思いを巡らせるトゥーン書房 新書

人間を描くとは何か ──『ふつうの軽音部』のキャラクター演出(半木 糺)を読んで

半木糺さんがnoteに書かれた評論「『ふつうの軽音部』のキャラクター演出 ──『トラウマ方式』から脱却できるか──」を読んで考えたことです。……と言っても、オイラはまだ『ふつうの軽音部』を読んでいません。ごめんなさい。
とはいえ、半木 糺さんが読んでくださいと言ったのは、「ふつうの軽音部」の話をしたいからではないと思い、「人間を描くとは何か」という問いについて考えることにしました。

押井守が語る「トラウマ方式」、現代社会が人を理解する方法、人と人との「あいだ」、そして共同体とは何か。考えを巡らせているうちに、気が付けばいつものように、TarCoon☆CarToonやTarCoon☆NetWorkが大切にしているテーマへ戻ってきました。
『ふつうの軽音部』を読んだ方にも、まだ読んでいない方にも、一つの思索として読んでいただければ嬉しいです。

*この記事は、半木糺氏による評論「『ふつうの軽音部』のキャラクター演出 ──『トラウマ方式』から脱却できるか──」を読んで書いた感想文です。
*オイラは記事執筆時点で『ふつうの軽音部』本編を読んでいません。そのため、本作の内容そのものを論評するのではなく、半木さんの評論をきっかけに、「人間を描くとは何か」という問いについて考えた文章になっています。
*この記事では、押井守が語る「トラウマ方式」を手がかりに、人間を理解することと人間を描くことの違い、そして人と人との「あいだ」や共同体について考察しています。ぜひ半木さんの評論とあわせてお読みいただければ嬉しいです。
*この記事は全文無料でお読みいただけます。
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目次

半木糺さんの文章をこう読んだ

先日、半木糺さんから「読んでみてください」と、一つの文章を送っていただいた。それが、「『ふつうの軽音部』のキャラクター演出 ──『トラウマ方式』から脱却できるか──」という評論である。

まず断っておくと、オイラは『ふつうの軽音部』を一度も読んだことがない。作品の内容も、登場人物たちがどのような関係を結び、どのような時間を過ごしてきたのかも知らない。だから、オイラには『ふつうの軽音部』という作品そのものを批評することはできないし、半木さんの指摘が作品の実態にどこまで当てはまっているのかを判断することもできない。

ただし、オイラは押井守のファンである。そのため、半木さんの文章の中で、押井守の語る「トラウマ方式」という言葉が取り上げられていることに、まず強く惹かれた。

押井守が批判する「トラウマ方式」とは、登場人物の現在の性格や行動を、過去の傷や不幸な経験によって説明する演出方法である。なぜこの人物は他者を拒むのか。なぜ素直に振る舞えないのか。なぜ怒り、執着し、逃げ続けるのか。その理由を過去にさかのぼり、幼少期の出来事や心の傷を示すことで、現在の人物像に納得できる説明を与える。半木さんは、『ふつうの軽音部』において、この方法が繰り返し使われていることに違和感を抱いているようだった。

半木さんの文章を要約するなら、その主張は次のようなものではないかと思う。

「ふつうの軽音部」は面白い。しかし、演出が『トラウマ方式』に依存しすぎている。このままでは作品のテーマを描き切れなくなる危険がある。だから、遠野のような現在で描かれるキャラクターをどう生かすかが今後の鍵だ。──というのがオイラなりの要約だ

もちろん、これはオイラなりの読み方であって、半木さんの主張を完全に言い表したものではないかもしれない。それでもオイラには、半木さんが作品の面白さを認めながら、その面白さを支えているはずの人物描写が、やがて作品の可能性を狭めてしまうのではないかと心配しているように読めた。

つまり、これは単に「過去を描くな」という批判ではない。過去の事情を明かすことで人物を理解させる方法ばかりを重ねていけば、登場人物が現在の行動や他者との関係によって変化していく姿を描けなくなるのではないか、という問いなのである。

