距離感がバグってる人から、突然なんの脈絡もなくDMが届いた。会ったこともなければ、オンラインでやり取りをしたこともない方からだった。
「こんにちは😃blog書きました📚良かったら読んでください🌟」
なぜオイラに送ってきたのだろう、と思いつつも、「読んでください」と言われ、実際に読んでしまった以上、ただ既読のまま通り過ぎるのも違う気がした。距離感がバグってるなら、こっちもバグり返したれ。そんな思いで、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』について書かれた二つの感想文への応答を書いてみることにした。距離感がバグった出会いだからこそ、これは人との距離感の話としても読めるのではないか。そう思ったのだった。
*この記事は、maoblogに掲載された映画『サタデー・ナイト・フィーバー』についての二つの感想文への応答文です。まずは、ぜひ元の二つの記事をお読みください。あわせて、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』も、可能であればあらためて観てみてください。
近すぎる関係の中で、距離を測り直す
映画『サタデー・ナイト・フィーバー』についての二つの感想文を読んで、まず感じたのは、これは単なる映画考察というより、映画を通じて自分の人生の位置を測り直そうとする文章なのだな、ということだった。最初の感想文では、筆者は主人公トニー・マネロではなく、兄のフランクに自分を重ねている。家族から期待され、司祭という「正しい」とされる道を歩んできたフランクが、その道を離れ、自分自身の人生を選び直そうとする。その姿に、筆者自身の「他人の正解から自分の正解へ移行する」という課題が重ねられている。続く感想文では、視点はもう少し作品全体へ広がっている。『サタデー・ナイト・フィーバー』は、単なるディスコ映画ではなく、未熟な若者が自分の未熟さに気づいていく物語として読まれている。ただし、それは成功物語ではない。トニーは階級を越えたわけでもなく、経済的に救われたわけでもなく、成熟した大人として完成したわけでもない。ただ、自分が生きてきた世界の狭さや、仲間たちの限界や、自分自身の未熟さに気づいてしまう。
この二つの感想文は、別々のことを書いているようで、実は同じ問いを見ているのだと思う。人は、他人から与えられた正解の中で、どこまで生きられるのか。そして、自分の正しいと思う道に気づいてしまったあと、もう同じ場所に戻れるのか。筆者がフランクに自分を重ねたことは、とても自然なことのように思えた。なぜなら、フランクは物語の中心で踊る人間ではないからだ。彼はトニーのように光を浴びるわけではない。ダンスフロアの中心に立つわけでもない。けれど、トニーの姿を見ることで、自分自身の人生を選び直す必要に気づいていく。つまり、フランクは「表現する者」ではなく、「表現する者を見てしまった者」なのだと思う。人は、自分自身がトニーのように踊れなくても、誰かが自分の身体で、自分の表現で、自分の人生を生きようとしている姿を見ることで、揺さぶられることがある。あの人が自分の道を生きているのなら、自分もまた、誰かに与えられた正しさだけで生き続けなくてもよいのではないか。そう思ってしまうことがある。
一方で、続く感想文が面白いのは、そこからさらに一歩進んで、トニー自身の未熟さにも目を向けているところだ。トニーは誰かを勇気づける存在であると同時に、決して完成された人間ではない。むしろ、かなり未熟で、狭く、傷ついていて、同時に誰かを傷つける側にもいる。だから、この映画を「自分の道を生きろ」という明るいメッセージだけで受け取ることはできない。自分の道を生きることは美しい。けれど、それは他人を傷つけてもよいということではない。自分の正しさを選ぶことは大切だ。けれど、その正しさが本当に自分だけの独善になっていないかは、何度も問い直さなければならない。ここに、『サタデー・ナイト・フィーバー』の冷たさがあるのだと思う。気づけば救われるわけではない。自分の道に気づけば、すぐに世界が開けるわけでもない。階級も、貧しさも、家族も、地元の空気も、仲間たちとの関係も、そのまま残り続ける。それでも、気づいてしまった人間は、もう以前と同じ顔では戻れない。
この「戻れなさ」が、二つの感想文をつないでいる。最初の感想文では、フランクが「他人の正解」から離れようとしている。続く感想文では、トニーが「自分たちの世界の狭さ」に気づき始めている。片方は、与えられた正しさからの離脱であり、もう片方は、近すぎる共同体からの距離の取り直しである。そして、そこにオイラ自身の感覚も少し重なった。小学校や中学校の頃の同級生と久しぶりに会うことがある。当時はヒーローのように見えていた人たち、憧れだった人たちと飲みに行くと、なんだか不思議な気持ちになる。あの頃のままの空気が残っていて嬉しい。遠い存在だと思っていた人たちが、実はこんなに近くにいたのだとわかって嬉しい。けれど同時に、自分の世界は広かったとか狭かったとか、そういうことだけではなかったのかもしれない、とも思う。むしろ世界の形は、関係の近さによってできていたのではないか。
