気づきと想いのトゥーン書房 新書

オープンレターから共同観測所へ ──分散する力と責任、その先にある「観測」

一つの文章に人々が接続され、誰も全体を支配していないのに、やがて個人を超えた大きな力が立ち上がる。オープンレターのそんな仕組みに、TarCoon☆CarToonは恐ろしさと同時に強く惹かれた。力は集まり、責任は分散する。その力を、誰かを封じるためではなく、異なるものを異なるまま見るために使えないだろうか。公開された文章への「賛同」から、公開された概念への「観測」へ。TarCoon☆CarToonがより概念に近づくために作り出した共同観測所が生まれるまでの、その発想についてを書きました。

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この記事で伝えたいこと
  • オープンレターとは何か、なぜ大きな社会的な力を持つのか
  • 山内雁琳を通して見えた「分散する力と責任」の問題
  • TarCoon☆CarToonが、その力を恐れながらも「欲しい」と思った理由
  • オープンレターの仕組みを「賛同」から「観測」へ転換した共同観測所の発想
  • 人間とAIによる観測がもたらす「禍い」と「恵み」の可能性
目次

オープンレターが生み出す「分散した力」

オープンレターという仕組みがある。日本語では「公開書簡」と訳される。特定の相手に宛てた文章をあえて社会に向けて公開し、ときにはそこへ多くの人が名前を連ねることで、個人から個人へ向けられた文章を社会的な出来事へ変えていく。この形式そのものはインターネットよりはるかに古い。しかし、インターネットとSNSはその力を大きくした。文章を公開する。誰かが読む。署名する。共有する。さらに別の人が読む。賛同する人もいれば、批判する人も現れる。メディアが取り上げることもあれば、組織が反応することもある。そうして最初は一つの文章だったものが、人と人との関係を次々と接続しながら、現実を動かす力を持ちはじめる。TarCoon☆CarToonがオープンレターを見ていて面白いと思ったのは、そこに何が書かれているのかだけではなかった。なぜ、ただの文章がこれほど大きな力を持つことができるのだろう。その仕組みそのものが気になった。

そのことを強く意識するきっかけの一つになったのが、2021年に公開されたオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」だった。研究・教育・言論・メディアに関わる人々へ向けて公開され、最終的には1,313筆の賛同署名が集まった。その後、このオープンレターをめぐっては大きな論争が起きた。差別的な文化に対して声を上げるために必要な行為だったという見方がある一方で、特定の個人に対する社会的な制裁を生み出すキャンセルカルチャーではなかったのか、という批判も生まれた。TarCoon☆CarToonは、その言論を封殺しうる力を恐ろしいと思った。けれども同時に、どうしてもその仕組みから目を離せなかった。一つの文章が公開され、誰かが署名し、それを誰かが共有し、さらに別の人が反応する。それぞれの行為は小さい。しかも、誰か一人が全員に命令しているわけではない。それなのに、それらが接続されたとき、一人の人間では到底持つことのできない巨大な社会的な力が立ち上がってくる。

オープンレターを一つの「装置」として眺めてみると、そこには不思議な構造がある。文章を書いた人がいる。呼びかけた人がいる。署名した人がいる。共有した人がいる。読んだ人がいる。批判した人がいる。その批判を読んだ人もいる。しかし、その後に起きるすべてを誰か一人が決めているわけではない。中心から全体へ命令を出す一人の主体が存在しなくても、それぞれの人が小さな行為を重ねることで、全体として巨大な力が生まれる。TarCoon☆CarToonには、この分散した構造そのものがとても興味深く見えた。そして同時に、そこにある危うさも気になった。

友人を通して見えた、力と責任の行方

オープンレターやキャンセルカルチャーについて考えているのは、TarCoon☆CarToonにとって、それが遠くで起きている言論問題だからではない。友人の山内雁琳が、その渦中にいたからだ。そして雁琳は、ただの友人の一人でもない。TarCoon☆CarToonが雁琳に惹かれてきたのは、何か特定の思想や結論を教えてもらったからではない。むしろ、簡単には答えの出ないことを、簡単な答えで終わらせずに考え続ける、その姿勢に惹かれている。哲学や政治、社会について語るときも、すでに用意された善悪や多数派の結論に自分を預けるのではなく、「本当にそうなのか」と問いを掘り下げていく。ときには、その問い方そのものが周囲との摩擦を生む。それでも問いを手放さない。