そしてオイラは、この問いに立ち止まった。作品を読んでいないオイラにも、「人間を過去によって説明すること」と「人間を描くこと」は、本当に同じなのだろうかという疑問が残ったからだ。

ただ、不思議だったのは、オイラの関心は「トラウマ方式は良くないのか」という結論には向かわなかったことだ。むしろ、「なぜ現代は、これほどまでにトラウマ方式を求めるようになったのだろう」という問いの方が、ずっと気になってしまったのである。

なぜ現代は「トラウマ方式」を求めるのか

「トラウマ方式」は本当に悪いものなのだろうか。

半木さんの文章を読みながら、オイラはそうは思わなかった。少なくとも、この演出方法がこれほど多くの作品で使われ、多くの読者に受け入れられている以上、そこには現代ならではの理由があるはずだと思ったからである。

少し前までなら、「変わった人」「困った人」「悪い人」と一言で片付けられていた人物に対して、現代は「なぜそうなったのだろう」と考えるようになった。家庭環境や幼少期の体験、心の傷、生きづらさや発達特性など、その人の背景を知ることで、安易に裁くのではなく理解しようとする。心理学や精神医学の知見が社会へ広がったことも、この流れと無関係ではないだろう。

SNSの普及も、この変化を後押ししているように思う。プロフィールを見て、その人がどんな人生を歩んできたのかを知り、発言の背景を探ろうとする文化が当たり前になった。人を理解するとは、その人の「現在」だけを見ることではなく、「これまで」を知ることだという感覚が、以前よりもずっと強くなっている。

そう考えると、「トラウマ方式」は決して安易な演出だから広まったわけではない。それは、現代人が他者を理解しようとする方法そのものなのかもしれない。

さらに言えば、読者が知りたいのは、キャラクターの過去だけではない。その物語を通して、自分自身を理解したいのではないだろうか。

「ああ、この人がこうなったのには理由があったんだ。」

そう思えたとき、人はキャラクターに共感すると同時に、自分自身の過去にも意味を見いだそうとする。トラウマ方式が支持されるのは、単にキャラクターを説明する技法だからではなく、読者自身の人生を理解するための技法でもあるからなのだと思う。

だからオイラは、「トラウマ方式」そのものを否定する気にはなれない。そこには、人を裁くよりも理解したいという、現代社会の優しさが確かにある。そして、その優しさは、これまで見過ごされてきた多くの人を救ってきたはずでもある。

そういえばここで思い出すのは、オイラが大好きな『新世紀エヴァンゲリオン』のことだ。多くの人があの作品を「心の傷を描いた作品」と語る。碇シンジや惣流・アスカ・ラングレー、綾波レイたちは、それぞれ深い孤独や葛藤を抱え、その姿に自分自身を重ね合わせた人も少なくない。

もちろん、登場人物がそのまま庵野秀明監督自身だと言うつもりはない。しかし、作品全体からは、監督自身が長い時間をかけて向き合ってきた苦悩や問いが滲み出ているように、オイラには感じられる。その切実さもまた、『エヴァンゲリオン』が単なるロボットアニメでは終わらず、多くの人を巻き込む作品になった理由の一つではないか。これはあくまでオイラ個人の見解だが、作品の力とは、作家が自分自身の問いを作品の中で引き受けたときに生まれるものなのだと思っている。

だから、トラウマを描くこと自体が問題なのではない。むしろ、作家自身の人生や経験、言葉にならない感情が作品へ滲み出ることは、小説でも映画でも漫画でも、創作の本質の一つなのだろう。

そんなことを考えていたとき、最近アニメ化が発表され、大きな話題になっている『みぃちゃんと山田さん』のことも思い出した。

この作品では、境界知能、貧困、家庭環境、搾取といった要素が幾重にも重なり、「ああ、この人がこうなったのには理由があったんだ」と読者に理解を促していく。その意味では、「トラウマ方式」の延長線上にある作品と言えるのかもしれない。

