生活、社会との関係を含めて、よりよく生きようとする考え方です。
こうした領域は、とても繊細です。なぜなら、スピリチュアルやオーガニックやウェルネスは、しばしば商業化されやすいからです。身体を整えるための知恵が、自己責任論に変わることもあります。癒しの言葉が、搾取ビジネスに使われることもあります。「自然」「本来の自分」「宇宙」「波動」といった言葉が、人を不安にさせたり、依存させたりすることもあります。
けれど、それでもなお、この領域を単純に切り捨てることはできません。なぜなら、そこには「自分の身体を取り戻したい」という切実さがあるからです。
制度や専門家や医療や家族や社会の言葉だけでは、自分の身体をうまく説明できないことがあります。なんとなくしんどい。なんとなく怖い。なんとなく眠れない。なんとなく食べられない。なんとなく息が浅い。なんとなく、自分が自分の身体から遠い。そういう感覚を、どこに置けばいいのか。
ZINEは、その受け皿になることがあります。
身体の記録。食べもののメモ。ハーブの使い方。月経のノート。夢の記録。タロットの解釈。占星術のメモ。ヨガをしたときの感覚。祈りの言葉。自分を守るための小さな儀式。
それらを集めたZINEは、まるで小さな魔女の本のようです。
ここでいう魔女とは、怪しい存在という意味ではありません。むしろ、制度の外で、生活の知恵を保管してきた存在のことです。魔女は、薬草を知っている。身体の変化を知っている。季節のめぐりを知っている。月の満ち欠けを知っている。痛みを知っている。祈りを知っている。誰にも認められない知を、ひっそりと受け継いでいる。
ZINEもまた、そういう知の保管庫になることがあります。
もちろん、それは科学や医療の代わりではありません。体調が悪いときには、必要に応じて医療につながることが大切です。けれど、科学や医療だけでは拾いきれない身体感覚を、紙の上に置くことはできます。「病名」になる前の違和感、「治療」になる前の不安、「症状」と呼ばれる前の身体の声。そうしたものを、ZINEは記録することができます。
ZINEは、小さな魔女の本である。
それは、制度の外で、自分の身体と暮らしを読みなおすための、手製の知識の束なのです。
「女性的」を美化しすぎない──かわいい、丁寧、自然、癒しの罠
ただし、ここで注意しなければならないことがあります。ZINE文化を女性史として読みなおすことは大切です。けれど、「女性的な文化」を美化しすぎてはいけません。
暮らし。手仕事。ケア。自然。癒し。かわいい。丁寧な生活。オーガニック。小商い。魔女。スピリチュアル。これらの言葉は、魅力的です。でも同時に、とても商品化されやすい言葉でもあります。
「丁寧な暮らし」は、いつのまにか余裕のある人だけができるライフスタイルになることがあります。時間とお金があり、健康で、広い部屋があり、きれいな器を買える人だけが実践できるものになってしまうと、「丁寧さ」は生活の知恵ではなく、階級の印になります。
「手仕事」は、女性の無償労働を美しく見せる言葉になることがあります。料理、裁縫、掃除、看病、育児、介護。そうした仕事は、長いあいだ女性に押しつけられてきました。それをただ「手仕事って素敵」と言ってしまうと、その背後にある負担や不平等が見えなくなります。
「ケア」は、女性が誰かを支えることを当然視する言葉になることがあります。人を気遣うこと、支えること、寄り添うことは大切です。しかし、それがいつも女性にだけ期待されるなら、ケアは優しさではなく、役割の押しつけになります。
「自然」は、医療や制度への不信を煽る言葉になることがあります。「自然なものが正しい」「人工的なものは悪い」と単純に考えてしまうと、必要な医療や支援から人を遠ざけてしまうことがあります。
「癒し」は、苦しみの原因を社会ではなく個人の心に押し込める言葉になることがあります。本当は労働環境や家族関係や社会制度に問題があるのに、「あなたがもっと自分を癒しましょう」と言われてしまう。すると、社会の問題が個人のメンタルケアの問題にすり替えられてしまいます。
