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それでも、続きを描く ──半木糺『全ての生者たちへの言葉』を読んで

半木糺さんがnoteに書かれた「全ての生者たちへの言葉──アニメーション映画『ルックバック』が私たちに投げかけるもの──」を読んで考えたことです。
『ルックバック』については、オイラも以前、映画を観た直後に感想を書いていました。今回、半木さんの文章を読んで、同じ作品を観ながら、同じところに目を留め、それでも少し違うことを考えていたのが面白く、昔の自分の感想を読み返してみることにしました。

これは『ルックバック』についてもう一度書いた感想文であると同時に、半木さんの文章への応答でもあります。二つの文章を行き来しながら読んでいただければ嬉しいです。

*この記事は、半木糺氏による「全ての生者たちへの言葉──アニメーション映画『ルックバック』が私たちに投げかけるもの──」を読んで書いた応答文です。
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目次

「生き続ける」と「作り続ける」

半木糺さんの『全ての生者たちへの言葉──アニメーション映画『ルックバック』が私たちに投げかけるもの──』を読んだ。

『ルックバック』については、オイラも以前、映画を観た直後に感想を書いている。そのとき、最後に一人で机に向かい、再び描き続ける藤野の後ろ姿を見て、こんなことを書いた。「クリエイターは作る事でしか救われない。」半木さんもまた、同じ後ろ姿を見ている。しかし、そこから読み取ったものは少し違っていた。

半木さんは、京本を失った藤野について、「絶望を乗り越えた」わけではないと書く。京本は帰ってこない。二人で過ごした日常も戻ってこない。失われた未来も取り返すことができない。その空洞を埋めるのではなく、空洞を抱えたまま、それでも藤野は日常へ戻り、筆を取る。この「乗り越えない」という読み方には、とても共感する。

オイラも以前の感想で、藤野が想像の中で京本を救い出す場面について考えていた。作家には世界を描く想像力がある。藤野なら、京本が死ななかった世界だって描くことができる。しかし、作品を描くことと現実を作り替えることは違う。どれほど救いのある世界を想像しても、現実の京本は帰ってこない。だからこそ、あの想像の世界は「京本を救う」というより、「それでも私は二人で作品を作りたかった」「二人で作った時間を、なかったことにはしたくない」という藤野自身の思いを描いたものなのではないかと、当時のオイラは考えた。

半木さんの文章を読みながら、改めて面白いと思ったのは、その先だった。半木さんは、藤野が再び筆を取る姿から、クリエイターだけではなく「全ての生者」へと話を広げていく。人間は生きている限り、いつか必ず誰かを失う。死者と生者の断絶は埋められない。それでも、生者は日常を生き続けなければならない。半木さんはそれを「生者の責務」とまで呼んでいる。

そこで、昔の自分が書いた文章を読み返してみる。オイラもまた、「クリエイターは作る事でしか救われない」「作家はどんなに辛くても作り続けなきゃいけない」と書いていた。ずいぶん強いことを言っている。では、半木さんの言う「生き続けなければならない」と、オイラが書いた「作り続けなければならない」は、同じことなのだろうか。今になって考えると、少し違うように思う。

誰かが死者を持ち出して「あなたには生きる責務がある」と生者に命令することには、オイラは躊躇する。死者と生者の間に本当に埋めることのできない断絶があるのなら、死者が生者に「私の分まで生きろ」と命令していると決めることもできないからだ。それでも、かつてのオイラは「作り続けなければならない」と書いた。たぶん、あれは外から課される義務について書いたのではなかった。作らなければ罰せられるからでも、死者に申し訳がないからでもない。作ることによって失ったものを取り戻せるからでもない。むしろ、取り戻せないから作るのだ。

藤野は京本を生き返らせることができない。二人で描いていた時間へ戻ることもできない。それでも、その時間が確かに存在したことは消えない。京本と出会い、二人で描いたことによって藤野自身も変わってしまった。だから京本のいない世界で藤野が描く漫画の中にも、京本と過ごした時間は残り続ける。失ったものを克服するのでも、忘れるのでも、元に戻すのでもない。失ったものによって変えられてしまった自分として、その後を生きる。オイラが「クリエイターは作る事でしか救われない」と書いたのは、そういう意味だったのかもしれない。

そして半木さんの文章を読んで気づいたのは、これはクリエイターだけの話ではないということだった。オイラは以前、『ルックバック』を「応援してくれる人と応援したい人の物語」だとも書いた。クリエイターは一人ではクリエイターになれない。描いたものを見る人がいる。追いかける背中がある。「先生」と呼んでくれる誰かがいる。悔しいと思わせる誰かがいる。もう辞めようと思ったとき、もう一度こちら側へ引き戻してくれる誰かがいる。

だからこの映画で本当に失われたものは、一人の才能だけではないのだと思う。藤野が失ったのは京本という一人の人間であると同時に、二人の「あいだ」にしか存在しなかったものでもある。一緒に漫画を描いたこと。褒められたこと。追いかけられたこと。必要とされたこと。二人で見た景色。二人だから生まれた作品。その関係は、京本の死によって断絶する。けれども、その関係によって生まれた藤野まで、元の藤野に戻るわけではない。だから藤野は、一人になっても描く。

そう考えると、半木さんが「日常を生きること」と呼んだものと、オイラが「作り続けること」と呼んだものは、かなり近いところにある。ただ、オイラはそれを「死者に対する責務」と言い切るより、「残されたものを引き受けること」と呼びたい。人は誰かと出会ってしまう。誰かに影響されてしまう。一緒に何かを作ってしまう。そしていつか、その関係が失われることもある。失われたからといって、それ以前の自分へ戻ることはできない。だったら、その人によって変わってしまった自分として、その後の日常を生きるしかない。

クリエイターなら、描く。作家なら、書く。そうではない人なら、その人の日常を続ける。それは「死者のために生きなければならない」ということとは、少し違う。死者を忘れて前へ進むのでもない。死者の代わりに生きるのでもない。死者によって生を統治されるのでもない。死者とのあいだにあったものを抱えたまま、生者として自分の生を引き受ける。

以前のオイラは、『ルックバック』を「クリエイターにとっての希望は、クリエイターで居続けることだ」と結んだ。半木さんの文章を読んだ今なら、そこにもう一つ付け加えたい。作り続けることが希望なのは、それによって失ったものを取り戻せるからではない。取り戻せないものが確かに存在したことを抱えたまま、それでも自分ではない何かに自分の人生を明け渡さず、今日の続きを生きることができるからなのだと思う。

だから、やっぱりあの最後の後ろ姿が好きだ。京本はいない。絶望も消えていない。世界は何も元通りになっていない。それでも藤野は、描いている。半木さんがそこに「全ての生者たちへの言葉」を見たのなら、オイラはそこに、生者と死者の断絶を埋めないまま、それでも残されたものを引き受けて生きていく人間の姿を見る。乗り越えなくてもいい。忘れなくてもいい。なかったことにもしなくていい。それでも、続きを描くことはできる。

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