友達の誕生日にはドーナツを贈り、読んでいた小説「冒険者カールの地球ダンジョン」にはプリンセス・ドーナツという猫が現れ、国立国際美術館で展示されてた笹本晃の作品ではドーナツの穴を消そうとしているし、おまけにショート動画を開けば化物語の忍野忍がドーナツのゴールデンチョコレートを「ぱないの!」と言って頬張っている。ここまで重なると、「お前、次はドーナツの話を書くんだろ?」とAIに誘導されている気さえしてくる。
そんな最中に読んだのが、吉川弘晃先生の『越境者ラデク』の書評だった。
結果から言えば、この文章もドーナツの話になってしまった。ただし、ミスタードーナツの話ではない。革命家を読んでいたはずなのに、気が付けば「人と人をつなぐ」とは何かを考えていた。その記録である。
*この記事は、『週刊 読書人』(2026年7月10日号)掲載の、吉川弘晃氏による書評「嫌悪と侮辱を集める『大物』の前半生──ラデクの姿をとおして東欧世界の奥行きを提示する」(米田綱路著『越境者ラデク──ロシア革命までの東欧世界1885-1917』書評)を読んで書いた感想文です。
*書評本文をご覧になりたい方は、『週刊 読書人』2026年7月10日号のバックナンバーをご購入ください。1部から購入可能(600円程度)です。
*この記事では書評の内容を踏まえつつ、そこから広がったオイラ自身の感想を書いていますので、ぜひ原文とあわせてお読みいただくことをおすすめします。
オイラもドーナツを焼きたい
吉川弘晃先生が、TarCoon☆NetWorkでご自身が書かれた書評を紹介してくださった。週刊 読書人に掲載された、米田綱路著『越境者ラデク──ロシア革命までの東欧世界1885-1917』の書評である。紹介文を見た時は、「ロシア革命のラデクの話かぁ〜」と思った。普段なら自分から手に取ることはない分野だ。しかし、いつも吉川先生が話してくださるロシアの話は、遠い国の歴史ではなく、人間そのものを考えさせられる。「今度また、吉祥寺でロシア料理でも食べながら詳しく聞いてみたいな」。そんなことを思いながら読み始めた。
ところが、読み終えた時に頭の中へ残っていたのは、ロシアの話でもラデクという革命家でもなかった。
「ラデクは、いわばドーナツ焼きだ。」
革命家をドーナツに喩える。このあまりにも奇妙な一文が、書評全体をさらっていってしまったのである。
もちろん、この書評はラデクという人物そのものも実に魅力的に描いている。民族も国家も党派も軽々と越境しながら革命前夜のヨーロッパを駆け巡り、人使いは荒く、知性をひけらかし、敵を作っては組織を追われ、それでもまた別の場所で人を惹きつけてしまう。普通なら「困った人物」で終わってしまいそうな人なのに、彼の周囲ではいつも人が集まり、思想が交わり、歴史が動き始める。その姿を読んでいるうちに、オイラは自分の周りにいる越境者たちの顔を思い浮かべていた。器用に境界を渡れる人ばかりではない。むしろ、不器用だからこそ自分の世界を飛び出し、追い出され、出禁をくらい、違う文化や違う価値観へ手を伸ばそうとする人たちである。越境とは能力ではなく姿勢なのだと、改めて思わされた。
しかし、それでも最後まで頭から離れなかったのは、「ドーナツ焼き」という言葉だった。書評の中で描かれているのはラデクという一人の人物でありながら、本当に浮かび上がってくるのは、ラデクが結び付けた人々であり、ラデクが横断した土地であり、その結果として動き始めた歴史である。一人の人間を描きながら、一人では決して成立しない世界を激動の歴史が重なるように勢いよく変化していく様を描いている。そのことに気付いた時、「ドーナツ」という比喩が急に輪郭を持ち始めた。
人はドーナツを見ると、生地を見る。チョコレートが掛かっているのか、砂糖がまぶしてあるのか、どんな味なのかを考える。しかし、ドーナツをドーナツたらしめているのは、生地ではない。真ん中に空いた穴だ。もし穴がなければ、それは揚げパンであって、もうドーナツではない。もちろん、穴そのものは食べることもできない。ただの空白であり、何も存在していない箇所である。それでも、その空白があるからこそ、生地は輪となり、「ドーナツ」という形になる。私たちは穴を食べているわけじゃあない。それなのに、その穴がなければ「ドーナツを食べた」という感覚にはならないのだから、不思議な食べ物だ。