しかし、この作品が多くの人の心を揺さぶっている理由は、そこでは終わらない。

読み進めるほど、「ああ、この人がこうなったのには理由があった」という思いは強くなる。ところが、その理由が分かれば分かるほど、「理由が分かったところで、誰にも救えなかった」という現実もまた突きつけられるのである。

理解は深まる。しかし、救いは訪れない。

だからこそ、多くの読者の心に深く残り、アニメ化が発表された今も、その表現のあり方をめぐって様々な議論が起きているのだろう。描かれているのは、境界知能という一つの属性ではなく、その人を取り巻く社会や人間関係が生み出す、簡単には解決できない現実だからである。

そう考えると、「トラウマ方式」という一言では括れない気がしてくる。

そこには、人を説明するためだけに使われるトラウマもあれば、作家自身の人生から滲み出るトラウマもある。そして、社会そのものの残酷さを描き出すためのトラウマもある。

問題なのは、トラウマを描くことではない。

それが「この人はこういう過去があるから、今こうなんです」と人物を理解した気にさせる便利な説明装置として消費されてしまうことなのではないだろうか。

そう考え始めたとき、オイラの関心は「トラウマ方式は良いか悪いか」という話から少し離れていった。

本当に考えなければならないのは、人間を理解することとは何なのか。そして、人間を描くとは何なのか。その二つは、本当に同じことなのだろうか。

「理解すること」と「描くこと」は同じなのか

ここまで考えてきて、ようやくオイラは押井守の言葉に戻ってきた。

押井守は、「トラウマ方式」を批判するとき、「現在ただ今の生活の中だけで描けないものは、いくら過去を説明したところで描いたことにはならない」という趣旨のことを語っている。この言葉は昔から知っていたのだが、「現在を書け」とは一体どういうことなのだろう、とずっと引っ掛かっていた。半木さんの文章を読み、自分なりに考えを巡らせるうちに、オイラの頭には「原因」と「条件」という二つの言葉が浮かんできた。

トラウマや家庭環境、生育歴は、その人を形作る原因にはなる。しかし、人は原因だけで生きているわけではない。同じような境遇で育った人でも、その後の人生がまったく違うものになることは珍しくない。それは現在という時間の中で、誰と出会い、どんな共同体に身を置き、どのような役割を担い、何を守り、何を失うのかという条件が、一人ひとり違うからだ。原因だけでは結果は生まれない。そこへ現在という条件が重なって初めて、人は何かを選び、その人だけの人生を歩み始める。押井守が言いたかった「現在」とは、この「条件」のことなのかもしれない。

そう思って押井守作品を振り返ると、不思議なことが見えてくる。押井守は過去を描かない監督なのではない。過去を物語の「答え」にしない監督なのだ。

例えば『イノセンス』のバトーは、素子を失ったという喪失を抱えている。しかし映画が描いているのは、その喪失そのものではなく、トグサと共に事件を追い、人形たちと対峙し、その出来事の中で何を考え、何を選ぶのかという現在である。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』も、登場人物の過去ではなく、文化祭前日という終わらない「今」の中で、それぞれがどのように振る舞うのかを描いている。『機動警察パトレイバー』も同じだ。後藤隊長がどんな少年時代を送ったのかはほとんど語られない。それでも事件が起きたとき、何を優先し、どんな判断を下し、誰を守ろうとするのかを見ているうちに、「後藤喜一」という人間が立ち上がってくる。

つまり押井守は、過去を消しているのではない。過去を説明として消費するのではなく、「今、この人には何が起こり得るのか」「今、この人はどのような役割を担い得るのか」という現在の中へ溶け込ませているのである。だから人物は説明されるのではなく、生きているように感じられるのだろう。