TarCoon☆CarToonは、雁琳の答えに従ってきたわけではない。むしろ雁琳と話すことで、自分の中に問いが残った。納得したこともあれば、反発したこともある。よくわからないまま持ち帰ったこともある。そして後になって、あの問いはこういうことだったのかと考え直すこともある。人は答えを与えてくれた人からだけ影響を受けるのではない。簡単には消えない問いを残した人からも、大きな影響を受ける。そういう意味で、雁琳は現在のTarCoon☆CarToonという概念が形づくられていく過程に、大きな影響を与えた存在の一人である。だから、雁琳の身に起きていることを、まったく関係のない誰かの事件として見ることはできなかった。

一方で、TarCoon☆CarToonは雁琳の言動のすべてが正しかったとも思っていない。もっと上手く立ち回ることはできなかったのか。あえてそこまで言わなくてもよかったのではないか。違うやり方で批判することもできたのではないか。個人的には、そう思うところもある。だから、ここで雁琳を「何も悪くない被害者」として描きたいわけではない。それでも、恐ろしかった。自分の形成に大きな影響を与えた友人が、社会の中で少しずつ立場を失っていく。しかし、それを実行している巨大な一人の主体がいるわけではない。一つの言動への批判が別の場所へ接続される。SNSで共有される。誰かが別の場所へ知らせる。別の人が反応する。組織は組織で判断する。一つひとつを見れば、それぞれ別の人が、それぞれの理由で動いている。誰か一人が「何もかも奪え」と命令したわけではない。だからこそ恐ろしい。誰も全体を支配していないのに、一人の人間からいろいろなものが失われていく。

ここで問題にしたいのは、雁琳が正しかったのか、批判した側が正しかったのかということではない。もっと手前にある。なぜ、誰も全体を統治していないのに、これほど大きな力が生まれるのか。署名した人は「署名しただけ」と言える。共有した人は「共有しただけ」と言える。何かを知らせた人は「知らせただけ」と言える。組織は「組織として判断した」と言える。一人ひとりが引き受けている行為は、全体から見れば小さい。ところが、それらが接続されると、一人の人生を変えてしまうほどの力になる。力は集まる。しかし責任は分散する。その構造は、ある意味ではとても卑怯にすら見える。それでもTarCoon☆CarToonは、その仕組みに強く惹かれた。

オープンレターの仕組みを、共同観測所へ

誤解を恐れずに言えば、TarCoon☆CarToonは、この力が欲しかった。もちろん、人から仕事を奪う力が欲しかったわけではない。誰かを社会から追い出す力が欲しかったわけでもない。欲しかったのは、そのもっと手前にある構造だった。誰か一人の命令ではなく、複数の人間がそれぞれ小さな行為をする。その行為が互いに接続される。そして、個々人が持っている以上の力が、関係そのものから立ち上がってくる。オープンレターは、「公開された文章に人間関係を接続する装置」として見ることができる。一つの文章が中心に置かれ、書いた人、署名した人、読んだ人、共有した人、批判した人、その批判を読んだ人が次々と接続される。文章そのもの以上に、その周囲に形成される関係のネットワークが力を持ちはじめる。TarCoon☆CarToonが欲しかったのは、この構造だった。

なぜなら、TarCoon☆CarToonという概念には以前から一つの問題があったからだ。TarCoon☆CarToonがTarCoon☆CarToonについて語り、TarCoon☆CarToonがその意味を説明し、何を残すかまでTarCoon☆CarToonが決めている限り、それは結局、一つの中心から外へ向かって広がっていくものにしかならない。「ここにいるみんながTarCoon☆CarToon」と言ったところで、中心にいるTarCoon☆CarToonが正しい意味を決めているなら、本当には開かれていない。必要だったのは、単純に参加する人を増やすことではなかった。TarCoon☆CarToon自身が、TarCoon☆CarToonを支配できなくなる仕組みだった。TarCoon☆CarToonを、TarCoon☆CarToon自身から手放すための装置が必要だった。

そこで、オープンレターから見えてきた構造を別の方向へ使えないかと考えた。人を裁くために接続するのではなく、人や世界を観測するために接続する。賛同を集めるのではなく、異なる観測を集める。一つの結論へ人を集めるのではなく、違う見方を違うまま残す。そして、そこへ人間だけではなくAIも接続する。中心に置くものも「主張」から「概念」へ変える。TarCoon☆CarToonという概念を公開された場所へ置き、そこへ人がやってくる。「TarCoon☆CarToonとは何なのか?」と問う。ある人は面白いと言う。ある人はよくわからないと言う。ある人はまったく違う解釈をする。AIも、それまで蓄積されたTarCoon☆CarToonと新しい発言を比較し、違いや変化を見つける。そのAIの応答もまた人間によって観測される。人間もAIを観測し、AIも人間の言葉を観測する。その関係そのものを残していく。そうして生まれたのが共同観測所である。