「かわいい」は、怒りや政治性を脱色する言葉になることがあります。女性たちが作ったZINEが、怒りや抵抗や批判を含んでいるにもかかわらず、「かわいい紙もの」としてだけ消費されると、その鋭さが見えなくなります。
「スピリチュアル」は、不安な人を依存させるビジネスになることがあります。自分の身体や心を取り戻すための知恵が、いつのまにか高額な講座や商品や資格ビジネスに回収されることもあります。
だから、女性的ZINE文化を語るときには、その美しさだけでなく、危うさも見なければなりません。
ZINEが暮らしを綴じるメディアであるなら、その暮らしは誰のものなのか。ZINEが身体を記録するメディアであるなら、その身体は誰に管理されてきたのか。ZINEが手仕事を大切にするメディアであるなら、その手仕事は誰に押しつけられてきたのか。ZINEが癒しを語るメディアであるなら、その傷はどこから来たのか。
ここを問わなければ、ZINE文化はただの「かわいい紙もの」になってしまいます。
本当は、ZINEにはもっと鋭い力があります。生活を記録することは、生活を支配されないためでもあります。身体を書くことは、身体を他人の言葉に明け渡さないためでもあります。手仕事を残すことは、見えない労働を見えるものにするためでもあります。祈りを書くことは、自分の不安を誰かのビジネスに渡さないためでもあります。
ZINEは、かわいい。でも、かわいいだけではない。ZINEは、丁寧だ。でも、丁寧なだけではない。ZINEは、癒しにもなる。でも、癒しという言葉にすべてを回収されてはいけない。
ZINE文化を女性史として読みなおすとは、そのやわらかさの奥にある怒りや抵抗や疲労や知恵まで、きちんと見つめることなのです。
ZINEと同人誌のあいだで──自主出版史として読みなおす
ここでもう一度、同人誌の話に戻りたいと思います。
ZINE文化を女性史として読むことは大切です。けれど、それによって同人誌文化を切り捨ててはいけません。
ZINEはおしゃれ。同人誌はオタク。ZINEは女性的。コミケは男性的。ZINEは暮らし。同人誌は二次創作。ZINEはアート。同人誌は趣味。こうした雑な切り分けでは、どちらの歴史も見えなくなります。
同人誌文化にも、女性たちの巨大な実践があります。少女マンガ、BL、創作同人、評論、ファン活動、二次創作、カップリング、感想、考察、手紙、ペーパー、コピー本、合同誌。そこには、女性たちが自分の欲望や読解や関係性を、自分たちの形式で形にしてきた歴史があります。
BLとは「ボーイズラブ」の略で、主に男性同士の恋愛や関係性を描くジャンルです。日本の同人誌文化では、女性の作り手や読み手が大きな役割を果たしてきました。BLや二次創作は、単なる娯楽としてだけでなく、女性たちが既存の物語を読み替え、自分たちの欲望や関係性の想像力を表現する場でもありました。
二次創作とは、既存の漫画、アニメ、ゲーム、小説などのキャラクターや世界観をもとに、ファンが新しい物語や絵を作ることです。これもまた、単なる「まね」ではありません。元の作品の中では描かれなかった関係性を考えたり、別の結末を想像したり、脇役に光を当てたりすることで、作品を読み替える行為でもあります。
また、ペーパーという文化もあります。ペーパーとは、同人イベントなどで配られる一枚紙の印刷物です。新刊のお知らせ、近況、ちょっとした漫画、日記、感謝の言葉などが書かれます。本にはならないけれど、作り手の声が直接届く小さな紙です。これは、ZINE的な手渡し文化と非常に近いものです。
コピー本も重要です。コピー本とは、印刷所に頼まず、コピー機で印刷して自分で製本した同人誌のことです。締切ギリギリで作られることも多く、手作り感が強い本です。ホチキス留め、折り本、手書き表紙など、ZINEと見た目がほとんど変わらないものもあります。
こうして見ると、日本において「女性たちが自分たちで冊子を作り、イベントで頒布し、読者と出会う」という実践を考えるなら、同人誌文化を外すことはできません。