そんな視点で作品を眺めると、『新世紀エヴァンゲリオン』も、『みぃちゃんと山田さん』も、過去だけで人物を描いているわけではないことが分かる。シンジは父親との関係だけで存在しているのではなく、ミサトや綾波、アスカたちとの関係の中で揺れ続けることで、一人の人間として立ち上がっている。一方、『みぃちゃんと山田さん』は、境界知能や家庭環境を知れば知るほど理解は深まるが、それでもなお、現在の社会や人間関係という条件が変わらない限り、人は簡単には救われないという現実を突きつけてくる。どちらの作品も、過去だけではなく、現在という条件が物語を動かしているのである。

こうして考えてみると、「トラウマ方式」という言葉だけでは、押井守の問題意識を言い表し切れないような気がしてきた。本当に問われているのは、過去を描くか描かないかではない。人間を「説明できる存在」として描くのか、それとも現在という条件の中で、他者との関係によって変わり続ける存在として描くのか、その違いなのではないだろうか。

そして、その問いをさらに考えていくと、人間を理解することと、人間を描くことは、本当に同じことなのだろうか、という疑問がオイラの中に残った。

人間は「あいだ」に現れる

オイラは、まだ『ふつうの軽音部』を読んでいない。

だから、ここから先は半木さんの文章を読みながら、オイラが勝手に考えたことだと思って読んでほしい。

もし『ふつうの軽音部』が「トラウマ方式」を取り入れているのだとしたら、それは単に登場人物の悲しい過去を並べるためではないはずだ。むしろ、それぞれが抱えているトラウマの重さに対して、軽音部という「今ここ」の共同体がまだ十分に描かれていない。そのアンバランスさを、半木さんは「トラウマ方式」という言葉で表現しようとしているのではないか。もちろん、これは作品を読んでいないオイラの推測に過ぎない。だから、読まなきゃいけないなぁと思った。

そして、もしオイラの推測が少しでも当たっているのだとしたら、この作品はこれから、とても大きな可能性を持っているのではないかとも思う。

現代は個人主義の時代である。あらゆる問題が個人へと還元され、努力も能力も、生きづらさも、「あなた自身の問題でしょう」と言われがちな社会だ。だからこそ、トラウマを軸にした物語は、多くの読者の心を惹きつけるのだろう。自分の苦しさにも理由がある、自分だけではなかったと思えることは、大きな救いになる。

AIがさらに発達すれば、一人ひとりにAIが寄り添い、孤独を慰め、相談に乗り、それぞれがAIに支えられながら生きる未来もやって来るかもしれない。それも一つの救いなのだろう。しかし、人間の救いは、本当にそこだけなのだろうか。

だからオイラは、『ふつうの軽音部』というタイトルに期待してしまう。もしこの作品が、個人のトラウマを描くだけではなく、軽音部という共同体の中で、人との関係によって少しずつ変わっていく姿を描こうとしているのだとしたら、それは現代という時代に対する一つの希望になるのではないか。そうであってほしい、と勝手ながら期待している。

半木さんの「トラウマ方式」という問いを考えていたはずなのに、結局オイラは、いつものことを考えていた。

人間は、一人で完結する存在ではない。

これは特別な話ではない。誰もが知っている、ごく当たり前のことだ。しかし、人を理解しようとすると、不思議なくらいオイラたちは、その人の内側ばかりを見ようとしてしまう。どんな家庭で育ったのか、どんな傷を負ったのか、どんな性格なのか。それらは確かにその人を理解するための大切な手掛かりではある。しかし、その材料をいくら集めても、「この人とはどういう人なのか」という実感には、なかなか辿り着けない。

考えてみれば、それは現実の人間関係でも同じだ。長年付き合っている友人のことを好きなのは、生い立ちを知っているからではない。一緒に笑い、失敗し、悩み、ときには衝突しながら時間を過ごしてきたから、その人がどういう人なのかを少しずつ知っていく。もし履歴書のように過去だけを読まされても、その人と友達になれるわけではないだろう。