遠いと思っていた人が、実はそばにいた。広い世界だと思っていたものが、実は近い関係の中にあった。逆に、遠くへ行くということは、広い場所へ出ることではなく、周りの人との関係を一度突き放すことなのかもしれない。そう考えると、トニーにとってのブルックリンも、ただ狭い場所だったわけではないのだと思う。そこには仲間がいて、承認があり、自分を特別な存在として見てくれる人たちがいて、ダンスフロアという小さな王国がある。そこは檻であると同時に、彼を支えてきた場所でもある。だから、そこから離れることは、単に広い世界へ出ることではない。近すぎた関係から、自分を少し引きはがすことでもある。世界が狭いのではなく、関係が近すぎる。この言い方のほうが、今のオイラにはしっくりくる。
近い関係の中にいると、人は安心できる。昔のあだ名、昔の役割、昔の立ち位置。それらは時に優しい。自分を覚えていてくれる人がいることは、救いでもある。けれど同時に、その近さは、自分が変わることを許さない鎖にもなる。トニーが感じていた息苦しさも、たぶんそこにある。彼はブルックリンをただ嫌っていたわけではない。仲間たちをただ捨てたかったわけでもない。地元で輝いていた自分を、まったく嘘だと思っていたわけでもない。むしろそこには、彼を支えていたものが確かにあった。だからこそ苦しい。自分を作ってくれた場所から離れなければ、自分は変われない。けれど、その場所を否定してしまえば、自分の一部まで失ってしまう。フランクもまた、同じなのかもしれない。司祭という道は、彼にとってただの間違いだったわけではないはずだ。そこには家族の期待があり、社会的な尊敬があり、自分が正しいことをしているという感覚もあったのだと思う。だからこそ、そこを離れることは、単なる自由ではなく、自分を形づくってきたものとの距離を測り直すことでもある。
この二つの感想文を読んで、オイラは『サタデー・ナイト・フィーバー』を、踊る若者の映画としてではなく、人が自分を作ってきた場所との距離を測り直す映画として受け取り直してみたくなった。ダンスフロアは、トニーにとって一瞬だけ別の評価軸が立ち上がる場所だった。日常の世界では、学歴や仕事や家柄や階級が人間を測る。けれどダンスフロアでは、踊れる者が見られる。そこでは一瞬だけ、普段の社会とは違う秩序が生まれる。けれど、その光は彼を完全には救わない。むしろ光を浴びたからこそ、その光が届かない場所の暗さにも気づいてしまう。踊ることで自由になるのではなく、踊ることで自分の檻の形に気づいてしまう。そしてその檻とは、単に階級や貧困のことだけではない。自分を知っている人たち。自分を昔のまま見てくれる人たち。自分をヒーローにしてくれた場所。自分を変わらないまま閉じ込めてしまう優しさ。そういう近さのすべてが、人を支えもするし、縛りもする。
もちろん、トニーたちを「未熟な若者」として見るだけでは、少し優しすぎるのかもしれない。彼らは閉じた環境の中で傷ついている若者であると同時に、誰かを傷つける側にもいる。特に女性たちへの視線や扱い方には、単なる未熟さでは片づけられない暴力性がある。人が自分の未熟さに気づくということは、自分が傷つけられてきたことに気づくだけではない。自分が誰かを傷つけてきたことにも気づくことなのだと思う。そこまで含めて、この映画の「気づき」は、決してきれいなものではない。気づくことは、希望でもある。けれど同時に、自分の醜さや加害性を見てしまうことでもある。だから痛い。痛いからこそ、始まりになる。
二つの感想文に寄り添うなら、オイラはこの映画の希望を、「自分の道を選べば救われる」というところには置きたくない。むしろ、他人の正解から離れることも、近すぎる関係から距離を取ることも、自分の未熟さに気づくことも、すべては痛みを伴うのだと思う。それでも、人はどこかで、自分が正しいと思うことを選ばなければ、精神的に生き延びられない時がある。けれど、その「自分の正しさ」は、他者を傷つける免罪符ではなく、自分がどこに立ち、誰との距離をどう測るのかを引き受けることでもある。『サタデー・ナイト・フィーバー』をだいぶ昔に見た時、オイラはそこまで考えていなかったと思う。もう一度見直すと、きっとまた違った感想になるのだろう。若い頃には、トニーがどこか遠くへ行こうとしている話に見えたかもしれない。でも今なら、彼が遠くへ行きたかったというより、近すぎる関係の中で息ができなくなっていたのかもしれない、と感じる気がする。
遠くへ行くことは、広い世界を手に入れることではなく、誰かとの距離を取り直すことでもある。その距離の取り方を間違えると、人は孤独になる。けれど、距離を取らなければ、自分が変わることもできない。希望は、そこから完全に逃げ出すことではないのかもしれない。希望は、その近さを否定せずに、距離を測り直すことにあるのかもしれない。フランクは、与えられた正しさから距離を取ろうとしている。トニーは、自分を輝かせてくれた場所の狭さに気づき始めている。どちらも、完全に救われたわけではない。けれど、もう同じ場所には同じ顔で戻れない。その小さな不可逆さの中に、この映画の冷たさと、わずかな希望があるのだと思った。
ちゃんと見直します。
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