考えてみれば、欠けていることは普通、不完全さを意味する。イギリスではYou doughnut!(お前、ドーナツだな!)」と言うと、「バカ」「間抜け」「アホ」「うっかり者」という意味だったりするそうだ。しかしよくよく考えてみると穴がなければ存在しえないドーナツはなんか違う。欠けているから完成している。真ん中を埋めた瞬間、それはもう別の食べ物になってしまう。ドーナツとは、欠けていることそのものが価値になっている、少し変わった食べ物なのである。
この比喩は、ラデクだけの話なのだろうか。
そう考え始めた時、この書評は革命家についての文章ではなく、人と人との「あいだ」とは何かを考える文章へと姿を変え始めた。我々は、どこかで「完成された人」を求め続けてきた。知識があり、能力があり、信念があり、誰よりも正しい人。しかし、人間は欠けたところを埋め続けた結果、誰も入り込めない存在になってしまうことがある。自分の正しさだけで埋め尽くされた言葉には余地がなく、自分の経験だけで閉じられた人生には他人が入り込む隙間がない。だから議論は勝敗になり、対話は説得になり、共同体は同じ考えの人だけを集め始める。欠けていることを恐れた結果、私たちは誰とも交わらない「完成された人」を目指してしまっているのではないだろうか。
ここまで考えて、ようやく一つのことに気が付いた。
オイラが惹かれたのは、「ドーナツ」という食べ物ではなかった。真ん中に空いた穴でもなかった。
「ドーナツを焼く」という行為だったのである。
普通、穴は掘るものだ。土に穴を掘り、壁に穴を開ける。穴とは、何かを失った結果として生まれるものだと思っていた。しかしドーナツだけは違う。あの穴は偶然に空いた欠落ではない。最初からそこに穴ができるように生地を整え、その形のまま焼き上げる。つまり、欠けていることそのものを、一つの形、完成形として作っているのである。
そして、その「焼く」という発想が最後までオイラの頭から離れなかった。ドーナツを焼くということは、欠けたものを補うことではない。欠けていることそのものを、一つの形として焼き上げることである。そう考えた時、不思議なことにラデクのことではなく、自分自身のことを考え始めていた。
TarCoon☆CarToonという名前が決まってもなお、オイラはずっと「自分は何を作ろうとしているのだろう」と考えてきた。TarCoon☆NetWorkについて紹介しようとしても、共同体という言葉では何か違う。思想と言っても収まりが悪い。コミュニティという言葉を使えば、どこか既存の仕組みを説明しているような気がする。何か大事なものが抜け落ちている。そんな感覚だけが、ずっと残っていた。
思い返せば、面白かったのはいつも「あいだ」だった。写真を撮る人がいて、美術を語る人がいて、SFを読む人がいて、歴史を研究する人がいる。それぞれが違うものを見て、違う言葉で話している。それなのに、一緒に話していると、自分一人では決して思い付かなかった考えが、ふっと現れる瞬間がある。その瞬間が好きだった。
その時になって、ようやく分かった。オイラが作りたかったのは、完成された共同体ではない。真ん中に誰のものでもない穴があり、それぞれが自分のままで関わり、それぞれが自分のままで帰っていく。誰かが中心に立って答えを与えるのではなく、その「あいだ」から何かが現れてくる。そんな場所だったのだ。
そう考えた時、「ドーナツ焼き」という言葉が、急にラデクだけのものではなくなった。人と人を結び付ける人。違う世界を越境し横断する人。誰かの代わりに答えを出すのではなく、人と人との「あいだ」に何かが生まれる場を作る人。そういう人のことを、「ドーナツ焼き」と呼ぶのではないだろうか。
だから、この書評を読み終えた時、ふとこんなことを思ってしまった。もしかすると吉川先生は、最初からTarCoon☆CarToonのことを考えながら、この書評を書いてくださったのではないだろうか。ラデクという革命家を紹介したかったというより、「ドーナツ焼き」という比喩を通して、「TarCoon☆CarToonとは、こういうことなんじゃないか」と、オイラへ返してくださったのではないだろうか。そう思った瞬間、この書評をTarCoon☆NetWorkで紹介してくださったことまで、一つの「ドーナツ焼き」に思えてきた。
それが嬉しかった。今度お会いした時は、吉川先生と一緒にドーナツ焼きをしようと思います。きっと美味しい!
改訂履歴 ダウンロード
この項目の表示は制限されます。この部分を閲覧できるのは、TarCoon☆NetWorkのメンバーに限られます。

コメントを残す