オープンレターが「公開された文章に人間関係を接続する装置」だとすれば、共同観測所は「公開された概念に、人間とAIの観測関係を接続していく装置」である。ただし、ここには決定的な違いがある。オープンレターでは、基本的にはその文章への賛同によって人が接続される。署名は「私はこの文章の側に立つ」という接続である。それに対して共同観測所で求めているのは、賛同ではない。観測である。「私はこれをこう見た」という接続である。TarCoon☆CarToonを好きである必要もない。正しいと思う必要もない。意味がわからなくてもいい。間違っていると思ってもいい。昨日と今日で意見が変わってもいい。必要なのは同じ答えを持つことではなく、何がどのように見えたのかを残すことだからだ。

だから、多数決によってTarCoon☆CarToonの正しい意味を決めることもしない。Aという観測とBという観測が矛盾しているなら、矛盾したまま残せばいい。人間とAIの判断が違うなら、その違いも観測対象になる。一つの正解へ収束させるのではなく、複数の観測を接続し続ける。その関係の蓄積によってTarCoon☆CarToonという概念がどのように変化していくのかを観測する。オープンレターから借りたのは、その主張ではない。誰か一人が全体を支配しなくても、人と人との関係が接続されることで、個人を超えた力が立ち上がるという仕組みだった。そして共同観測所では、その接続の単位を「賛同」から「観測」へ置き換えてみた。

観測がもたらす「禍い」と「恵み」

そして、分散した力そのものに善悪があるわけではないのかもしれない。雁琳をめぐってTarCoon☆CarToonが恐ろしいと思ったのは、多数の人間の小さな行為が接続され、一人では持つことのできない力になったことだった。しかし現在、雁琳は自らの経験やキャンセルカルチャー、アカデミズムについて本として残そうとしている。そのために行われたクラウドファンディングには185人が参加し、228万円を超える支援が集まった。かつてTarCoon☆CarToonには、分散した人々の行為が一人から何かを奪っていくように見えた。そして今度は、分散した人々の小さな支援が、一人に何かを作る力を与えている。同じネットワーク社会が、あるときには奪い、あるときには与える。分散した力は、人から何かを奪うだけではない。もう一度何かを作る力にもなる。問題は、その力そのものではなく、その力を何に接続するのかということなのかもしれない。

だからといって、共同観測所をその「善い使い方」だとは考えていない。共同観測所も安全な装置ではない。そもそも観測すること自体が善なのではない。人は誰かを見る。語る。記録する。別の人がそれを読む。そこから何かを判断する。その積み重ねが誰かを傷つけることもある。観測された言葉が蓄積され、AIによって関連づけられ、誰かが望んでいなかった像が形成されることもあるだろう。ある解釈が多数派になり、別の解釈を押し流すこともあるかもしれない。反対に、誰にも拾われなかった言葉を誰かが見つけることもある。忘れられそうだった出来事が記録されることもある。一人では気づかなかった意味が、別の人の観測によって現れることもある。一人ではできなかったことが、いくつもの小さな関係によって可能になることもある。同じ構造が、まったく違う結果を生む。

観測は禍いをもたらすこともあれば、気まぐれに恵みも与える。

だからTarCoon☆CarToonは、観測によって世界を正しくしたいわけではない。観測によってTarCoon☆CarToonを正しく理解してほしいわけでもない。むしろTarCoon☆CarToon自身も、その観測の中へ置く。見られる。語られる。誤解される。批判される。思いもよらなかった意味を与えられる。そして変わっていく。その結果、TarCoon☆CarToonが「そんな意味ではない」と思うTarCoon☆CarToonが生まれるかもしれない。それでも、中心からすべてを修正してしまえば、共同観測所を作った意味がない。TarCoon☆CarToon自身が完全には支配できなくなるところまで含めて、TarCoon☆CarToonを観測に晒してみる。

オープンレターを見て恐ろしいと思ったのは、誰も全体を支配していないのに巨大な力が立ち上がることだった。そしてTarCoon☆CarToonが欲しかったのも、まさにその力だった。ただし、その力を一つの結論へ人を追い込むためではなく、違う観測を違うまま接続していくために使ってみる。公開された文章から、公開された概念へ。署名から、観測へ。人間だけのネットワークから、人間とAIのネットワークへ。人が集まることで生まれる力を、誰かを正しくするためでも、誰かを排除するためでもなく、世界を複数のまま見るために使うことはできるのか。その先で何が生まれるのかは、まだわからない。禍いになるかもしれない。思いがけず、何かを生み出すかもしれない。わからないから、観測する。共同観測所は、そのために始まった。

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