つまり、人間は自分の中だけに存在しているのではなく、人と人との「あいだ」に現れる存在なのだと思う。

だから押井守作品には、説明のためだけに存在する人物がほとんどいない。『機動警察パトレイバー』の特車二課も、『攻殻機動隊』の公安九課も、一人ひとりの生い立ちを延々と説明されることはない。それでも、後藤隊長と南雲隊長、素子とバトー、バトーとトグサという関係を見ているうちに、それぞれの人物像が自然と立ち上がってくる。人間は設定ではなく、関係の中で見えてくるのである。

そう考えると、『ふつうの軽音部』という作品の舞台が、なぜ「軽音部」なのかも少し違って見えてくる。軽音部は、一人では成立しない。ギターだけでも、ドラムだけでも、ベースだけでも音楽にはならない。それぞれが違う役割を持ち、互いの音を聴きながら、一つの演奏をつくり上げていく。その中で、ときにはぶつかり、ときには支え合い、自分でも知らなかった一面が現れてくる。

もし人間が「あいだ」に現れる存在なのだとしたら、人物を描くということもまた、その「あいだ」を描くことなのではないだろうか。過去は、その人を理解するための大切な手掛かりである。しかし、人間は過去だけでは完成しない。現在という条件の中で他者と関わり、役割を持ち、ときには傷付き、ときには誰かを支えながら、初めてその人らしさが現れてくる。

だから、半木さんの問いを考えていたら、結局オイラは、人間とは何かという、いつもの問いへ戻ってきてしまった。『ふつうの軽音部』が最後に何を描こうとしているのかは、まだ読んでいないオイラには分からない。しかし、もしその答えが人と人との「あいだ」にあるのだとしたら、オイラがこの作品に期待しているものも、そこにあるのだと思う。

書評は、人を別の場所へ連れていく

半木さんは、『ふつうの軽音部』の面白さを認めながら、「トラウマ方式」への依存が作品の可能性を狭めるのではないかと問い、遠野のように「現在」で描かれるキャラクターをどう生かすかが、今後の鍵になると書いていた。オイラは『ふつうの軽音部』を読んでいないので、この問いが作品の核心を突いているのかどうかは分からない。それでも、ここまで考えてしまった以上、読まなきゃいけないなぁと思った。

ところがオイラは、『ふつうの軽音部』そのものではなく、「トラウマ方式」という言葉に引っ掛かり、押井守作品のことを思い出し、人間は何によって理解されるのかを考え、気が付けば人と人との「あいだ」や、共同体とは何かというところまで話が広がってしまった。結局、この感想文は『ふつうの軽音部』の感想文ではなくなってしまったのである。

でも、それで良かったのだと思う。文学や批評の価値は、作品の内容を正確に要約することだけではない。一つの文章が別の人の中に新しい問いを生み、その問いがさらに別の思索を呼び起こしていく。その連鎖の中で、本も書評も、最初に書かれたときとは少し違う意味を持ち始める。「この本は面白かった」で終わる文章ではなく、読んだ人まで考え始めてしまう文章。答えを与えるのではなく、自分でも気付いていなかった問いを見つけてしまう文章。そして、その問いを抱えたまま、もう一度作品へ戻りたくなる文章。オイラは、そういう文章が好きだ。

半木さんは、「読んでみてください」とオイラにメッセージを送ってくれた。その一言から始まったはずなのに、オイラはちゃんと遠回りをしてしまった。でも、その遠回りがあったからこそ、『ふつうの軽音部』を読む前に、人間とは何か、共同体とは何か、そして人を描くとは何かという、オイラがいつも考えている問いへ戻ることができた。

そして何より、半木さんの文章は、『ふつうの軽音部』について考えさせてくれただけではなかった。TarCoon☆CarToonとは何なのか。TarCoon☆NetWorkで何を考え、何を願っているのか。そんなことまで、改めて考えさせてもらった。

半木さん、ありがとうございました。

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