ZINEと同人誌は、完全に同じものではありません。それぞれに文脈があります。それぞれに文化圏があります。それぞれに言葉の使われ方があります。けれど、重なっている部分も大きいのです。
どちらも、自主制作の出版物です。どちらも、商業流通の外側に場を作ります。どちらも、個人的な欲望や違和感を紙にします。どちらも、作り手と読み手の距離が近い。どちらも、印刷、製本、頒布、手渡しの文化を持っています。
だからこそ、ZINE文化を語るときには、同人誌、ミニコミ、リトルプレス、手作り市、フェミニストZINE、カメラ女子文化、魔女的な生活記録を、別々のものとして切り離しすぎない方がいいのです。
それらは、互いに違いながらも、同じ問いを共有しています。
誰が語るのか。誰が作るのか。誰に届けるのか。どの流通に乗るのか。どの言葉で名づけられるのか。どの歴史から消されるのか。
ZINE文化を女性史として読みなおすとは、同人誌文化を否定することではありません。むしろ、ZINEと同人誌とミニコミを、もう一度「自主制作出版史」という大きな地図の上で接続しなおすことです。そして、その地図のなかに、これまで周縁に置かれてきた暮らし、身体、手仕事、ケア、祈り、欲望の線を描き込むことなのです。
ZINEは、暮らしを綴じるための文化である
ZINEとは何か。
小冊子。自主制作出版。コピー本。リトルプレス。ミニコミ。同人誌。アートブック。写真集。エッセイ集。手紙。日記。作品集。記録。お守り。魔女の本。
どれも正しい。けれど、どれだけ言葉を並べても、ZINEの全部を言い切ることはできません。
ZINEは、形式であると同時に、態度です。
大きな出版社に選ばれなくても、自分で作る。社会に意味があると認められなくても、自分で残す。誰かに価値を保証されなくても、自分で綴じる。大きな声にならなくても、届く人に手渡す。その態度が、ZINEをZINEにしています。
そして、女性史としてZINEを読みなおすとき、その態度はとても切実なものになります。
女たちは、暮らしを綴じてきました。身体を綴じてきました。怒りを綴じてきました。祈りを綴じてきました。手仕事を綴じてきました。友情を綴じてきました。欲望を綴じてきました。名前のつかない感情を綴じてきました。
それは、立派な本ではなかったかもしれません。歴史に残る文学ではなかったかもしれません。大きな賞を取る作品ではなかったかもしれません。でも、それらは確かに、誰かの生活を支える小さな本でした。
ZINEは、暮らしを綴じるための技術です。身体を記録する方法です。手仕事を言葉にする器です。制度の外に小さな知を置くための場所です。
ZINEは小さな魔女の本である。
そこには、暮らしの呪文があります。食べること、眠ること、撮ること、書くこと、縫うこと、売ること、祈ること、怒ること、泣くこと、思い出すこと、誰かに手渡すこと。それらを、誰かに許可される前に、自分たちの手で綴じてきた女たちの歴史があります。
ZINE文化を女性史として読みなおすとは、その小さな紙の束の中に、これまで周縁化されてきた生活の知を見つけなおすことなのです。
そして、それはたぶん、これからZINEを作る人にとっても大切な視点です。
ZINEを作るということは、何か立派なものを作ることではありません。自分の暮らしの中で、まだ名前のついていないものを見つけることです。誰かにとってはくだらないことでも、自分にとっては残しておきたいことを、紙の上に置いてみることです。自分の身体、自分の生活、自分の違和感、自分の好きなものを、誰かの評価の前に、自分の手で綴じてみることです。
だから、ZINEは小さい。けれど、その小ささの中には、歴史があります。
女性たちの声があります。手仕事の記憶があります。怒りがあります。癒しがあります。危うさがあります。祈りがあります。商業出版には乗らなかった、けれど確かに誰かの生活を支えてきた、小さな知があります。
ZINEとは、その小さな知を綴じるための文化なのです。
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